2009年6月1日月曜日

清志郎が教えてくれた

・清志郎が死んだ。高田渡に続いてもう一人、聴くに価するミュージシャンがいなくなった。二人とも僕とほぼ同年代で、その早すぎる死にショックを受けたが、日本に輸入されたフォークやロックという音楽も彼らと共に死んでしまったように感じて、そのことの方が寂しい気がした。二人以上にその音楽の本質を理解し、歌い続けてきたミュージシャンは他にいないと思っていたからだ。だから、清志郎の死をとりあげたテレビのニュースや新聞記事にはずいぶんと強い違和感をもった。

・清志郎の死は高田渡よりは大きく取りあげられ、葬式には何万にもの人が参列したようだ。大げさなパフォーマンスが、死を悼むよりは自らを誇示するように感じられたタレントもいたし、「夢をありがとう」などととんちんかんな叫び声を上げたファンもいた。清志郎の歌は、夢を疑似体験させるためのものではなく、みんなに自分の夢をもつことを訴えてきたはずで、そんなメッセージが伝わっていないことの証しのように聞こえてきた。あるいは、清志郎の音楽はCDやDVDの中に生きつづけて、そこでいつでも会うことができるといったニュース・キャスターのコメントにも首をかしげてしまった。

・清志郎は癌におかされる前に、『KING』(2003年)、『GOD』(2005年)、そして『夢助』(2006年)と立て続けにアルバムを出した。僕はそのどれも気に入って、以前にも増して彼の歌に注目するようになった。病気にならければ、その後にも数枚のアルバムが出ていたいたかもしれないし、これからも新しい歌がいくつも作られたはずだ。ステージでは相変わらずの衣装と化粧でパフォーマンスをしても、そこで歌われるメッセージには、歳を重ねてきた自分や若い人たちへの気持ち、そしてもちろん、今という時代に対する姿勢がこめられていた。彼の死は、そんな未来の清志郎が消えたことを意味していて、すでにあるCDやDVDでは、過去を思い起こすことしかできなくなってしまったのである。

・NHKのBSで清志郎がオーティス・レディングの軌跡を訪ねて、彼と一緒に活動したミュージシャンやマネージャーと出会った様子をまとめた番組、「時の旅人忌野清志郎が問うオーティスの魂より」が再放送された。オーティスは彼が一番影響受けたミュージシャンで、その絶頂期に飛行機事故で死んだ人だ。彼はその番組の中でオーティスゆかりのスタジオで、バックをつとめたギター・プレイヤーと一緒に、「オーティスが教えてくれた」をつくり収録した。その曲は『夢助』に収められている。

オーティスが教えてくれた
歌うこと、恋に落ちること
勇気を出せよ、君の人生だろう
オーティス・レディングが歌っている、あのラジオで

・オーティス・レディングは60年代の後半になって、白人たちの心にその音楽を素直に届けることができた初めてのミュージシャンだ。白人のロックは黒人のR&Bやソウルをルーツにするが、それぞれの間には肌の色という壁があった。そんな壁は本当はないことを証明したのは、1967年にカリフォルニアのモントレーで開催されたポップ・フェスティバルで、ジミ・ヘンドリクスのウッドストック登場とあわせて、ポピュラー音楽のエポック・メイキングになった。彼の最大のヒット曲は「ドック・オブ・ザ・ベイ」で、ビルボードで1位になったが、自家用の飛行機が墜落したのは録音の3日後だったようだ。
・NHKでは昨年2月の武道館の直前におこなったスタジオ・ライブの番組も再放送した。抗ガン剤治療後のリハビリが大変だったことなどを笑顔で話す様子が印象的だった。起き上がることも、歩くこともままならなかった状態から、2時間以上にも渡るステージをこなすまでの努力が大変だったことを改めて知らされた。さっそく『完全復活祭 武道館』を買って聴いてみた。依然と全く変わらないパフォーマンスをしながら、その1年後に他界。『夢助』に収録された「This Time」の歌詞が惜別のメッセージのように聞こえて、清志郎がオーティスとどこか遠くで出会っている様子を思い浮かべてしまった。

kiyosiro4.jpg
今こそその時がやってきたんだ
もう誰にも僕をとめられないさ
今こそ行くべき場所がわかったんだ
音楽に導かれて行き着くのさ
ずっと僕を呼んでいる
ずっと夢に見ていた
こんな日がくることを

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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。