2007年5月6日日曜日

レジ袋は必要です

 

・レジ袋をやめようという声がまた聞こえはじめた。最初に聞いたのは京都に住んでいたときだから、もう10年も前になるのかもしれない。わが家ではレジ袋を家のゴミ籠に入れて使っているから、これがなくなったらわざわざ袋を調達しなければならないわけで、ずいぶん勝手なことを言うなあと憤慨したことを覚えている。京都生協がそのような呼びかけにいち早く呼応して、レジ袋を有料にしたから、ぼくは別のスーパーに行くことにしてしまった。
・わが家の買い物はずいぶん昔から週1回と決めている。だから二人になった今でも、買ったものにはレジ袋が4〜5枚いる。子どもと一緒の頃は、7〜8枚は必要でワゴンの荷台が一杯になるほどだった。かわりに専用の袋をというのは毎日買い物をすることが前提の発想で、遠くのスーパーに車で出かけてまとめ買いする人のことを全然考えていない。こんな呼びかけを何度くりかえしても、普及するはずはないのに、どういう訳かまた、レジ袋を悪者扱いしはじめている。
・レジ袋はスケープゴートにされている。ぼくは確信的にそう思っている。レジ袋が悪いんだったら、商品を小分けしているパックやラップだってやめたらいい。商品にだって過剰包装が多すぎる。袋菓子を買うと飴やチョコレートやビスケットがまた、一つひとつ小袋に入っている。ちょっと気取って高級品ふうに見せるために、どれほど無駄な包装がなされているだろうか。
・ぼくはペットボトルや缶の飲み物は滅多に買わない。まるでゴミを買っているように感じてしまうからだ。河口湖の周辺を歩いていても、車を運転していても、どこでもペットボトルがころがっている。そんな光景にうんざりしているから、とても買う気にはならないのである。それはメーカーがたくさん買わせるために工夫した容器だから、メーカーが責任を持って回収すべきだし、回収費を値段に上乗せすればいいのに、そんなことは誰も言い出さない。
・ゴミが有料化されて、わが家でも黄色の専用の袋に入れて出すことになった。だからだろうか、公共のゴミ捨て場に持ちこまれるゴミが急増しているそうだ。たとえば高速道のサービスエリアはそのゴミの処理に苦慮しているようだし、電化製品などの廃棄処理費用がかかるようになって、大型ゴミの放置も目立つようになった。人里離れた峠道で一服、と思って車を降りると、足下から数メートル下の草むらにテレビや洗濯機の残骸がある。そんな現象がレジ袋ひとつでどうなるわけでもないのに、すぐに「地球に優しい」などという馬鹿なことばをくっつけて奨励したりするから、まったく腹が立ってしまう。
・レジ袋は商品そのものについているわけではないから、なくなってもメーカーや店は困らない。使わないようにすれば、消費者には資源の節約をしているといった気持ちが生まれる。要するに、狙われやすいのだが、これを節約したからといって、資源浪費の実勢になにか歯止めの効果が出るわけではない。レジ袋を悪者にしておけば、パックもラップもペットボトルも安泰というわけで、まさにスケープゴートそのものなのである。
・ゴミを減らすことに本気で対処するというなら、ぼくは異論はない。実際わが家では、さまざまな工夫をしてもいる。たとえば生ゴミは庭に穴を掘って埋めることにしている。天ぷらやフライに使った油は、炒め物をするときに利用しているから、捨てることはほとんどない。天かすなども庭に撒いて肥料にしている。凝固剤を入れてゴミ箱にポイといったCMがあるが、見るたびに何という無駄!と思っている。調理した後のフライパンやナベも洗剤で洗い流したりはしない。肉や野菜を調理した後にはゴミではなく、うまみが残る。だからそれはスープの出汁になる。洗い流すのはもったいない話なのである。食事の終わりには、皿に残った肉汁やソースをパンでこすって食べる。これも捨ててはいけないおいしい部分で、しかも、皿洗いを簡単にしてくれる。だからわが家では台所用の洗剤も必要ない。
・こんなふうに気をつけて生活している上で言うのだが、レジ袋は買い物時はもちろん、その後でもゴミ袋やその他いろいろ利用できて無駄なものではない。無駄や資源の浪費を口にするのなら、ほかに思いあたるものが身の回りにたくさんある。つくる人、売る人、買う人が、どこまで本気でそのことを考えようとしているのか。ぼくはまったく信用していない。

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