・テレビは何より、茶の間で享受できる娯楽の機械(機会)として普及した。ドラマやスポーツや音楽を居ながらにしてただで楽しめることが最大の魅力だった。ただし、その時間を享受するためにはTVCMという新たな広告もあわせて見なければならなかった。メディアが収益を受け手ではなく広告主に求めるのはアメリカでラジオが登場したときに発見された方式だが、日本では民放ラジオの登場も第二次大戦後のことだったから、この方式(スポンサーシップ)は全く新しいものだった。
・テレビが果たした一番大きな役割は、日常的に広告を見せられることで、私たちがモノを生産したりサービスをやりとりしたりするのではなく、お金を払って購入し消費する者になったことにある。日本はすでに高度な消費社会になっていて、お金で買えないものは何もないといえるほどになっている。もうそれが当たり前でごく自然な行動だと感じているとしたら、それはまさにテレビによってもたらされた感覚である。
・そんな役割は今、ネットに浸食されて、民放の経営はどこも右肩下がりのようだ。テレビをよく見る世代はテレビと共に育った60代以上の高齢層で、若い人たちのテレビを見る時間は年々減ってきていると言われている。番組はあくまで、CMを見てもらうためのおまけだから、消費行動と結びつかなければスポンサーは逃げていってしまうだろう。ネットになれた若い人たちにどんな番組を提供したらテレビを見てもらえるのか。テレビはその方策を探しあぐねている。
・一方で、テレビは新聞やラジオと同様、報道やジャーナリズムの役割を担うメディアとしても見られてきた。そしてこの点でも、テレビは新聞やラジオに比較して、きわめて権力に弱く、しかも情報量が少ないにもかかわらず、その影響力の強さが大きいという特徴を持ってきた。何しろ日本では、テレビ局を作って放送するには国の認可が必要で、しかも既存のテレビ局はどこも新聞社と一体のクロスオーナーシップのなかで発展してきたのである。だからテレビは新聞を批判しないし、新聞もテレビを批判しないという暗黙のルールが働いてきた。
・マスメディアには「環境の見張り役」とか「社会の木鐸」といった役割が期待されている。しかし、そうではなかったことが3.11以降の原発事故報道や、それ以前の原発政策に対する姿勢で露呈された。その姿勢は、戦前から変わらないものだという批判の声も聞かれるが、戦後に生まれたテレビの影響力を考えれば、テレビは政治的・経済的な権力を持つ者にとっては、きわめて好都合で操りやすいメディアだったと言える。しかも、テレビは私たちに、無意識のうちに特定の嗜好や指向性を植えつける道具だったのである。
・その意味で、若者層のテレビ離れの傾向は、好ましいものだと思う。もちろん、それに代わるインターネットというメディアもまた、政治的・経済的に人びとを操作する手段として、テレビ以上に強力で巧妙な力を持っている。けれどもまた、インターネットはテレビとは違って、送り手になり、相互のやりとりをし、グローバルな規模で多様な情報を手に入れることができるという力も持っている。
・おそらく、テレビも新聞も、そして雑誌や書籍も、近い将来にはインターネットという大きなメディアの中に組み込まれる形で生き残ることになるのだと思う。そうなったときに、既存のメディアがどんな位置を占めるのか。そのような認識とそこから生まれる危機感がテレビから見えてこないのは、どうしてなのだろうか。もちろん僕は、そんな現状を憂いたりはしない。テレビはすでに、一日にうちにわずかな時間しか見ないマイナーなメディアになっているのだから。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。