・シニード・オコーナーが死んだ。自殺のようだ。去年の12月に息子の自殺などがあり、本人も自殺をほのめかすツイートをして入院をしたというニュースを見つけて、彼女のことを振りかえった。結婚と離婚を四度くり返し、その度に四人の子どもを産んでいること。自殺したのは三度目に結婚したアイルランドを代表するミュージシャンのドーナル・ラニーとの間に生まれた三人目の子どもだったことなどを書いた。その時から、近いうちに彼女の訃報があるのではと思っていたが、現実になってしまった。
・彼女については、このコラムで何度も書いている。最初は1999年で、フィンランドの青年が僕のディスコグラフィーに載っている彼女のCDがほしいとメールが来たことを紹介した。日本版が珍しかったからだが、インターネットが始まった頃には、こんなメールが世界中からやってきて、面白いメディアができたものだと思った。
・僕がシニードのことを知ったのはボブ・ディランの30周年記念コンサートのライブだった。1992年で、テレビで生中継されたのをわくわくしながら見た記憶がある。ミュージシャンが全員、ディランの歌を歌ったのだが、彼女だけがボブ・マーリーの「ウォー」を歌い、泣き崩れて、クリス・クリストファーソンに慰められた。その行動や坊主頭の姿にびっくりしたが、彼女を有名にしたのはプリンスのカヴァー曲「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」だった。カナダ人の友達の家を訪問した時に、壁にこの言葉が書いてあって、女性二人で暮らすカップルの関係が、この歌でよくわかる気がした。
・僕は2005年に初めてイギリスとアイルランドに行った。その目的は、パブでギネスを飲みながらアイリッシュ音楽を聴くことだった。アイルランド出身のミュージシャンには好きな人がたくさんいた。一番古いのはヴァン・モリソンでU2などとともに、シニードもその一人だった。こういった人たちのライブは無理だったが、パブでのライブや、アイルランドのフォーク歌手が勢ぞろいしたコンサートを、偶然ダブリンで聴くことができた。シニードはイギリスに苦しめられたり、飢饉で大勢の人が死んだことや、アメリカに移り住んだ人のことをテーマにした曲をたくさん歌っている。
・その2005年に彼女が発表した"Sean Nos
Nua"はアイルランドの伝統音楽を素材にしたものだった。このコラムで、「ゲール語で古いスタイル(Sean
Nos)と新しさ(Nua)を意味するタイトルに見られるように、彼女自身の雰囲気をのこしたアルバムに仕上がっている」と書いた。彼女はその後も何枚かのCDを出したが、ここ10年ほどは、ほとんどその名前を耳にすることはなかった。1966年生まれだからまだ50代で、死ぬには早すぎるのにな、と思った。
・P.S. と、書いていたらザ・バンドのロビー・ロバートソンが亡くなったという新聞記事を目にした。闘病生活の果てだったようだ。ザ・バンドについては、昨年「The
Bandという名のバンド」というタイトルで書いた。ロビーが製作した『ザ・バンド
かつて僕らは兄弟だった』をAmazonで見て、ザ・バンドについてはあまり書いていないことに改めて気づかされた。ボブ・ディランのバックとして活躍した印象が強かったが、このバンドでもいくつものヒット曲を作った。メンバーの大半が死んでしまったが、改めて聴き直して、もう一度取り上げようと思う。
2023年8月14日月曜日
シニード・オコーナーとアイルランド
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。