1999年4月20日火曜日

M.コステロ、D.F.ウォーレス『ラップという現象』(白水社)ジョン・サベージ『イギリス「族」物語』(毎日新聞社)

 

・音楽と若者の風俗の変遷は、50年代のアメリカ以来、ずっとくり返されている現象だ。今はなんといってもラップとヒップ・ホップ。発信源はニューヨークのハーレムだが、音楽にかぎっていえば、ここ数年はグラミー賞を総なめするような勢いで、日本でも、ちょっとそんな雰囲気を感じさせる宇多田ヒカルが奇妙なほど受けている。理由は日本人離れしたリズム感とかつての演歌の女王・藤圭子の娘であることらしい。

・『ラップという現象』は1990年に出版されている。翻訳が出たのは去年(98)だから、そこには10年近いタイム・ラグがある。しかしそれだけに、まだまだマイナーな音楽だったラップがもっていた魅力や毒についての記述があって、ぼくはとてもおもしろいと思った。たとえば、次のような文章。


「たとえ僕らの外側の世界のできごとではあっても、僕らに十分感じとれる生身の人間の生きざまの真剣な表現」
「シリアスなハード・ラップを通過することで、白人市民も鬱積し破裂せんとするアメリカの都市内奥部のコミュニティが直面する、生/死の苦悶をダイレクトに知ることができる。」


・ラップは「黒人のあいだで完結した、白人にとって<他者>である音楽」として生まれ、存在し続けてきた。それは何よりアメリカが人種によって分離されてきた国だから生じた特徴で、「公民権運動」の過程で強く批判されたところだが、この本の著者たちは、ラップがパワーをもった音楽になりえたのは、黒人たちがその「円環」のなかに閉ざ」されてきたからだという。

・ラップは基本的には、早口でまくし立てることば(しゃべる歌詞)とサンプリングによって作られたリズムで成りたっている。セックス描写、金やモノに対する欲望、そして白人攻撃......。そのあまりに露骨なことばに白人たちは嫌悪感をもつが、同時に、そのリズムにはからだを反応させてしてしまう。怖さや気持ち悪さの感情を持ちながら、同時に窓の外からのぞき込みたい衝動に駆られるできごと。

・若い黒人たちにとってもラップは単に自己表現の音楽というだけではない。それは何より金や名声を得るための手段である。だから誰もが、メジャーのレコード会社と契約し、マスコミに取り上げられ、人種の垣根を越えて、自分の歌がアメリカ中や世界中でヒットすることを夢見ている。光の当たった「ポップ」の世界を否定しながら同時に、「ポップ」の舞台に登場することを目指す音楽。

・ラップにまつわる「アンビバレント」な要素はまだまだある。たとえば、きわめて単純で無骨にすら思える歌詞とデジタル技術を駆使した音づくりなど。それは何よりラップが90年代になってポップの1ジャンルとして確立していった理由の一つだが、同時にポップの歴史の中ではまた、それぞれの特徴に見られる「アンビバレント」な側面というのが、新しい現象が生まれたときには必ず見られた大きな特徴でもあった。たとえば、50年代に登場した黒人の R&Bとそれを模倣した白人のロックンロール、あるいは60年代のロック、そして70年代のパンクやレゲエ。

・もう一冊『イギリス「族」物語』は、60年代から70年代にかけてイギリスに登場した若者のサブカルチャー、たとえば、「テディ・ボーイ」「モッズ」「ロッカーズ」「スキンヘッズ」「グラム」、そして「パンク」などを取り上げている。上野俊哉が解説で書いているように「戦後のイギリスにおけるサブカルチャーのスタイル、風俗、身ぶり、儀礼的な慣習行為の細部」を丹念に追った本であることはまちがいない。しかし、読んでいて、S.フリスや D.ヘブディジが必ず問題にする「階級」という視点がないのがもの足りなかった。これでは、風俗の詳細はわかってもそれぞれの関係の社会的背景は見えてこない。

・学生とつきあっていると今のはもちろん、時折、60年代や70年代の若者のサブカルチャーに関心をもつ学生が現れる。で、その理由を聞くと、というより問いつめると、結局好みの問題として逃げられてしまうことが多い。ぼくはそんなときに、単にサウンドやファッションだけでなく、自分が生きている社会との状況の違いまで理解してほしいと思ってしまうが、そのために役に立つ本はまだまだ豊富だとはいえない。(1999.4.20)

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