2007年10月22日月曜日

富士山の秋

 

photo43-1.jpg


・あたりの紅葉がまだまだなので、富士山を上がってみることにした。河口湖からはスバルラインが一般的だが、富士吉田口の滝沢林道も5合目まで通じていて無料だ。で、まずは、一度も行っていない船津胎内樹型から。噴火の際に溶岩で埋もれた大木のあとが洞窟になったもので、付近にはあちこちある。まるで母親の胎内のようだというのでこんな名前がついたが、そうすると神社の中にある入り口は………?。しゃがんでも頭がぶつかりそうな狭い洞窟が縦横に広がっていて、たしかに奇妙な世界だった。
photo43-2.jpgphoto43-3.jpg


・滝沢林道は4合目で通行止めになっている。平日だがキノコとりの人たちの車が結構とめてある。ナンバーも湘南や多摩や沼津といろいろだった。海抜は1800mぐらいだが、まだ寒いというほどではないから、木々の色づきもまだこれからという感じだった。黄色に色づくダケカンバは白樺の一種だが、ずっと頑丈そうで、しかも大木が多い。傾斜地に横に傾きながらしっかり根づいているものもある。
・山のせいか天気はめまぐるしく変わる。青空がのぞいたかと思うと、霧が下からはい上がってきて、あっという間にもやってしまう。残念ながら上も下も眺めはほとんど望めなかった。

photo43-4.jpgphoto43-5.jpg
photo43-6.jpgphoto43-7.jpg


・2時間ほど歩いて、5合目の佐藤小屋に着いた。2230m。登ってきたのは、ほかに湘南から来たちょっと上の世代の夫婦とロシア語を話す10人ほどの集団。それに、途中で、下ってきたアメリカ人とモーリシャス人の青年。ふたりは昨日の夜頂上まで登っただが、道をまちがえて吉田口に降りてきてしまったようだ。バス停はないかと聞かれたが、富士吉田の町までずっと歩かなければだめだと答えてわかれた。佐藤小屋は一年中開いていて、冬山登山の基地になっている。ここで見事なトリカブトを見つけた。富士山の木々はここから少しあがったところが限界で、その上は砂地にわずかな草があるだけとなる。で、引き返すことにした。

photo43-8.jpgphoto43-9.jpg


・富士山はあちこちで崩落していて、砂防ダムがつくられている。その中の大きなひとつに近づくと、下界に山中湖が見えた。しかし、上はまるでダメ。4合目までの下りは1時間ほどで、車で下っていくと、さっきの青年たちが歩いている。で、河口湖まで乗せてあげることにした。ふたりは東京で仲良くなって、富士登山に来たようで、このあとは一緒に京都まで行くらしい。アメリカとモーリシャスが東京の浅草で出会い、そのふたりに富士山で出会う。旅のおもしろさで、貧乏旅行をすればこそだが、だからこそ、誘拐、なんてことにもなりかねないのかもしれない。

photo43-10.jpgphoto43-11.jpg


・本当に久しぶりに快晴になった。朝、河口湖まで出ると、冠雪した富士山がきれいに見えた。気温も急に下がって、2度。紅葉が一気に進む陽気になった。

photo43-12.jpg


2007年10月15日月曜日

秋がきたような来ないような

 

forest63-1.jpg・今年の夏休みは忙しかった。特にしごとがつっまていたわけではない。ただふりかえって、そう思う気がするということだ。大きなしごとは『ライフスタイルとアイデンティティ』の校正で、これはたっぷり時間をもらったから、じっくりやることができた。いつもながら世界思想社のチェックは厳しくて、参考文献のこまかな表記や、引用文のマチガイまで指摘されてしまった。日頃からきっちりノートをとって、その都度マチガイがないか確認しておくべきだったと反省するが、新しく読んだ本のノートをつくりはじめると、またチェックは後回しでいいと思う気持ちになってしまう。その校正も、三校目が来て、最終のチェックをしているところである。

forest63-3.jpg・いつになく、部屋にとじこもって机に座っている時間が長かったせいか、お盆にぎっくり腰になった。甲斐駒ヶ岳への登山は何とかがんばったが、気にならなくなるのに1ヶ月以上かかってしまった。忙しいときでも体を動かさないと、すぐに固くなってしまう。実はぎっくり腰はカヤックをして分解するときにやったのだが、9月の末に久しぶりに河口湖に漕ぎ出した。カヤックの組み立てと分解は、中腰になることが多く、前にもぎっくり腰になったことがある。だから、こわごわ気をつけた。しかし、なんと言っても運動不足で、近くの散歩の散歩だけでは飽きてしまうから、折り畳みの自転車を買った。

