・家のまわりの雪は相変わらず30cm以上積もっている。日に照らされて溶けてはいるのだが、冷たい風にさらされた水はすぐに凍って大きなつららになる。それが地面に落ちて、下を氷面にする。1月27日のような大雪はないが、何度か雪も降った。そんなわけで、もう1カ月半以上、あたりは銀世界のままだ。
・最初は、精出して雪かきをし、ソリ滑りやカマクラづくり、あるいは雪だるまなどもやったが、もう雪が当たり前になると、地面が懐かしくなる。何より薪割りができないのがつらい。割るべき木は雪の下だし、掘り出してきても、しっかり凍っている。割ろうとしても刃が立たないのだ。周囲に湿気があるから過ごしやすいのだが、割った木が乾いてくれない。で、そろそろ、ストーブ用の槇が心細くなってきた。春が待ち遠しい。こんな気分になったのは久しぶりのことだ。
・とはいえ、雪の世界にも何気ないところで驚くような発見がある。1mも積もった雪かきをしながら、思わず見とれてしまったのだが、積もった雪に穴をあけると、底が青い。カマクラを作って中にはいると、日中は光が微かに青く感じられる。この青さの秘密はわかるのだが、積もった雪を掘るとなぜ青いのか考え込んでしまった。
・雪がいつにもまして深いとき、街道からわが家へ帰りつくのに使っていた半マイルぐらいの小道は、間隔を大きくあけて点がくねくねとつづいて行く点線で表せないこともない。おだやかな天候が一週間もつづくと、毎日ぼくはぼく自身がつけた深い足あとをゆっくりと、分割コンパスもどきの正確さで踏みしめながら、きちんと同じ歩数と歩幅でたどったが、こんなきまりきった繰り返しも冬ならばどうしようもなく、それでもぼくの足あとは多くの場合天空そのものの青をいっぱいに湛えていた。(399頁)
・ソローもこの青に気づいたのか、と思ったらうれしくなったが、やっぱり空の色なのだろうか。
・雪が積もってはいても仕事には出かなければならないし、買い物にも行かなければならない。それに120リットルの灯油を週一回、ガソリンスタンドに買いに行く。だから、毎日のように湖畔の道路を車で一周している。今年は10年ぶりぐらいで湖面が全面結氷した。石を投げても割れないからかなりの厚さになったと思う。固めた雪を投げると、氷にあたった瞬間に割れて周囲に飛び散っていく。その様子が花火に似ていて何度も投げた。四方に飛び散った雪は信じられないほど遠くまで滑っていく。大げさではなく、対岸に届くのではないかと思うほどだった。そんなことをしていると、ちょっと氷の上に乗ってみたい気になる。 ・誰もがそう思うのか、拡声機で毎日やる地域の放送では、ここのところ、「湖面の氷は薄いから絶対乗らないように」と繰り返している。子どもたちなら、誘惑に勝てずに、つい一歩を踏み出してしまうかもしれない。どうせなら、歩けるほど凍ったらいいのにと思っていたら『ウォルデン』にまた次のような描写を見つけた。
池は固く氷が張ってしまうと、いろいろなところへ行くための新しい近道になってくれたばかりか、まわりの見慣れた風景も氷の上で見ると新しいものに見えるようにしてくれるた。(410頁)
・そういえば、子どもの頃は田圃に水を張るとしっかり凍って、そこでスケートをよくやったことを思い出した。つけていたのは下駄スケートで、足袋を履いてひもで縛りつけるものだった。今はどこを探しても見かけないが、足の大きさにあまり関係なく使えたから、すぐに足が大きくなる子どもには便利な道具だった。今は子どもたちは靴のスケートを履いて、スケートリンクに出かけている。親にとってはバカにならない出費だろう。隣の山中湖では23年ぶりで氷の上でのワカサギ釣りができるそうだ。今年の寒さはそのくらいなのかとあらためて知らされた。おなかにいっぱいタマゴが入ったワカサギはフライにするとおいしい。これも、子どもの頃に経験しただけだが、たまらなく食べたくなってしまった。
・それはともかく、仕事のために東京とのあいだを往復していると、都市が季節を排除することで成り立っていることがよくわかる。いつもの場所がいつもと同じでなくなるのは、人が何かを壊したり、作ったりしたときで、暑さ寒さは感じても、一年中ほとんど同じ景色に見える。大学のある国分寺周辺はまだ、緑が多いからましだが、新宿や渋谷に行ったら、もうだめだ。 ・雪に飽きたら、それが溶けて土が顔を出すのじっと待つ。やがて森が緑に包まれて、そして紅葉して枯れる。そしてまた雪。思わず、泉谷しげるの「季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち、夢のない家を出て、愛のない人にあう」を口ずさんでしまった。 (2001.02.19)
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。