・4月から勤務先である大学が変わった。大阪から東京。しかし、いくつか理由があって相変わらず京都に住み続けている。だから、毎週のスケジュールは大学への出講日にあわせて水曜の朝に京都から新幹線に乗って、その日の午後と木、金と仕事をして、また新幹線で深夜に京都に帰る、ということになった。で、そんなパターンで1ケ月以上が過ぎた。「大変ですね」と言われるし、ぼくも最初はそう思ったが、今のところ、しんどさよりはおもしろさを感じることが多い。
・今さらながらに驚いたのは、早朝、あるいは夜更けの新幹線が満員であること、その大半が中年のサラリーマンであることだ。朝の新幹線は完全に関西から名古屋への通勤列車になっているし、金曜の夜は家に帰る単身赴任のお父さんらしい人で一杯だ。職住近接とかSOHOといったことばがはやっても、仕事のための移動に多くの時間を使う人が多いのは相変わらずのことなのである。今までほとんど電車にも乗らなかったぼくにとって、そんな通勤での体験は新鮮だ。
・毎週1000kmの移動をしているわけだが、もちろん旅をしているのだという感覚はほとんどない。片道4時間ほどをウォークマンで音楽を聴きながらの読書で過ごしている。これがなかなか集中できて、研究室よりもはるかに本が読めるから、かえって読書量は増えそうである。そんなふうにして読んだ今福龍太の『クレオール主義』に「場所と移動」についての記述があって、新幹線の中で読んだせいか共感する部分が多かった。
たとえば、ある場所に「住む」という経験について考えてみる。「定住」は従来から「移動」に対立する概念としてしばしばこれと対照させられてきた。しかし現代社会のなかで、「住む」ことは「移動する」こととますます「経験」として区別できなくなりつつあるように見える。......中略.......現代は、移動の論理の上にたってようやく危うい定住の形式を手に入れているにすぎない。
・今福はこのように書いたあとで、「私たちの日常の『生活』が、移動機関の内部から<場所>を眺めるかたちで遂行されている」と言い、移動手段を、日常を描く筆記用具にたとえて話を展開している。「たしかにそうだ」とぼくは思い出したように新幹線から外の景色を眺め、それから、ぼくが住むところ、働く場、生活の場所を思い浮かべた。「いったいぼくは、どこにいるんだろうか?どこから来て、どこに行こうとしているのだろうか?」
・ぼくは人生の半分ずつを関東と関西で生活してきた。だから学生にはずっと東京弁の先生と言われてきたが、東京で、関西弁の先生と言われてしまった。自覚がないわけではなかったが、関東弁と関西弁がチャンポンになっていて、聞き手はその聞き慣れないことばの方に関心を向けるのである。もちろん、だからといって「故郷喪失者」や「デラシネ」などといった心持ちになるわけではない。むしろ、今福の言う「クレオール主義」の実践者のような気になった。
・「クレオール」とは移動や交易によって生みだされた、一種の簡略化された言語で、ブロークンなものとしてみなされることが多いが、それはまた母語として、主要な表現手段としても使われている。そのさまざまな言語や文化の交差から生まれたという特徴に、今福は偏狭なナショナリズムや民族主義、あるいは定住への固執がもたらす弊害を乗り越える道を求めている。それほど大げさなものではないが、ぼくの使うことばや、文化的基盤には今、疑似クレオールと呼べるものがたしかに実感できる。
・だから、「ぼくはどこにもいない人」(nowhere man)ではなく、ここにも、あそこにもいる人。アイデンティティにこだわりながら、いつまでもそれを未成のままにしておきたい人。こんなことを勝手に考えている間に、「ひかり」は東京に着いてしまった。ひとときの同乗者たちがホームに降りて、それぞれに散っていく。ぼくは中央線に乗って国分寺へ、3講目に「社会学」の講義をしなければならないし、そのあとは2年生のゼミだ。研究室にテレビとコンポをいれて、早く居心地のいい部屋にしよう。(1999.05.14)
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。