forest63-2.jpg・マウンテンバイクだが、悪路を走れるほどのものではない。さっそく乗り出して、すでに河口湖を何周もした。河口湖は一周がおよそ20kmで、家からだと+5knぐらい。それを今までの自転車でのんびり走ると1時間半ぐらいかかっていたのだが、27段変速でスピードが出るから、最初から15 分ほど短縮できた。そうなるとついつい記録を更新したくなる。2回目からは、かなりがんばって漕ぐようになって、その度に記録を縮めたが、1時間を切ったところで、がんばるのはやめにした。それからは、思いっきり漕いだり、ゆっくり流したり、あるいは止まって休んだりしながら回っている。しかし、同じ道は飽きてきたので、車に積んで、他の湖にも出かけようかと考えている。



forest63-4.jpg

forest63-5.jpg

・ところで、秋がちっとも来ない。稲刈りの季節にはなったが、周囲の山は緑一色で、林道を車で走っても、山の上でもまだ秋ははじまったばかりの感じだ。もっとも、秋の味覚は豊作だ。森の山栗が3年ぶりで収穫できた。写真の籠に3杯ほどで、よそへわけて、あとは皮をむいて栗ご飯や栗パン、そしてレンジでチンして食べた。のこりはお正月の栗きんとん用に冷凍した。富士山の松茸も近所のJAで見つけて買って食べた。はじめてで、大きなやつが2本で 2000円。松茸ご飯はまずますだったが、においがないから、焼いても今ひとつの味で丹波のものにはとても及ばない。もっとも、実際には松茸ではないという説もあるようだ。ただ、富士山の滝沢林道を上ると、止まっている車がいっぱいで、松茸狩りに来ている人の多いのには驚かされた。

・このあたりでも、紅葉は11月に入ってからで、すっかり枯れるのは12月になってから。そんな感じが、ここ数年続いている。東京の紅葉は12月だそうで、冬になるのがおそくなったなとつくづく感じてしまう。

2007年10月8日月曜日

先人の『富士日記』

 

takeda-fuji.jpg・武田百合子の『富士日記』(中公文庫)は友人のクロちゃんの愛読書である。わが家に来た折りに持参して、忘れて帰ってしまったのが、読むきっかけになった。何度も読みかえしているという彼女の話を聞いて不思議な気がしたが、読んでみると、その理由がなんとなくわかるようになった。どこから読みはじめてもいいし、どこでやめてもいい。同じところをくりかえして読んでもいい。ぼくは1ヶ月ほど前から、寝る前に読むようになって、やっぱり、行きつ戻りつしながら、やっと3冊目まできた。

・武田百合子は作家の武田泰淳の奥さんで、河口湖から富士山に登る途中にある富士桜高原に別荘を買って昭和39年から暮らしてきた。『富士日記』はその記録で、昭和51年まで続いている。もちろん、公表を念頭において書いたものではないが、その量は3巻本で1500頁近くになっている。「武田が死ななければ、活字にしていただけるようなこともなく、日記帳は押入れの隅の段ボール箱にしまわれていたものと思われます。彼方の岸から武田は言っているのではないかしら、『百合子何やってるんだ、俺がいなくなったら。ーー恥ずかしい』と」。しかし、この日記は昭和52年に田村俊子賞を受賞している。そんな気もなく書き続けたものだが、読めばたしかに良質の日記文学になっている。

・ぼくは武田泰淳の作品はほとんど読んだことがない。だから、最初に感じたおもしろさは、泰淳自身やその家族のプライベートな一面ではなく、河口湖周辺の40年ほど前の様子だった。昭和39年は東京オリンピックがあった年で、河口湖周辺も、大きく変化をしはじめた頃だった。経済成長の波に乗って、ゴルフ場や遊園地(富士急ハイランド)ができ、別荘地が開発された。冬の厳しい寒さと溶岩台地の痩せた畑で貧しい暮らしをする人が大半だった地域にも、戦後の豊かさが訪れはじめている。この日記を読むと、そんな変化が随所に読み取れる。

