2014年12月1日月曜日

日本百名山一筆書き

・日本の山から名山を百座選んだのは、作家で登山家の深田久弥だった。一人の判断で選ばれた山々だが、今ではそれがすっかり定着して、日本の山の価値基準になっている。一般的には高い山が多いから、ぼくはあまり登りたいと思わないし、実際、登れそうもない山が多い。その百名山を一気に登り、しかも山と山の間を歩いて移動するという試みに挑戦した人がいた。最南端の屋久島と鹿児島、紀伊水道、津軽海峡、そして最北端の利尻島にはカヤックで渡ったというから、恐れ入った冒険だと思った。

・冒険の主は田中陽希という名のプロのアドベンチャーレーサーで、その行程がNHKのBSで「グレイトトラバース・日本百名山一筆書き」というタイトルで放送された。屋久島の宮之浦岳に登ったのが今年の4月1日で、百座目の利尻山に登ったのが10月26日だから、ほぼ7ヶ月かかったことになる。その間の移動距離は7800kmで累積の標高差は10万mにもなったようだ。僕はその1回目の放送(5月24日)をたまたま見て、ずっと注目し続けてきた。

・山のガイドブックには行程にかかる時間が書かれている。僕はその時間通りに歩くことを目安にしているが、彼は大体、その倍の早さで登り、歩いている。だから一日のうちに2つ、あるいは3つの山を走破することもあった。その体力にはただただ感心するばかりだが、山登りではなく、移動のためのアスファルト歩きの方がつらそうで、体の変調が出ることが多かったようだ。

・たとえば大分県の九重山の後は鳥取の大山で、その後は愛媛県の石鎚山だった。この間半月以上を移動に使っている。アスファルトの道歩きは自転車にした方がもっと楽で早かっただろうに、どうしてそうしなかったのだろうと呟きながら見た。もっとも山に入ると元気になって、いかにも楽しそうな様子が伝わってきた。

・見ていて気になることは他にもあった、全行程を記録するために同行しているスタッフは、一緒に歩き、登っているのだろうか。いったい何人がついているのかといったことである。いい画像を撮るためには、いつも後ろから追っかけるだけではだめで、時には前から撮り、あるいは遠くから望遠でとらえることも必要になる。小型のヘリにカメラを乗せて上空から俯瞰するシーンもあったが、先回りをしたり、小走りで追い抜いたりして撮ったはずだから、撮影スタッフの方が大変だったのではと思った。

・この行程は田中自身が"twitter"や"facebook" に書き込んでいたから、山の頂上などで待ち構える人が徐々に増えていった。一番ひどかったのは関東周辺に来たときで、丹沢山では麓から頂上まで大勢の人がいて、彼自身が戸惑いを見せるシーンも映し出されていた。その多くの人たちが握手を求め、「がんばって」と声をかけ、サインをねだっていた。応援というよりは偉業に立ち会いたい。できればテレビにも映りたい。そんな自分勝手な人が多いことに、田中本人も時にストレスを感じていた。

・とは言え、テレビで放送されるからには、そういうことも予測されたはずである。装備や衣服、携帯食、サプリメント、カメラ、地図などといった必需品にはすべてスポンサーがついていたし、他にも医療関係や通信会社、それに警備会社などのサポートも受けていたようだ。おそらく、NHKからもそれなりの報酬を受け取っているはずである。プロのアドベンチャーなら当然だが、メディアイベントならファン・サービスもしなければならない。今回の挑戦で彼が勉強したのは、何よりそのことなのかもしれない。

・このドキュメントは4回に分けて放送され、最後は11月の23日だった。東北から北海道の利尻山までの行程を2時間にわたって放送する予定だったのだが、羊蹄山に登ったところで長野北部の地震で中断してしまった。田中が震源近くの白馬岳を歩いたのは6月の末だったし、噴火で死傷者を多数出した御嶽山の登頂は6月11日だった。長期間の行程であれば何が起こるかわからない。中断した後の地震速報を見ながら、僕は改めて、そんなことを実感した。

・最終回は29日に放送されなおした。御嶽山の噴火の時、彼は北海道富良野の実家にいた。蓄積された疲労がどっと出て、歩けなくなって1週間ほど休養した。だから雪の季節が間近に迫っている中を羅臼岳に登り、オホーツク沿いに稚内まで歩いて、カヤックで利尻島に渡ることになった。向かい風が最大で20mも吹き、3mの荒波で転覆もした。利尻山登頂も、強風で一度引き返している。彼の体力と意志の強さに感心したが、幸運と強いサポートがなければ達成できなかった偉業だとも思った。

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