2003年1月20日月曜日

パトリシア・ウォレス『インターネットの心理学』 (NTT出版)

インターネットは小さなネットワークがつながってできている。個々のネットワークには守らなければならないルールがあり、それを破れば参加資格は奪われる。ネット同士をつなげば、参加者は別のネットに入りこむことができるようになる。当然、ネット内で守らねばならないルールはネット間にも摘要される。ただし、制度ではなくマナーとして。少なくとも、インターネットの初期はそうだった。だから「ネチケット」ということばも生まれたのだ。
ところがインターネットは瞬く間に世界中に張り巡らされ、さまざまな人々が自由に参加できるようになった。人種も国籍も言語もそれぞれだし、使う目的も多種多様。ところが、インターネット内で統一された法律や制度はなく、相変わらず,ネチケット程度のマナーで利用されている。まあまあスムーズに行っていること自体が驚きだが、当然、問題も多い。コンピュータ・ウィルス、ネットワークへの不法侵入、HPの改竄、掲示板荒らし、あるいはジャンク・メールの山………。
パトリシア・ウォレスの『インターネットの心理学』は新しい形態のコミュニケーション手段であるインターネットの特徴を、人間の心理面から考察した力作である。インターネットは既存のマス・メディアとは違って、受け身一方ではなく、誰もが発信者になれるし、相互のやりとりもできる。しかも自由度がかなり大きい。けれどもその可能性が、コミュニケーションにおける衝突や混乱、迷惑等々をひきおこす原因にもなる。どんな社会や集団にも、それを支える秩序やルールがあって、そのために、それなりの自由がひきかえにされる。インターネットにも当然、秩序やルールは必要で、ウォレスはそれを「インターネットのリヴァイアサン」と呼んでいる。
トーマス・ホッブスは、リヴァイアサンを「永遠の神のもとでわれわれが忠誠を尽くす現世の神であり、それが平和であり、防御である」と概念づけ、提唱した。簡潔に言うと、リヴァイアサンとは、公正に争いを解決することを期待して人が権能を委ねる統治の仕組みである。(93頁)
「リヴァイアサン」は一つの社会、集団、あるいは関係を「秩序」あるものにしたいと願うときに現れる。インターネットにはその「リヴァイアサン」は存在するのか。あるようでない。ないようである。ウォレスはそれをとらえどころのないものだという。もちろん、その理由の一つは、普及の早さと世界を一つにしてしまう規模の大きさ、中身の多様さにある。けれども、もっと考えなければならないのは、インターネットの世界が現実とは違うヴァーチャルなものであること、つまり架空の世界であるように感じさせながら、同時に一つの実体ももつ、その特異性にある。現実の世界で起こること、できることはインターネットでもできるし、起こる。しかし、二つのあいだには、同じものとして考えることのできない違いもある。そこをどう明確にしていくか。『インターネットの心理学』の狙いは、まさにその点に向けられている。
インターネットでのやりとりはたいがい視覚も聴覚も欠いている。匿名でのコミュニケーション、演技的な自己呈示が簡単にできる。現実の世界にも虚構は入りこむが、完全な虚構とのあいだには高い壁がある。しかしインターネットではその壁は薄い浸透膜に変質する。しかも、インターネットの世界は決して虚構の世界ではない。もちろん、このような特徴はインターネットではじめて経験されたものではない。同様のことは、ラジオやテレビ、あるいは電話などによって少しずつ、もたらされたことだ。けれども、インターネットはそれを一気に加速化させた。それはインターネットのリヴァイアサンだけでなく、現実社会のリヴァイアサンの混乱やその再考という問題をもたらしつつある。
ウォレスの興味深い指摘は他にもある。コンピュータによる会話が意見の不一致や論争を招きやすいこと。しかも、それはわずかな差異でも起こること。ところが他方で、似た者を探したがり、仲間と確認すれば集団としての凝集性が高まること。しかも、仲間内では、意見は中庸にではなく極端な方向に流れやすいこと。「人は似た態度や考えをもつ人に好意を抱く傾向がある」(魅力の法則)。「誰かが自分を好きになると、自分もその人を好きになる」(螺旋的関係)。これらはもちろん逆方向の動きと合わせて理解する必要がある。
このような指摘を確認していくと、それはネット上の人間関係の特徴ばかりではなく、現実に目にする関係の特徴であることに気づく。もちろん、身近で毎日接触している学生たちの行動の話である。

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