・たとえば、彼女は地元でよく買い物をし、すぐに親しくなることを特技にしてるが、地元の女たちに「奥さんは毎日何をやってるだね」と聞かれるところがある。「洗濯や掃除、買い物………」とこたえると「そんなこたあ、仕事のあいまにするもんずらー」と言いかえされてしまう。専業主婦は都会の中流家庭に限られた、新しい夫婦の役割分担にすぎなかったのである。

・もちろん、この時代に別荘を持って都会から通うといったライフスタイルは、ごく限られた人(有閑階級)だけに可能な特権だった。しかし、それだけにまた、快適で安楽な一面ばかりではなかった。例えば高速道路はないから、東京からの道のりには3,4時間はかかってしまう。東名高速が厚木まで開通したのが昭和43年(1968)で、中央自動車道の八王子ー河口湖間が開通したのは翌44年(1969)である。あるいは、自動車の性能も、今とは比較にならないほど心細いものだった。運転するのは彼女一人だが、よくパンクをし、故障もしている。事故を目撃したという記述もひんぱんにあるが、事故による死亡者数が最も多かったのは、1970年で、1万6765人に達している。ちなみに彼女も一度追突され、痛めた背骨の後遺症で、その後ずいぶん悩まされている。

・武田泰淳にとって百合子は妻であるだけでなく、専用運転手であり、また有能な秘書でもあった。彼が病に倒れてからは、口述筆記の作業も任されている。おもしろいのは泰淳の書いた原稿を河口湖駅に行って列車便に乗せるという作業だ。これだと、3時間弱で新宿駅まで届く。電話や速達で出版社にその旨連絡するのだが、電話は別荘にはない。それほど売れっ子の作家ではなかったと思うが、河口湖に来れば必ずその仕事がある。あるいは、急な電話が管理人のところにかかってきたり、郵便局員が速達を運んできたりと、なかなか忙しい。

・別荘に建てられた家も、現在のものとはずいぶん違う。水道が凍って破裂する。雨、風、雪で破損箇所が出る。防寒対策が不十分で、家の中まで凍りついてしまう。そんなことへの対応も、地元の業者とのやりとりとなっておもしろく語られている。作業に来た人にはお茶だけでなく、食事も振る舞い、ビールなども出していたようだ。そういえば、地元の人も、そして彼女もアルコールを飲んでの運転に罪悪感をまるで持っていない。今では考えられないことだが、思いかえしてみれば、そんな風潮になったのはつい最近のことで、河口湖周辺では今でも、飲んで車で帰宅といった例は少なくないようだ。

・もうひとつ、季節に対してもった違和感も書いておかなければならない。近所とは言え、ぼくの家と彼女の別荘では、気候が少し違う。富士山の麓は傾斜地で、わずかの距離でも海抜が100mも200mも違ってくる。だから、夏はともかく、冬の寒さにはかなりの違いが出てくる。けれども、その差を差し引いても、この本の書かれた40年前に比べて、最近の冬は温暖だ。第一に秋や冬の訪れが半月から1ヶ月ぐらい遅くなっている。今はもう10月で、本では紅葉の様子がくりかえし語られているが、わが家の森はまだ、緑一色である。おそらく、10月の後半にならなければ、本格的な紅葉は始まらないだろう。

・こんなふうに、読みながら考えること、想像すること、ふりかえることが少なくない。別荘に来ると作者は精力的に車で走りまわり、あちこちに出かけている。今とはずいぶんかわったところ、相変わらずのところなど、いろいろあって、ただ読むだけでなく、実際に出かけて確認したくもなってくる。おそらく、ぼくにとってもクロちゃん同様、読み終わったらおしまい、というのではなく、時折開いては少し読むといった種類の本になるのだと思う。今日の食事=朝、昼、晩。今日の買い物=肉、野菜、缶詰………。こんな記述ばかりがくりかえされる内容だが、奇妙におもしろい。武田百合子の観察眼と文体のせいだろうか。だとしたら、それは門前の小僧として習得したのか、それとも彼女の才能なのか。

2007年10月1日月曜日

松坂と野茂

 

