野村直樹『やさしいベイトソン』金剛出版
モリス・バーマン『デカルトからベイトソン』国文社
・ベイトソンの理論は魅力的だが難しい。だから、話題としては、決まった中身と形でしかできないできた。このパターンを脱けだして、もう少し自分のものにできないものかと、ずっと思ってきた。最近見つけた『やさしいベイトソン』は、そんな気持ちをくすぐる誘惑的な題名で、薄い本だからすぐに読み終わった。この本には、著者が直接目の当たりにして聞いたベイトソンの話が書かれている。ベイトソンが娘と交わす不思議な会話と並行させて、ドン・キホーテとサンチョ・パンサを登場させてベイトソンを読み解く工夫も施されていて、おもしろく読むことができる。ベイトソンへの興味も増すことは間違いない。けれども、読み終わっても相変わらずベイトソンは難しい。その意味では、この本はベイトソン理論を易しく解説したものではなく、ベイトソンという人物の優しい人柄を描きだしたものだと言える。で、ベイトソンの『精神の生態学』(思索社)を引っぱりだしてみた。
・ベイトソンの理論といえば「プレイ」と「ダブルバインド」が有名だ。「プレイ」は「遊び」と訳してもいいが、その他にも、演技をする、スポーツをする、あるいは音楽をやるなど多様な意味がある。ベイトソンはその全てに共通した特徴を、互いに相反するメッセージ、つまり、「本気でやるぞ」と「本気でやるな」が共存するコミュニケーションだと指摘した。普通には「これは遊び」というと、本気でない、真面目でないと解されるが、「遊び」はそこに本気が入るからこそおもしろく夢中になるはずで、だからこそ、「ウッソー」とか「マジ?」といったことばが出るのである。
・彼の代表的概念である「ダブルバインド」も構造的には「プレイ」同様相反する二重のメッセージで成り立っている。時に精神分裂病(統合失調症)を患う人に見られるのは、その原因が、身近な強者から自分に向かって放たれた互いに相反するメッセージに晒されることにあるという。つまり、「〜をしないと罰する」という命令が「〜をすると罰する」と同時に発せられるのだが、弱者には、それに異議を唱えることはできないし、しかもその場から逃げ出すこともできないのである。こんな状況に繰りかえし置かれた弱者が自己を守るすべは、狂気に陥ることだけだというわけだ。
・「ダブルバインド」的な状況は、人間だけにおこるものだが、「プレイ」はじゃれあいや威嚇、あるいは序列確認のディスプレイなど、哺乳類には頻繁に見られる行動である。相反する二重のメッセージをやりとりして遊ぶのはかなり高等なコミュニケーションで、そんなことが人間以外になぜできるのか。考えてみれば不思議な行動だが、ベイトソンによれば、それは人間を特別視したところから出てくる発想のようである。
・同様に最近読んだモリス・バーマンの『デカルトからベイトソン』にはベイトソンの理論が近代化の土台となったデカルトの思想に対する根本的な批判であることが力説されている。簡単に言えば「精神と身体」「主体と客体」を根本的に分離したデカルトに対して、それらがたがいに繋がりあう関係として存在するとした点である。デカルトに従えば「理性」と「感情」は別ものだが、ベイトソンによれば、それは同じひとつのプロセスのふたつの側面だということになる。あるいはそれはフロイトの「意識」と「無意識」と言いかえてもいいが、ベイトソンは「無意識」を「身体」全体に存在するとしている。そう考えれば、哺乳類の動物が「プレイ」をするのは何ら不思議なことではないのである。
・人間は、理性的な精神を意識する生き物で、それゆえにこそ万物の長としての資格がある。果たしてそうだろうか。哺乳類は「プレイ」を楽しむことはしても、「ダブルバインド」な状況をつくり出すことはしない。種の共存にとって前者は不可欠だが、後者は避けねばならないことだからだ。「プレイ」は争いや諍いを大きなものにしない工夫で、関係やコミュニケーションの基本に据えなければならない。そのことを自覚したのが哺乳類だとしたら、人間は、その重要性を軽視し、矮小化し、ないがしろにしているといわざるを得ない。2冊を読んで改めて実感したことである。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。