1998年11月18日水曜日

『八日目』『女と男の危機』

 

・映画館で公開されるのはアメリカ映画ばかりだから、ついついフランス映画のことなど忘れてしまいがちだが、衛星放送をこまめにチェックすれば、最近のものを結構見ることができる。で、わりとおもしろい。
・『八日目』は1996年の作品で監督はジャコ・ヴァン・ドルマル。聞いたことない人だが、それは出演者についても同じだ。話は妻子が出ていってひとりぽっちになった男と、施設をぬけだしたダウン症の青年の出会いからはじまる。男は最初、母に会いたい青年をしぶしぶ車で送り届けようとする。母親はすでに死んでいることがわかると、男は頭にきて青年を置き去りにしようとするが、気になって引き返してしまう。そうすると、激しい雨の中で青年が立ちつくしたままでいる。「戻ってくると思った」と言う青年の笑い顔に男は心を開かれる。
・別居の原因は男の身勝手さにある。だから、妻と子どもが住む家をたずねても、妻はもちろん、子どもとて喜びはしない。せっかくここまできたのにと思うと怒りが爆発してしまうが、それこそ、男の身勝手というものである。彼は、ダウン症の青年の純真無垢さ、人を信じる心にふれながら、しだいに妻や子どもたちが去った理由に気づくようになる。で、子どもの誕生日のプレゼントに花火をたくさん買い込んで、家の前で一斉に点火させる。危うく火事になりかけるが、それで、妻や子どもの心を向けさせることに成功する。
・『女と男の危機』もテーマや設定がよく似ていた。1992年の作品で、監督はコリーヌ・セロー、出演はバンサン・ランドン。こちらもぼくには知らない人ばかりだった。
・弁護士の主人公が朝目を覚ますと妻がいない。子どもたちがバカンスに行く日なのにである。義母に任せて出勤すると、解雇通知が机の上に置いてある。上司に悪態をつき、相談に乗ってもらおうと友人を訪ね回るが、誰も彼も自分の抱える問題で手一杯で、話すら聞いてくれない。男はその冷たさを非難する。ここらあたりの会話のすさまじさは、映画を見続ける気さえなくさせるほどで、フランス人てこんなに激しかったのかとあらためて思ってしまう。
・酒場で隣り合わせた男がビールをおごってくれと言う。文無しの風来坊。見るからに風采が上がらないが、それに輪をかけて頭も悪そうだ。しかし、主人公が自分の話をぶつけることができたのは、彼が最初だった。ちょっと落ち着いた気分になって酒場を出ようとすると、その風来坊もついてくる。
・実家にかえって親に相談しようとすると、母が10歳も若い男と不倫をして家族会議の最中で、自分の話などは持ち出せない状況だった。母親は夫のため、子どものためばかりに生きてきて、自分を取り戻したくなったのだと言う。そのことばに、男は妻の家出の理由を見つけた気がした。
・登場人物の誰もが高慢ちきなエゴイスとばかり。ただ一人風来坊だけがちがう。その社会から取り残された人間だけがかろうじて人間性を失わないでいる。自分の生活が破綻しなければ、見向きもしない人間に救われていく。二本の映画に共通したテーマは、けっしてフランスだけの特殊な状況ではない気がした。
・誰もが生き残りをかけたサバイバル・ゲームのなかにいる。関わる人は誰であってもまず、自分にとって役に立つとか、ためになるとかいう、エゴイスティックな理由で選ばれる。友人、結婚相手、そして子どもや親とて例外ではない。仕事だって、いったい何をやっているのかあらためて考えたら、モラルも社会的意味もなくなっていることに気づくばかりだ。で、誰もが、そのことに気づかないふりをして、誰より自分自身をごまかしている。そのためのさまざまな破綻。実際今怖いのは経済不況よりはこっちの方だと、映画を見ながらつくづく考えさせられた。

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