・今年のMLBの公式戦が終わった。以前、ということは野茂が先発投手として出ていた頃と比べると、すっかり熱が冷めた感じだが、松坂の投げる試合はちょっと気になった。1億ドル投手、魔球のジャイロ、20勝、新人王に三振王、あるいはオールスター出場とにぎやかにはやしたてられたが、終わってみて、とても華々しい活躍といえるほどではなかった気がする。成績はまずまずだが、テレビを見ていて途中でやめることが多かった。突然崩れてゲームを壊すシーンが何度もあったし、球数が多くて時間がかかる試合ばかりだったからだ。

・日本のジャーナリズムはあまり注目していないが、アメリカのサイトでは、野茂と松坂を比較する記事をシーズン途中からいくつか見かけた。で、その結論は、野茂には及ばないというものだった。たしかに印象としてはそう感じたが、実際の成績はどうだろう。ネットで探すと、メジャー・リーグのあらゆる記録を載せているサイト"Retrosheet Official Web Page"を見つけた。ここでNomoのページを検索すると、彼の投打や守備にわたるすべての成績がわかる。で、1年目の1995年の成績と今年の松坂を比較してみた。今年の成績は例えば、YahooのMLBなどで見ることができる。


名前試合数完投完封投球回数奪三振四死球自責点防御率
1995野茂2813643191.1 23678542.54
2007松坂32151210204.2201 801004.40

・マイナーで開幕を向かえた野茂のメジャー・デビューは、5月になってからだった。登板数の違いはそのせいで、どちらもローテーションをはずさずに、シーズンを終えている。まず勝ち星は松坂が2つ多い。しかし、松坂は野茂の倍も負けている。これは、防御率の2点近い差をみれば当然な結果だろう。ちなみに自責点も倍近い。松坂は長いイニングを投げたがって監督を手こずらせたが、完投はわずかに1回で完封はしていない。一方で、野茂は完投が4つでそのうちの3試合に完封勝利している。その差は投球イニング数になってもあらわれている。

・印象の違いとしてもっとも目立つのは、1試合の三振数の違いだろう。4試合少ないのに、野茂の方が35も多い。野茂はデビュー4試合目に 14個の三振を奪い、最高で16個、13個を3試合、それらを含めて二桁奪三振の試合を11試合も記録した。一方松坂は、10個の試合が3つだけだ。どちらも、日本を代表する奪三振王だが、今年の松坂の成績と比較すると、ドクターKと名のついた野茂の活躍がどれほど鮮烈だったかがはっきりする。反対に四球の数は意外な数字といえるかもしれない。野茂の四球は日本で投げていた頃からおなじみだったが、松坂のコントロールは悪くないはずだった。しかし、ここでは松坂の方が上まわっている。しかも、野茂は四球からピンチになっても持ちこたえて、それがはらはらどきどきの要素になったのだが、松坂はそこから四球を連発して、大量点につながることが多かった。

・そんな野茂の活躍は、日本のプロ野球機構や近鉄とのいざこざがあり、マイナー契約で年俸が11万ドル(約1300万円)だったことなどによって余計に増幅して受けとめられた。日本を代表する投手ではあっても、メジャーでは通用しないだろう。第一に、日本を捨ててアメリカで野球をしたいなどというのは生意気だ。そんな風潮が野球関係者やスポーツ・ジャーナリズムには強かった。

・ところが、それから12年たって、日本を代表する選手には、メジャーでもトップクラスの評価がなされるようになった。だからその分、マスコミの論調は、松坂についた1億ドルの値段に反応して、期待を過度に増幅させたといえるかもしれない。もちろん、1億ドルの半分は西武に払われたものであって松坂にではない。しかし、彼はメジャーでの実績なしに、600万ドル+出来高という年俸を5年契約で獲得した。今年の成績がその額に見あうものかどうか、判断するのは難しい。野茂がメジャーでいくら稼いだのかはわからない。しかし、彼が残した成績と彼が稼いだお金を考えたら、戦う前にほぼ同額か、野茂が稼いだ以上のお金を保証されるという待遇は、実力を遙かに越えたものだったといわざるをえない。松坂の1年を見て、まず感じたのはそのことである。

・メジャー・リーグのインフレは、多分、極限にまで来ている。そして日本のプレイヤーに対する評価は、今年の松坂の成績で、少し冷やされることになるかもしれない。松坂を取り損なったヤンキースが、代わりにととった井川は、2勝しかあげられずに、マイナーに何度も落とされた。彼程度のクラスのピッチャーなら、大金をはたかなくてもマイナーにごろごろいる。ヤンキースやレッドソックスから次々台頭した新人選手を見ていて、そんなことを感じたが、そのことを誰より悔いているのはヤンキースの首脳陣かもしれない。

