1999年10月26日火曜日
賀曽利隆『中年ライダーのすすめ』平凡社新書
1999年10月20日水曜日
Sting "Brand New Day",Steave Howe "Portraits of Bob Dylan"
・スティングは好きなミュージシャンの一人だった。大阪城ホールで
5、6年前に見たコンサートは3人だけのシンプルな編成で、ぼくはじっくり聞かせる歌い方を堪能した。"Ten Summer's
Tale"が出た後だったと思う。いい曲がたくさん入ったアルバムで、車の中でくりかえし聞いた。
・しかしその後、彼が登場したテレビCMを見てから、すっかり興ざめしてしまった。確か宮崎県の海岸に建つホテルだったと思う。彼はご丁寧に、そのホテルでコンサートを開いて客集めに一役買ったりもした。僕はたまらなく違和感をもった。
・もちろん、ロック・ミュージシャンはCMに出てはいけないという決まりはない。彼らにとっては自分でつくった音やことばはもちろん、姿形や生きざまだって商品として売られるものなのである。けれども、だからこそ、自らの商品化には意識的になってほしいとも感じてしまう。彼はずっと、アマゾンの熱帯雨林破壊の反対運動に賛同して、そのためのコンサートなどに積極的に出演していた。第一、スティングの音楽の良さは、その抑制された歌い方にあったはずである。「もう十分お金は手に入れたんじゃないの?」というのが、テレビに出たスティングに向けたぼくのことばだった。
・1996年に出た"Mercury
Falling"は一般的な評価がどうだったのか知らないが、僕にとっては悪くはなかったが、印象の薄いアルバムだった。だから、くりかえし聴くことはなく、やがて、スティング自体も聴かなくなってしまっていた。シルベスター・スタローンの『デモリッシュマン』の音楽なども担当して、話題にはなっていたが、僕には、彼についてのイメージをますます違うものにする意味合いしか感じられなかった。
・で、今回のニュー・アルバムだが、たまたま見つけて久しぶりに聴いてみようかという気になった。"Brand New Day"。その最後の同名の曲には次のような一節があった。何やらこっちの気持ちをくすぐるような文句である。
なぜ時計をゼロにできないのだろう
有り金はたいて買ったモノを売ってしまおう
真新しい日をスタートさせる
時計を完全に元に戻して
彼女が戻ってくるかどうかわからないが
僕はまっさらのブランドで考える
・もう一枚一緒に買ったのはスティーブ・ハウの"Portraits of Bob Dylan"。ハウはYES のギタリストでそのテクニックのすごさで知られるが、彼がディランに心酔していることをこのアルバムで始めて知った。中身は全てディランの曲。それらをハウ自身はもちろん、何人もの人たちが歌っている。ハウらしい静かなトーンでつくられていて、それなりにいいと思ったが、しかし聴いているうちにディランのオリジナルが無性に聴きたくなった。
・あのエネルギー、あの鋭さ、あの節回しがなければ、どれもこれもただのフォークやロックのスタンダードになってしまう。ディランのカバーで今まで、あのザ・バンドを除いて、ディラン自身よりいいというものに出会ったことがない。彼の作った歌はその存在抜きには考えられないのかもしれないが、それは、思い入れの強い僕個人の感覚だけなのかもしれない。
1999年10月13日水曜日
「社会学」のレポートを読んでの感想
1999年10月6日水曜日
最近のテレビはおかしくありませんか
・大学に長くいてつくづく思うのは、最近、政治はもちろん、文化の新しい流れが大学からはまったく生まれなくなったということだ。今、社会の流れを敏感にキャッチして、新しい方向づけをする役割は、大学生ではなく、高校生や中学生の女の子である。
・白髪模様の頭に厚底サンダルで肌はこんがり小麦色。今年の夏はどこにいてもこんな高校生の女の子ばかりだった気がする。で、大学でも今頃になって見かけるようになった。何も高校生のまねをしなくてもと思う。茶髪頭の数と偏差値は反比例するといった説を何年か前に耳にして、経験的に確かにそうだなと納得したことがあったが、今は厚底サンダルでそんなことが測れるのかもしれない。
・こんな傾向を見ていると、今の流行の発信源には「アホで幼稚」な感覚が必要なのだとつくづく感じてしまう。たとえば、テレビにはものを知らない女の子たちを笑う番組がたくさんあって、よってたかって馬鹿にしたりしているが、彼女たちも知らないことを恥じたりはしない。とんちんかんな受け答えをしても、あっけらかんとしている。彼女たちは何より、テレビに映されただけで満足なのだ。トレンドはそんな女の子たちとテレビが共謀してつくりだす。
・ダスティン・ホフマンとジョン・トラボルタの『マッド・シティ』を見た。恐竜博物館にライフルを持って立てこもった男と、そこに潜入して独占中継を試みるキャスターの話.
