2003年11月17日月曜日

同じ頃に同じ発想をした人がいた

J.メイロウィッツ『場所感の喪失・上』 (新曜社)

 コミュニケーションについて考える枠組みは大きく二つに分けられる。ひとつは一人一人が日常的にする対人的なコミュニケーション、そしてもう一つはマス・コミュニケーション。ただし前者は相互的なもので、後者は一方的なものという点で、まったくちがうものとして捉えられる。少なくとも、15年ほど前まではそのように考えるのが一般的だった。


僕は大学院では「新聞学」を専攻した。当然、履修した授業は「新聞学」のほかに「マスコミ論」「ジャーナリズム論」といったものが多かったが、それにはあまり関心がなかった。僕がやりたかったのは対人関係やパーソナルなコミュニケーション、それに自分が夢中になっていた音楽などの文化的な分野だった。


だから、卒業した後も対人的なコミュニケーションに関心をもって、ジンメルやゴフマンやガーフィンケルを読みながら、男女や親子の関係、仕事を通した人間関係、あるいは「私」という意識などをテーマにした。それは『私のシンプルライフ』(筑摩書房、1988年)としてまとめられたが、同時に、テレビを見たり、ラジオを聴いたりするときにも、人びとは対人的な関係の延長としてふるまっているのではないか、といったことが気になりはじめてもいた。編集者の人にその話をするととても興味をもたれ、他に電話や写真やウォークマン、あるいは読書や日記や手紙を書くことなどについても考えて『メディアのミクロ社会学』(筑摩書房、1989年)を書くことになった。


もちろん、このような発想は僕のまったくのオリジナルというのではない。関心をそのように向けさせたり、同じようなアイデアが散見された先行研究はいくつもあった。たとえば、R.バルトの写真論や映画論、佐々木健一の演劇論、外山滋比古の読者論、E.モランの映画論、あるいはベンヤミンやマクルーハンなどなど………。それに電話が手軽な日常の道具になりはじめていたし、ワープロやパソコンなどの新しいコミュニケーションの道具が普及しはじめてもいた。コミュニケーションをキーワードに分析できる状況は明らかに大きな変化を見せはじめてもいた。


最近翻訳されたJ.メイロウィッツの『場所感の喪失』は、そんなぼくの発想ときわめてよく似ている。原著の出版は1986年だから時期的にもほとんど一緒だと言っていい。『場所感の喪失』はゴフマンとマクルーハンを融合させること、それによって主にテレビを分析することを主眼にしている。翻訳されたのはまだ半分だが、似たような時に似たようなことを考えた人がいたことに親近感を覚えながら読んだし、また、いまだに古くさくなっていない、その視点のユニークさや確かさにも感心した。


メイロウィッツが考えているのは、ゴフマンの「表領域」と「裏領域」という区別をマクルーハンの「活字媒体」と「テレビ」の違いに重ね合わせることだ。私たちは日常の人間関係のなかで、公的な場や関係と私的なもの、きちっと演出されたものとアドリブ的なもの、あるいはタテマエ的な関係とホンネのつきあいを使い分けている。それが微妙に入り組んだ世界の分析はゴフマンの独壇場だが、そのような枠組みをメディアの世界に置きかえた時にわかるのは、活字媒体の公的で演出的でタテマエ的な性格と、私的でアドリブ的でホンネ的なテレビとの違いである。

印刷メディアから電子メディアへの変移は、フォーマルな舞台上もしくは表領域の情報から、インフォーマルな舞台裏もしくは裏領域への変移であり、抽象的な非個人的メッセージから具体的な個人メッセージへの変移である。(186頁)
ことば、それも活字はいわば意味のみを伝えるメディアだが、テレビはそのことばを話す人が表出するものすべてを伝えてしまう。しかも、あたかも目の前で自分に向かって話しているかのようにしてだ。テレビは擬似的な対面的相互行為を基本にする。だからテレビは、公よりは私、演出されたものよりは自然なもの、タテマエよりはホンネ、表よりは裏を好んで映し出すようになる。


もちろん、このような指摘は、今となっては衆知のことだ。けれども、電話を使って、メールを使って、あるいはインターネットの掲示板を使ってするやりとりが、今ここにはいない見知らぬ人との個人的で親密なやりとりであったりすることを考えると、もう一回、時計を20年ほど逆回しして、丁寧に考えなおしてみる必要があるのではないかという気にもなってくる。

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