・ともあれ、シーズンは終わったがポスト・シーズンがある。松坂は、大舞台になればなるほど本領を発揮するから、ワールドシリーズのヒーローになるかも知れない。その可能性は彼には十分あると思う。野茂が憧れつづけてかなわなかったワールドシリーズめざして、ぜひがんばってほしいと思う。

2007年9月24日月曜日

病名の不思議

 

・安部首相が突然の辞任表明をして、即入院をした。病名は「機能性胃腸障害」。聞きなれない病名だと思ったが、要は、胃腸の調子がちょっと悪い程度の症状だという。胃酸が少なければ薬で補い、多ければ、やっぱり薬で抑えてやる。それなら入院などしなくても、薬で対処できるのではないか。そんな疑念を感じたら、実はもっと深刻で「潰瘍性大腸炎」らしいという記事も目に入った。あるいは、体よりは心が参っていて、側近の人たちは「自殺」をしないかおそれている、という噂もあったようだ。

・そんなふうに聞くと、突然の辞任も仕方がないか、と判断したくなる。しかし、一方で、辞任はどうにも弁護できないスキャンダルのせいだという記事もある。週刊現代が報じた、胃酸ではなく遺産の相続をめぐる疑惑である。立花隆の記事によれば、国会を混乱させるに十分な疑惑であるようだ。だとすれば、辞任とその理由にされた病気は、単に、疑惑を闇に葬り去るための道具だったということになる。

・そういえば、よく似た事例がもうひとつあった。横綱朝青龍の問題である。夏場所で優勝した横綱は、病気を理由に夏の巡業を休むことにした。病名は「脊柱圧迫骨折」というおそろしそうなものだった。脊椎が折れていて良く相撲が取れたものだが、気力でがんばったということなら、夏の巡業は大いばりでお休み、ということだったのだろうと思う。ところが、帰国したモンゴルで中田英寿と親善サッカーを楽しんだというニュースが飛び込んで大騒ぎになった。

・帰国した朝青龍は、何の弁解も謝罪もせず家に閉じこもって、親方にさえまともに話をしなかったから、マスコミの格好の餌食になった。相撲協会がした処罰は二場所出場停止と自宅謹慎。横綱はまったくコメントを出さず、ひきこもりを続け、何人かの医者がかわるがわる訪れて、いろいろな病名をつけた。「神経衰弱」「急性ストレス障害」「乖離性障害」………。

・不祥事を起こして世間の非難を浴びているのだから、落ちこむのは当然だろう。しかし、それにすぐにもっともらしい病名をつけるというのはどうしたものか。土俵上では気力をむき出しにして、精神力の強さを誇示した横綱だったから、彼のとった行動と周囲のうろたえぶりが余計に奇妙に、滑稽にさえ見えた。で、治療にはモンゴル帰国が不可欠という判断が出た。この間朝青龍からは、一言の発言もなかった。

・最近生じたこのふたつの出来事からは、どんなことでも病気を理由にすれば、不問にふしてもらえる、という考えが見えてくる。実際、何か都合が悪くなると「入院」して、もっともらしい「病名の」ついた病人になるといったケースは少なくない。あるいは事件をおこした容疑者に精神鑑定の要ありといったケースもよく耳にする。病気はすべてを不問にする。こんな発想は、今に始まったものではないのかもしれない。しかし、医者がもっともらしい病名をつければ病気とみなされる。そんな傾向がやけに目についたりもする。

・もっとも、逆のことも感じてしまう。つまり、第一線で働くためには「健康」であることが必須条件だという点だ。だから、仕事の環境は、時間の長さやストレスの強さなど、健康を害する要因で一杯なのに、誰もが、体の不調をおして無理して仕事をしてしまう。そうやってがんばることが、積極的な評価の基準になったりするから、病気を隠して働きつづけることもしなければならなくなる。

・心身の状態、あるいはその変調をどう自覚し、どう公表し、どう対処するか。それは、何よりじぶんの問題だが、社会的にはまた別の意味がある。だから時に必要以上に医者にたよったり、また病院を避けたりもする。安部も朝青龍も、病気としてはそれほど深刻なものではないのだろう。しかし、どちらにしても、仕事上の生命が失われたことは間違いない。

