2003年1月27日月曜日

声とことばと歌、音楽


・僕が一番嫌いなのは、フォークやロックの名曲といわれるものを、日本人が英語で歌うこと。歌に自信のある歌手たちが懐かしそうに和気あいあいと歌っているのを見ると、嫌悪感さえ感じてしまう。NHKの歌番組におなじみのシーンだ。


・理由はもちろんいくつかある。まず第一に、歌や曲そのものが評価の対象になるクラシック音楽と違って、ポピュラー音楽は、オリジナルを歌う歌手の声や歌い方、あるいは演奏の仕方が大事だということ。それを、ただきれいに、うまく歌えばいいという発想でやるから、味も素っ気もないものになってしまう。


・クラシック音楽では作品は作曲者によって代表される。演奏家や歌手はあくまで、その作品を上演する道具に過ぎない。もちろんその道具は人間だから、指揮者に顕著なように、それぞれに個性をもつ。けれども大事なのは、あくまで作者が書き残した楽譜である。反対にポピュラー音楽はそれを歌う人、演奏する人で代表されて、作者は影に隠れる。だから曲や歌詞よりは声、歌い方、演奏の仕方で聴かれ、判断され、記憶される。


・S.フリスはそれについて「レコーディングがパフォーマンスを出発時点から財産にした」からだという("Performing Rites"1996)。同じ言い方をすれば、クラシック音楽が財産になったのは、それが楽譜として記録され商品化されたからだ、ということになる。


・フォークやロックは作る人と歌う人、演奏する人が一緒の音楽だ。シンガー・ソング・ライター。ここには作る人と歌う人の分離、とりわけ音楽の商品化にともなって顕著になった分業のシステムに対する批判があった。つまり、自分がやる音楽は商品である前に自己表現であるという発想だ。


・自分で作ったものを自分で歌い、演奏する。作品の実体は歌われ、演奏される瞬間にあって、ことばもメロディもアレンジも、その声や歌い方や演奏の仕方と切り離せない。だから当然、そこにはミュージシャンの個性、というよりは人物像、ものの考え方や感じ方、あるいは生き方が色濃く映しだされることになる。


・このような姿勢で作りだされた歌や音楽が一大産業化した歴史は矛盾だし、皮肉だが、のこされた歌や音楽には、商品という枠を越えて表現されたものが少なくないし、またそれを受け取って聴く者も、そこにシンガー・ソング・ライター自身の存在そのものを感じとろうとしてきた。要するに、フォークやロックは個々の作品を独立したテクストとしてではなく、コンテクストとして聴く音楽なのである。


・そのようなポピュラー音楽の歴史もすでに半世紀になって、フォークやロックにもクラシックとかスタンダードとして扱われる作品が数多くなった。当然、一つの作品をコンテクスト(その作者、歌い手、演奏家、時代状況等々)から切りはなして、テクストとして再現することが多くなったし、そこに何のこだわりも躊躇も感じられなくなった。


・そこに僕が違和感をもち、嫌悪感さえ感じるのは、たぶん、作品をテクストとして孤立させたときに現れてしまう味気なさのせいだし、そのことに無頓着に歌う歌手やミュージシャンたちの鈍感さや能天気さのためだろうと思う。誰かの作った歌を歌うということは、その歌がもっていたコンテクストからテクストを取り出すということだから、そのテクストを新しい自前のコンテクストの中に置かなければ、その歌には命が吹き込まれない。


・これは言い過ぎかもしれない。けれども、その歌が英語で、歌詞についてのコメントが何もなかったりすると、歌っている人たちは一体、それによって何を表現し、誰に、何を伝えようとしているのか、皆目分からなくなってしまう。あるいは、単なる物まねのコピーや昔を懐かしがっての再現というのもある。これはテクストだけではなくコンテクストまで借用しようとする試みだが、物まねや懐メロはまた、それだけのものでしかない。


・誰かの作品を自分で歌い演奏するということは、そこに自分なりの解釈と表現を盛りこむこと。当たり前のことだが、これを自覚する人は現在のプロの歌手やミュージシャンにはほとんど見あたらない。もっとも、自分のかつてのヒット曲を昔のままにそっくり再現することに何の疑問ももたない人が多いから、僕の言いたいことは何も理解されないのかもしれない、とも思う。

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