ジョン・アーリ、『社会を越える社会学』
『場所を消費する』『観光のまなざし』法政大学出版局
・「場所」ということばが気になっていた。じぶんが今どこにいて、何をしているのかといった感覚が不確かになる。電話がつながっているときに、私は今、どこで相手と話をしているのか。ここなのか、あそこなのか。もう20年も前に、電話というメディアについて考えたときに不思議に思った感覚のひとつがそれだった。(『メディアのミクロ社会学』筑摩書房)J.メイロウィッツの『場所感の喪失』(新曜社)はそれをテレビというメディアとの関係で分析していて、おもしろいなと思った。これは翻訳がいまだに半分だけだが、書かれたのは
1985年で、ぼくが不思議さを感じた時期と重なっている。
・同様の不思議さは、それ以降強くなるばかりだ。インターネットをはじめたばかりの頃に感じた奇妙な感覚。テレビのライブ放送が日常化して、世界中どこからでも、さまざまなニュースやイベントが飛び込んでくる。衛星放送が本格化して、ドキュメンタリーや旅行番組で世界中の場所や人びとにふれることも多くなった。あるいは、海外に出るのがジャンボ・ジェットで数時間で数万円。ついでにいえば、ぼくは家と職場の間(100km)を高速道路をつかって往復しているし、京都から東京に1年間、新幹線通勤をした経験もある。居ながらにしてあらゆる「場所」がやってくる。あらゆるところにいる人とつながる。そしてあらゆるところに出かけることができる。そんな時代になったことが、実感として十分すぎるほどにわかる。
・ジョン・アーリの『社会を越えた社会学』は、社会学がそんな変容を十分にとらえきれていないと指摘している。「社会的なもの」がつくりかえられ、「社会としての社会的なもの」から「移動としての社会的なもの」へと再構成されている。そこを見つめなければ、社会学はその対象を見失うというわけだ。たしかにそのとおりだと思う。
・ただし、社会学はそもそも、近代化した社会を考察する学問としてはじまっているから、移動や変容こそが前提にあった。人びとの田舎から都市への移動と、それによる生活空間の変容、職業や結婚が選択事項となり、ライフスタイルや生き方に個人の主体性が必要になった。アーリは、そのあたりについてさまざまに分析されて積み重ねられてきた社会学の仕事を丁寧に、網羅的に取り上げ、うまく交通整理をしている。
・社会にしても、コミュニティにしても、そして人間関係にしても、それが自明で自然なものであれば、わざわざ自覚的に対処する必要はない。社会はどうあるべきか、人間関係は、と考えたところから近代が始まったとすれば、社会学はそもそも移動と変容をあつかう学問だったはずである。ただし、アーリがいうように、移動そのものに強い関心が向けられてきたわけではない。たとえば、「鉄道」についてはシヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史』以外にはめぼしい仕事はないし、「自動車」については本格的なものはほとんどないのが現状だろう。アーリはその移動と場所の社会学のフィールドを「観光」に求めていて、『観光のまなざし』という本も書いている。
・場所をとらえるための切り口として、アーリは「時間」と「空間」の概念に着目している。たしかに、「場所感」にゆがみを生じさせているのは、時間と空間の間にあった常識的な関係の崩れにあるからだ。移動する時間の短縮は、自動車、高速道路、あるいはジェット機などによって飛躍的に加速化したし、インターネットによって、情報だけなら瞬時で世界中を駆けめぐることも可能になった。誰もが気楽に、物理的な移動やバーチャルな回遊を楽しむようになると、出かける場所もまた、あらたに生みだされることになる。アーリは観光地を、そんな「消費されるためにつくられた場所」としてとらえている。
・社会がある程度固定した場所と、そこでの人間関係をよりどころにして実感できるものだったとすれば、「移動」を常態化する社会のなかでは、人はどのようにして「社会」を確認するのだろうか。スタジアムの観客として、繁華街を遊歩する人混みとして、有名人を取り囲むファンとして、観光地に殺到する旅行者として、あるいはBBSに書き込みをする人として………。そんな束の間の実感は、また一方で排他的で狭窄的なナショナリズムを増殖させたりもする。
・アーリの本はどれも網羅的に文献をあたるといったものだから、話題に沿って別の本に「移動」してまたもどるといった読み方をしたくなってしまう。ひとつの場所に落ち着いて一気に読むというわけには行かない本である。