・「趣味に生きる」とはどういうことか。生き甲斐を趣味に求めるということ?あるいは、趣味を生きる糧にするということ?題名から考えたのは、そんな疑問だった。一般に「趣味」とは、仕事や家事や育児などといった、しなければならないことのほかに、自分の興味に従って、時間やお金やエネルギーを費やすこととして考えられている。その意味ではあくまで「余暇」として嗜むことである。
・しかし、この本が扱っているのは、ほどほどにではなく、本気になって「マジ」で取り組む「趣味」である。全体を通じてキイワードになっているのは、「カジュアルレジャー」と対照させた「シリアスレジャー」という概念である。それは「アマチュア、趣味人、ボランティアによる活動で、彼・彼女らにとってたいへん重要でおもしろく、充足をもたらすものであるために、典型的な場合として、専門的な知識やスキル、経験と表現を中心にしたレジャーキャリアを歩みはじめるもの」(R.ステピンス)である。
・このような定義の元で、ここでは「お稽古事」「ボランティア」「ランニング」「バンドマン」「演劇」「将棋」「囲碁」「アイドル」などが事例として提供されている。あるいは自主的な放送として始められた「CATV」や「LGBT」に関わる活動への参加、そして学校という場における「部活動」や「発表会」に目を向けている。また、趣味を通じての関わりを「趣味縁」として、「SNS」や日系人の歌う文化、スポーツを通じた観光まちづくりなども話題にしている。
・もちろん、「シリアスレジャー」としての「趣味」といっても、そこには多様な側面がある。プロとしてお金を稼ぐわけではないが、高度な技術や能力の獲得をめざすものもあるし、プロをめざしているがアマチュアに留まっているという場合もある。仕事と余暇を明確に区別して行うこともあれば、境界が曖昧になるほど夢中になって、生活がたち行かなくなる場合もある。あるいは社会活動や政治的な行動のように、「趣味」とは言えない領域に生き甲斐ややり甲斐を求め、感じる人もいるだろう。この本を読めば、そんな「趣味に生きる」現状がよくわかる。
・日本の大学には「観光」について学ぶ学部はあっても、「余暇」や「レジャー」と名のつく講義すらない。それは「趣味に生きる」ことが、まっとうな生き方として考えられてこなかったし、今でもそう思われていないことの証である。「趣味」はあくまで、自由な時間に行われるべきもので、それは「仕事」などの「生業」を侵してまでやってはいけないものなのである。そして現在では、その「生業」自体が、不安定で低収入な状況になっている。その意味では、今は「趣味に生きる」ことが、極めて難しい時代なのだと言う視点が希薄な感じがした。
・さらに、超高齢化社会になって、定年退職をした後に数十年も、何か趣味を見つけて生きなければならない人が急増した時代でもある。毎日が日曜日という日常は天国でもあり、また地獄でもある。執筆者のほとんどが若い人たちだというせいもあって、この本にそんな視点がないのも、老人である僕には、少し物足りなかった。