犯人に同情したキャスターは、世論を喚起するためにシナリオを作成して、犯人に演技をさせる。失業、路頭に迷う家族、思いあまっての犯行.....。うまく行きかけるが、ライバルのキャスターの横やりがあって、犯人は自爆する。定番のメディアものだが、おもしろかった。
・世論も流行もメディアがつくりだす。今さら断る必要もないことだ。ただ、メディアは、かつてはそれを悟られないようにやってきたはずだが、今ではあからさまにやる。「サッチー」の話題はもう半年以上もつづいているが、僕にはいったい何が問題なのかいまだにわからない。長島巨人の「メイク・ミラクル」を読売系以外のテレビがあんなに煽った理由もわからない。コマーシャルやドラマの主題歌にしてヒット曲を出す、というのは昔の話で、今は番組の中で出演者に歌わせて、それを実際にヒットさせる、といったことをやっている。ヒッチハイクでの冒険旅行の中継が、すでに何人もの人気タレントをつくりだしたことは今さら言うまでもないだろう。台風の最中に岸壁に立たせ、台湾の地震では阪神大震災の反省もなくヘリを飛ばし、災害現場でわがもの顔に振る舞っていた。神奈川県警の腐敗ぶりを叱り、東海村の核の事故を批判する口調は激しいが、NHKも民放も、局内でのセクハラやトイレの覗きといった下品な話題にあふれているし、アイドル化した女子アナはまたスキャンダルの餌食でもある。
・テレビ俗悪論は放送の開始時点からあって、僕はそのような議論にはほとんど与しなかったが、最近は本当に俗悪、というよりは醜悪になったなと思ってしまう。かつて、テレビの制作者はテレビ番組が俗悪なのは視聴者がそれを望んでいるからだ、と居直っていた。しかし、今はそうではなく、テレビ自体が俗悪さをふりまいている。何より「アホで幼稚」なのは視聴者や登場して喜ぶ素人ではなく、テレビ番組をつくる側なのである。しかも、同じ顔が次の瞬間には社会の良心といった表情に豹変するから、よけいに始末が悪い。警察や核施設のいい加減さがルールやマナーの軽視、たかをくくった慢心にあるとすれば、同じことはメディアにだって言えるはずである。テレビは何でもできる。テレビといえば誰もがにじり寄ってくる。そんな意識にスポイルされている。
・そんなふうに考えると、あまり邪心もなく、自分の外見をさまざまに変えては面白がっている少女たちの行動には、かえってほほえましい感じすら覚えてくる。自分たちが面白いことをやれば、メディアが追いかけてきて、それを話題にしてくれる。だから、馬鹿にされたってかまわない。彼女たちからのこんな自己主張にはけっして「アホで幼稚」と片づけてしまうことができないものがふくまれている気がする。とは言え、ちょっと遅れてまねする「フォロワー」の女子大生には、目につくせいもあってか、やっぱり、何とかしてよと言いたくなってしまうのも正直なところである。
-
12月 26日: Sinéad O'Connor "How about I be Me (And You be You)" 19日: 矢崎泰久・和田誠『夢の砦』 12日: いつもながらの冬の始まり 5日: 円安とインバウンド ...
-
・ インターネットが始まった時に、欲しいと思ったのが翻訳ソフトだった。海外のサイトにアクセスして、面白そうな記事に接する楽しさを味わうのに、辞書片手に訳したのではまだるっこしいと感じたからだった。そこで、学科の予算で高額の翻訳ソフトを購入したのだが、ほとんど使い物にならずにが...
-
・ 今年のエンジェルスは出だしから快調だった。昨年ほどというわけには行かないが、大谷もそれなりに投げ、また打った。それが5月の後半からおかしくなり14連敗ということになった。それまで機能していた勝ちパターンが崩れ、勝っていても逆転される、点を取ればそれ以上に取られる、投手が...