『移民労働者は定着する』(社会評論社)
『カナダに漂着した日本人』(芙蓉書房出版)
『日本人移民はこうして「カナダ人」になった』(芙蓉書房出版)
・移民、難民、そして外国人労働者は、世界大の大きな問題である。圧政の苦しみや戦争の惨禍から逃れるために、貧困から豊かさを求めるために、アフリカや中南米からヨーロッパやアメリカに多くの人びとが押しかけている。人道的に受け入れるべきという立場と、国家の揺らぎや混乱の原因だと排除を主張する側の対立が、世界の政治を危うくさせている。またここには、外国人を労働力として補充しなければ、人口減による労働不足を解決できないという先進国の問題もある。この問題は多様で複雑だから、解決策を見つけ出すのは簡単ではない。しかし、移民や難民にはすでに長い歴史がある。現在の日本は、外国人労働者を欲しながら、移民は認めないといった矛盾した政策を打ち出しているが、かつては移民として多くの人を他国に送り出してもいたのである。
・田村紀雄さんは前回のこのコラムで書いたように、ぼくにとって先生の一人だった。すでに80代のなかばだというのに、『移民労働者は定着する』という新著を書き下ろした。カナダに移住した日本人が、第二次世界大戦によって定住した地(主にバンクーバー)から移動を強制され、キャンプ生活を余儀なくされた。その数年間についてのフィールドワークである。しかしこの本に触れる前に、ここではまず彼の既刊書である『カナダに漂着した日本人』から、前史である日本人のカナダ移住の歴史を振りかえることにしよう。
・日本人が初めてカナダに辿り着いたのは1870年頃のようだ。そこから森林の伐採や製材、漁業、農業、そして鉄道敷設の労働力として移住していくようになる。最初は金を稼いだら日本に帰ると思っていた人たちも、結婚したり子どもができたりすれば、定住を考えるようになる。バンクーバーにはそんな日本人たちが多く住む地域が生まれた。さまざまな商いを営み、病院や学校の設立に努力する。たがいに競い、反目するばかりだった日本人の中に協力し合う余地や必要性が生まれ、コミュニティができるようになる。その中で大きな役割をしたのが、いくつかの日本語の新聞だった。『カナダに漂着した日本人』は、そんな定着までの過程を物語のように綴っている。
・カナダは移民によってできた国である。しかし、日本人が移住し始めた頃にはまだイギリス連邦にあって、バンクーバーも小さな町に過ぎなかった。その意味では日本人の移住は、バンクーバーという町の都市化やカナダという国の発展にとって欠かせない存在だったと言っていい。また林業や漁業にしても、その主な輸出先は日本だったのである。しかし、日本とアメリカの戦争が勃発すると、カナダ在住の日本人は、日本に帰国するか、西海岸から100マイル以上東に移動することを強制された。それもほとんど時間的余裕のないものだった。
・移動させられた場所はロッキー山脈の西にある谷間の地で、かつては鉱山や森林伐採で栄えたゴーストタウン化した小さな町ばかりだった。そこで空き家や新たに作った掘っ立て小屋やテントでの生活が始まったのだが、それはまた無からのやり直しだった。日々の生活、仕事、学校、病院など、人びとの間には助け合い、協力し合う気持ちが生まれたが、ここでもまた、新聞の力は大きかった。日本人の動向を把握するためにカナダ政府が援助した『ザ・ニュー・カナディアン』は英語と日本語の二本立てで構成されたが、日本語は一世、英語は二世向きで、内容も同じではなかったようだ。戦争が終わると多くの日本人たちは、その地を離れてさらに東へと移動して散在していくことになる。
・田村さんはメディアやジャーナリズムの研究者だから、当然、研究の視点、対象に対する姿勢、そして素材となる資料も新聞や雑誌が中心となる。『日本人はこうしてカナダ人になった』は、梅月高市を中心に1924年に創刊され、大戦によって禁止される1941年まで発行された『日韓民衆』の推移を軸に日本人の移民の動向をフィールドワークしたものである。カナダにおける日本語の新聞について、田村さんが関心をもつきっかけは、梅月が残した『日韓民衆』そのものや、彼が克明に書き残した日記など、膨大な資料との出会いにあった。その資料や現地でのフィールドワークをもとに本を書くことを約束したのだが、実際の作業は退職後になり、約束を果たすのに何十年もかかってしまったのだという。改めて読み直してみて、その努力にほんとうに頭が下がる思いがした。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。