1999年4月13日火曜日

職場が変わったことへの反応など

 

  • 4月から職場が変わったので、ずいぶんメールのやりとりがあった。一つはお叱り。これにはただただ「ごめんなさい」と謝るしかなかった。とりわけ追手門学院大学社会学科の1年生と2年生。「入門社会学」や「基礎演習」、それに「コミュニケーション論」を履修していた学生。大学を変わるのを直接話したのは3年生のゼミの学生だけだったから、4月になって気づいた人も多かったようだ。「先生のゼミに行こうと思って追手門に来たのに」などと言われると、あらためて、彼や彼女たちを裏切ってしまったのだなと、反省してしまった。
  • 同様のメールは学外からもあった。高校や予備校の先生で、このホームページやいくつかの新聞記事から生徒達に追手門の社会学科を推薦したのに、突然いなくなったのでは、文句を言われてしまう、という内容のものだった。予備校が「偏差値ではない大学選びを」と言い、別冊宝島が『学問の鉄人』という特集をした。それに合わせていくつかの新聞が研究室訪問といった連載をした。そんな場で紹介され、ぼくのHPに訪れる人の数も1週間に500人を越えるようになっていた。
  • 大学がどんなところで、どんな先生がいて、何を勉強し、経験できるのか。ぼくはそんなことを直接、受験生や高校の先生に発信することを意図してHPを作りはじめた。インターネットの高校への浸透度は、まだまだ低いものだが、ほとんどの高校生が自由に使えるようになるのにそれほどの時間はかからないはずで、その時になってあわてて対応しようとしても、間に合わない。そんな見通しがあった。反応を実感することはほとんどなかったが、職場の変更が、このHPの影響力を表面化させることになった。しかも、「予告もなしに突然いなくなったのでは困る」という言い訳のできない文面で.......。何とも複雑な気持ちに襲われた。移籍をHPで予告することはできないし、また、HPを理由もなしに終了させることもできなかった。
  • インターネットやHPがこんなにポピュラーにならなければ、たぶんこんなケースは起こらなかっただろう。それぞれに閉じられた組織や集団に所属する者が直接コミュニケーションをする。それは、立場やさまざまな垣根をいとも簡単に乗り越える。そのおもしろさや可能性に夢中になれば、当然、それゆえに生じる問題からも無関係ではいられない。
  • ただ、言い訳になるかもしれないが、その気になれば、HPやメールによって関係は持続できるわけだし、直接会うよりもっと有効なコミュニケーションができる。そんなことを実感させるメールのやりとりも出来はじめている。講義を聞いていた顔もわからない学生から「先生、梅田で〜という映画を見ました」といったメールが届くと、ぼくは何はさておき、うれしくなってすぐ返事を書いてしまう。卒論の相談だって遠慮なくしてくれたらいいなと思う。けれども、追手門にはいい先生がたくさんいるから、そのうちにぼくがいたことなど気にする学生はいなくなってしまうにちがいない。それはそれで、ほっとするような、またちょっと寂しい気になる予測だが......。もっとも、東経大の学生からもメールが来はじめていて、それはそれで楽しいから、忘れてしまうのはぼくの方が早いのかもしれないが、そんなことはしてはいけないと戒めている。
  • シニード・オコーナーのCDを欲しがったフィンランドの青年に「ぼくのを譲ってもいい」と書いたら、待ちきれなくてインターネットで探して手に入れたという返事が来た。忘れていたわけではなかったが、忙しかったし、見つからなかったから3ケ月もほったらかしにしてしまった。悪いことをしたけど、とにかく手に入れることができてよかった。
  • もうひとつペルーのリマ大学で「カラオケ」を卒論のテーマにしている学生から、日本での歴史についての文献をたずねるメールが来た。南米からははじめてで女性だったから、何とかしてあげようとも思ったが、あてがなかったのでこれは粟谷君にふることにした。
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。