・NHKがテレビ放送をはじめて50年。それを記念する特別番組がにぎやかだった。どれもこれもかつての人気番組を登場させるもので、それはそれで懐かしい気がしたが、またノスタルジーでおしまいでは何とも能がないとも感じた。テレビの50年、ということは20世紀の後半という時代を、テレビを軸に考え直してみる。NHKにはそんな意欲があってもいいし、考える責任があると思った。
・テレビが茶の間に欠かせないものになったのは60年代。そのテレビに対して大宅壮一が「一億総白痴化の時代」と警鐘を鳴らしたのは、あまりに有名な話である。テレビは新聞に比べて、ラジオに比べて、映画に比べて二流のメディア。浅薄で貧弱。じっくり視聴する価値のないもの。テレビはずっとバカにされ軽視されつづけたが、人びとの生活の中に、そして意識の中には着実に浸透していった。
・そんな批判が聞こえなくなり、その存在感をいっそう強くしたのは80年代以降である。邪魔なものでしかなかったCMに関心がむけられたり、テレビ放映を目的に映画が作られたりするようになった。あるいは新聞の役割、雑誌の特徴と競合する番組が注目されるようになり、流行の発信基地にもなるようになった。
・バブルの頃はもちろん、それがはじけた後もテレビだけは好景気を持続し続けている。もちろん、BS放送の開始や地上波のデジタル化で相当の資金も必要とするようになったし、インターネットの急速な普及がテレビを脅かすのではないかということも言われている。けれども、今のところテレビが揺らぐ気配はない。在京の民放局はどこも新社屋をつくり、より大規模化させている。まさにテレビの時代と言えるのである。
・そのテレビの時代にあって、一番存在感をなくしたのが知識人と呼ばれる人たちだといっていいかもしれない。今テレビによく登場するのは、歯切れのいい経済学者やテレビ映りのいいわずかの文化人だけで、ほとんどの人はおよびでない。もっともかつては知識人たちがテレビによく登場していたというわけではない。彼らは最初からテレビには馴染まない人種だったのである。そのことを三浦雅士が次のように説明している。
知識人がテレビによって変容したのは、しかし、不特定多数の視聴者を相手にしなければならなくなっただけではなかった。テレビの画像によって、その権威を完膚なきまでに剥脱されたからである。理由は簡単だ。テレビはその卑小な画面において、政治家も、大学教授も、芸能人も、官僚も、時には犯罪者さえも、みな等し並に扱うからである。(『考える身体』NTT出版)
・彼は知識人をシャーマンにたとえる。身体のない観念だけの存在。それは身体をまるごと曝すテレビの前では、逆に空虚な存在でしかない。知識人が生きる場は新聞や書籍といったメディアだが、それもまたテレビによって存在感の薄いものになってしまっている。その意味では、大学生が本や新聞を読まないというのは大学生にとっての問題というよりは、彼らに何かを教えることでその存在を確認する大学教師の問題だといえるかもしれない。実際学生は教師のする話しに興味をもたないし、興味をもっても、その教師が書いた文章を読んでみたいなどとは思わない。三浦によれば、それはまた、話す内容ではなくパフォーマンスの問題である。
テレビは、何よりもまず、その画面転換のリズムによって、呼吸によって、見るものを支配する。とりわけコマーシャル映像のリズムによって。また、番組の配列のリズムによって。さらに、登場するアナウンサーの、キャスターの、タレントの呼吸によって、語り方の速度によって、支配するのである。(同書)
・学生たちはテレビでおなじみの顔を目の当たりにすると、本当に目を輝かして見つめ、耳をそばだてる。そんな彼や彼女たちを見るたびに、時代のリズム、呼吸、話し方、物腰、動作、表情、つまりパフォーマンスのすべてがテレビによって形成されていることを感じる。まるで、テレビは新たなシャーマニズムであり、そこに登場する人気者は新たなシャーマンとして存在するかのようだ。
・僕はこのような傾向に無関心ではないし無視もしないが、しかし、積極的に取り入れようとも思わない。自分を知識人などという一段高いところに置きたいとは思わないし、人からえらい人間なのだなどと見られたくもない。といってタレントのように、人の関心をひきつけるエンターテイナーになる気もないし、第一、なろうったってなれるものではない。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。