・本を買うのはすぐ読むためだけではない。今すぐには読まないけど、おもしろそうな題名だから買っておこうか。こんな理由で買った本がかなりあるが、その多くはいまだに手つかずのままだったりする。目がしょぼしょぼして、長時間の読書ができなくなってきたから、読まずにそのまま積ん読されてしまうかもしれない。それではいけないなと思って、本棚を物色して、何冊かをとりだしてみた。しかし、なかなか手に取る気にならない。本を読むのが仕事だったはずなのに、読む気にならないし、読まなくてはいけないなどとも思わない。結局、読書が好きだったのではなく、職業上、仕方なく読んでいたのではないか。そんなふうに感じてしまう、今日この頃である。
・とは言え、少なくとも毎晩寝る前に寝床で読むことにはしている。読み始めるとすぐに眠気が襲ってきて、数ページも読まずに寝てしまうことが多いし、おもしろくないと思って、本棚に戻してしまう本もある。今回紹介するのは、そんな中で何とか読み続けた一冊である。『ラインズ』は題名通り「線」に注目した本である。副題は「線の文化史」、出版されたのは2014年で、特に必要ではなかったが、題名に惹かれたのだと思う。
・歩くこと、織ること、観察すること、歌うこと、物語ること、描くこと、書くこと。これらに共通しているのは何か?それはこうしたすべてが何らかのラインに沿って進行するということである。(p.17)
・こんな書き出しで始まる本書は、これだけで、いろいろな想像をかき立てられて、何が書いてあるのかという好奇心を刺激する。さらに続いて、話すことと歌うこと、あるいは話すこととと書くことの違いと繋がりときたから、眠くならずに読み進めることができた。
・点と線、そして時間は一次元のものである。それが面になると二次元になり、立体をはじめとした物理的な空間が三次元になる。点と線は三つの次元の出発点だが、人が何かを描いたり、記述したり、作りだしたりするのも点と線が出発点になる。それではそもそも「線」とは何か。定義はさまざまにできるかもしれないが、この本では「糸」と「軌跡」の違いに注目している。
・「糸」は人が作りだしたもので、織り合わせることで二次元の布になる。しかし蜘蛛の巣のように糸を作りだす生き物は他にもいるし、そもそも生き物は骨や筋肉、あるいは神経系など、さまざまな糸によって出来上がっているということもできる。一方「軌跡」は表面上に残された線状の痕跡だ。これにはもちろん、人が描いたものと自然にできあがったものがある。いずれにしても、「糸」と「軌跡」が、人が何かを作りだす出発点にあったことは間違いない。
・人が歩く。その足跡の一つひとつは「点」だが、その軌跡は「線」になる。そこを大勢の人が行き来すれば、程なくそこには「道」ができる。あるいは一人の人の存在は一つの「点」だが、子どもや孫に続くと、そこには「系譜」という流れや「線」が生まれる。この本には、そんな「点」と「線」から派生するさまざまなものが、主に人類学的材料で紹介され、検討されていく。へぇ、そうかと思わされることが少なくない。
・しかし今ひとつ賛成しかねる部分もある。この本には、オング批判という大きな狙いがあるようだ。W.オングは『声の文化と文字の文化』(藤原書店)で知られている。話すことと書くこと、そして印刷されることの間にある大きな違いを「線」の断絶として展開しているのだが、インゴルドはその線は断絶などせず繋がっているという。確かにそういう一面はあるのだと納得したが、オングが力説したかったのは話す人と聞く人、書く人と読む人、印刷物と読書に見られるコミュニケーションとしての違いと、そこに起因する人間関係や社会の変容にあったのだから、この批判は枝葉末節のことではないかと思ってしまった。
・この著者には『ライフ・オブ・ラインズ 線の生態人類学』(フィルムアート社)や『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』(左右社)といった近刊がある。興味を惹かれるが、目次を見ると、本書同様、多様な面に展開させる内容になっている。ぼくは「線」に関わるあれもこれもではなく、次には「歩くこと」や「道」にしぼったテーマにしたものを読んでみたいと思うようになったから、さらに買おうとは思わない。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。