2007年9月17日月曜日

Patti Smith "twelve"

 

・パティ・スミスの新しいアルバム"twelve"には自作の歌がない。盛りこまれた12曲はどれもが彼女にとって意味のある大事な歌のようだ。収録曲は以下の通り。若いころに憧れた人、よく聴いた曲、同世代のミュージシャンの歌が選ばれていて、彼女より若いのはニルヴァーナだけである。

1.Are You Experienced? (Jimi Hendrix)
2.Everybody Wants To Rule The World (Tears for Fears)
3.Helpless (Neil Young)
4.Gimme Shelter (The Rolling Stones)
patti12.jpg5.Within You Without You (The Beatles)
6.White Rabbit (Jefferson Airplane)
7.Changing Of The Guards (Bob Dylan)
8.The Boy In The Bubble (Paul Simon)
9.Soul Kitchen (The Doors)
10. Smells Like Teen Spirit (Nirvana)
11. Midnight Rider (Allman Brothers)
12. Pastime Paradise (Steavie Wonder)

・ぼくはパティ・スミスをデビューからずっと聴いている。女では一番好きなミュージシャンだから、このコラムでもすでに何度もとりあげている。そんなに久しぶりだと思わなかったが"trampin'"からは3年もたっている。2002年にベストアルバム"Land"を出した。後ろをふりかえらないという彼女らしいこだわりがあって、このアルバムには「わたしは過去とはファックはしない」ということばが書かれていた。彼女らしいと思ったが、それは決していいわけではなく、「ふりかえるけどふりかえらない」といった矛盾した気持の表現なのだと思った。
・"twelve"は完全に過去をふりかえっている。ただし、ノスタルジーではなく、自分の歩いた軌跡を記録してとどめておくためである。とりあげた12曲についてのコメントがどれもおもしろい。ジェファーソン・エアプレーンのグレース・リックは少女時代の彼女にとって「ロックンロールの異端の女王」だったし、ボブ・ディランはピカソのように、芸術的にも人間的にも永遠に広がり続けるステージに引き出してくれた人である。ジミ・ヘンドリクスの"Are You Experienced?"は70年代の頃からレコードに入れたかったが、その資格はないと思いとどまったと書いてある。
・どの曲も聞き覚えがある有名なものだが、やっぱり、パティの歌になっていて、自分の曲のように聞こえてくる。だから、オリジナルのサウンドはどうだったか気になって、何曲も聞きくらべたりしてみた。一番原曲に近いのはローリングストーンズの"Gimme Shelter"で、彼女の歌に一番なりきっているのはジファーソン・エアプレーンの"White Rabbit"。ビートルズの歌がなぜ、"Within You Without You"なのかというと、彼女が一番親しかったのがジョージ・ハリリスンだったからのようだ。
・ディランの"Changing Of The Guards"は「ストリート・リーガル」の1曲目の歌だ。聞きくらべようと思って探すとCDがない。買ってないことにあらためて気づいたが、理由は宗教色が強く出たりして、ディランが一番つまらない時期だったからだ。レコードで聴くと例によって針飛びがする。で、買い直すことにした。彼女がこの曲を選んだ理由は、ニューヨークで落ちこんでいる時に、これを聴いて涙を流したからだという。難解でよくわからない歌詞だが、ディランにとっては一つの時代への訣別宣言のようでもある。16年とはディランのデビューから数えて、この歌が発表されるまでの時間である。ぼくにとっては、訳のわからないところに行き始めた、という印象が強かった。

16年
16年の旗が共同戦線を張った
ところは良き羊飼いがなげく野原
彼らの羽を落ち葉のしたにひろげた

平和は来る
焔の車輪に静寂と豪華をのせて
だが にせの偶像の没落以外には なんのむくいもなく
「護衛の交代」『ボブ・ディラン全詩302篇』晶文社

・今ある自分は、さまざまな人びとや出来事との出会いや交差、衝突の結果として存在する。得たもの、失ったもの、変わったところと変わらないところ。そのことをふりかえってみることは十分に意味がある。ぼくも最近、そんなふうにして、ふりかえることが多くなった。

