<健康>な人びとは、日常を自分の死の隠蔽のうえで生きている。「死ぬのは他者であり、私は死なない」。<生命あるものには終わりがある>ということは一般認識であるが、私たちの日常的意識はその認識に裏打ちされてはおらず。無限の生を生きるものとして感じている。
死に対する現代の一般的態度が死の否定による生の肯定であるとすれば、重い病に直面した時、人はその態度のゆえに苦悩せざるをえない。自分の死の自覚は、もはや自分のいままでの形での生がありえないということを前提にしている。その不安を誰もが程度差こそあれ、経験するにちがいない。死は寂しさを伴う恐怖の対象として実感される。特に、働き盛りの時に病に陥る人びとはそうである。
まだ1歳の赤ちゃんで、桐田さんは遅すぎてやってきた「父親」という役割に戸惑い気味だった。学生や同僚たちの涙や虚脱したような表情でつらい雰囲気の会場にいる4歳になった彼に、この事態はどの程度認識されているのだろうか。僕は朝、ホテルを出て愛媛大学まで歩き、彼の研究室の前まで行った。主が突然にいなくなった部屋。授業に出かけたまま彼は2度と戻らない………
0 件のコメント:
コメントを投稿
unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。