1999年10月6日水曜日

最近のテレビはおかしくありませんか

 

・大学に長くいてつくづく思うのは、最近、政治はもちろん、文化の新しい流れが大学からはまったく生まれなくなったということだ。今、社会の流れを敏感にキャッチして、新しい方向づけをする役割は、大学生ではなく、高校生や中学生の女の子である。
・白髪模様の頭に厚底サンダルで肌はこんがり小麦色。今年の夏はどこにいてもこんな高校生の女の子ばかりだった気がする。で、大学でも今頃になって見かけるようになった。何も高校生のまねをしなくてもと思う。茶髪頭の数と偏差値は反比例するといった説を何年か前に耳にして、経験的に確かにそうだなと納得したことがあったが、今は厚底サンダルでそんなことが測れるのかもしれない。
・こんな傾向を見ていると、今の流行の発信源には「アホで幼稚」な感覚が必要なのだとつくづく感じてしまう。たとえば、テレビにはものを知らない女の子たちを笑う番組がたくさんあって、よってたかって馬鹿にしたりしているが、彼女たちも知らないことを恥じたりはしない。とんちんかんな受け答えをしても、あっけらかんとしている。彼女たちは何より、テレビに映されただけで満足なのだ。トレンドはそんな女の子たちとテレビが共謀してつくりだす。

・ダスティン・ホフマンとジョン・トラボルタの『マッド・シティ』を見た。恐竜博物館にライフルを持って立てこもった男と、そこに潜入して独占中継を試みるキャスターの話. 犯人に同情したキャスターは、世論を喚起するためにシナリオを作成して、犯人に演技をさせる。失業、路頭に迷う家族、思いあまっての犯行.....。うまく行きかけるが、ライバルのキャスターの横やりがあって、犯人は自爆する。定番のメディアものだが、おもしろかった。
・世論も流行もメディアがつくりだす。今さら断る必要もないことだ。ただ、メディアは、かつてはそれを悟られないようにやってきたはずだが、今ではあからさまにやる。「サッチー」の話題はもう半年以上もつづいているが、僕にはいったい何が問題なのかいまだにわからない。長島巨人の「メイク・ミラクル」を読売系以外のテレビがあんなに煽った理由もわからない。コマーシャルやドラマの主題歌にしてヒット曲を出す、というのは昔の話で、今は番組の中で出演者に歌わせて、それを実際にヒットさせる、といったことをやっている。ヒッチハイクでの冒険旅行の中継が、すでに何人もの人気タレントをつくりだしたことは今さら言うまでもないだろう。台風の最中に岸壁に立たせ、台湾の地震では阪神大震災の反省もなくヘリを飛ばし、災害現場でわがもの顔に振る舞っていた。神奈川県警の腐敗ぶりを叱り、東海村の核の事故を批判する口調は激しいが、NHKも民放も、局内でのセクハラやトイレの覗きといった下品な話題にあふれているし、アイドル化した女子アナはまたスキャンダルの餌食でもある。

・テレビ俗悪論は放送の開始時点からあって、僕はそのような議論にはほとんど与しなかったが、最近は本当に俗悪、というよりは醜悪になったなと思ってしまう。かつて、テレビの制作者はテレビ番組が俗悪なのは視聴者がそれを望んでいるからだ、と居直っていた。しかし、今はそうではなく、テレビ自体が俗悪さをふりまいている。何より「アホで幼稚」なのは視聴者や登場して喜ぶ素人ではなく、テレビ番組をつくる側なのである。しかも、同じ顔が次の瞬間には社会の良心といった表情に豹変するから、よけいに始末が悪い。警察や核施設のいい加減さがルールやマナーの軽視、たかをくくった慢心にあるとすれば、同じことはメディアにだって言えるはずである。テレビは何でもできる。テレビといえば誰もがにじり寄ってくる。そんな意識にスポイルされている。
・そんなふうに考えると、あまり邪心もなく、自分の外見をさまざまに変えては面白がっている少女たちの行動には、かえってほほえましい感じすら覚えてくる。自分たちが面白いことをやれば、メディアが追いかけてきて、それを話題にしてくれる。だから、馬鹿にされたってかまわない。彼女たちからのこんな自己主張にはけっして「アホで幼稚」と片づけてしまうことができないものがふくまれている気がする。とは言え、ちょっと遅れてまねする「フォロワー」の女子大生には、目につくせいもあってか、やっぱり、何とかしてよと言いたくなってしまうのも正直なところである。

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