2007年9月10日月曜日

ディジタルとアナログ

 

journal1-112-1.jpg・ipodは便利に使っている。イヤホンでというよりは、家でステレオにつなげて聴いている。もちろん、車に乗るときにも欠かせない必需品だ。とにかく、無精者にはもってこいの道具で、CDを差しかえることが面倒になってしまった。そのipodについて、スティーブン・レヴィの本を見つけたので読んでみた。
・ウォークマンの歴史が長い日本では、好きな音楽を持ち歩いて聴く行動は、特に目新いしものではない。しかしアメリカではちょっと違うようだ。耳をふさいで街中を歩く。そのコミュニケーション拒絶のポーズが、いろいろ批判されて話題になったようだ。手前味噌のようだが、そのことはすでに、 20年近く前に『メディアのミクロ社会学』(筑摩書房)で指摘したことがある。
・だったらipodには新しいものはないかというと、そんなことはない。音楽のディジタル化はレコードをCDに変えたが、ipodはCDやケースといったモノを不要にして、音楽をMP3という形式の情報だけにした。iTunesストアで1曲99セントでダウンロードして売るようになった。不正コピーに頭を悩ましてきたレコード産業には、新しいビジネス・スタイルの発見だが、それは必ずしも喜ばしいことではない。


・CD自体が消えてしまうというのに、CD型のパッケージ商品という幻影を守る意味がどこにあるのだろう?ロックバンドも交響楽団も、特定のレーベルと契約を結んだりせずに直接iTunesストアや他のオンラインストアで曲を売れる時代になったら、音楽レーベルはどうやってアーティストを繋ぎ止めておくつもりなのだろう?その頃、レコード会社はどんな地位にいるのだろうか?(p.206)

・ipod の登場によって、音楽産業の情勢が激変する。そうなったらおもしろいと思うが、実際にはどうだろうか。世界中の音楽がわずか数社の巨大な多国籍企業に支配されている状態が長いことつづいている。それが果たして崩されるのかどうか。一時の流行ではなく、まさしく「メジャー」を頼らない「インディーズ」の時代になったら、音楽そのものがかわっていくのだろうか?

journal1-112-2.jpg・とはいえ、ディジタルとアナログの関係はもっと深く広いものだから、それを音楽に限定してしまうのは、事の本質をひどく矮小化してしまうことになる。スティーブン・レヴィには『ハッカー』(工学社)という、パソコン誕生前からコンピュータに夢中になった連中についてのルポがあって、以降もコンピュータに関連する労作を何冊も書いている。その中の1冊、『人工生命』(朝日新聞社)も、この夏あらためて読んでみた。
・コンピュータ開発の初期段階、あるいはそもそもの発想段階からあった目的の一つに、「人の手で命を創り出せないか」という野望があった。命あるものは何より物体として存在する。コンピュータによって産み出されるものはディジタル情報だから、物質化させることはできない。しかし、命あるものはかならず物体として存在しなければいけないのか。そんな疑問は、種の保存を司るのがDNAといった遺伝子情報であることに注目することによって乗り越えられる。コンピュータ内に生命が誕生し、進化するための環境を作れば、やがて単細胞の命が生まれ、それが勝手に進化を遂げていく。レヴィーの『人工生命』は、そんな野心に夢中になった人たちの物語である。

journal1-112-3.jpg ・人は何より身体として存在する。そして身体を制御する司令室は脳にあって、ここには「私」というじぶん自身を意識する働きもある。ジョン・C.リリーは『意識の中心』(平河出版社)で、その脳をコンピュータとして理解している。そのバイオコンピュータにはプログラムが組みこまれ、プログラムを管理するメタ・プログラムが置かれている。リリーによれば「心はプログラムとメタプログラムの総体、すなわち人間コンピュータのソフトウエアなのである。」
・たとえば、新しい環境に馴染む、新しい仕事や技術を覚え、習熟する。それを一つのプログラムの生成と精密化として考えれば、この発想には合点がいくことが多い。そのプログラムを自覚的に管理するのは「意識」というメタプログラム(プログラムのためのプログラム)で、それらの総体が「心」になる。
・おもしろいのは、ジョン・C.リリーがこのような発想に気づき、確信したのはLSDを自ら使って試みた実験だったということだ。彼の『バイオコンピュータとLSD』(リブロポート)によれば、それはドラッグ文化がにぎやかになる60年代の対抗文化以前に行われている。彼はLSD体験によって、自分の心が自分の身体を離れ、空間はもちろん時間的にも無限の旅をすることになる。もちろん、彼は科学者だから、その心を「霊」や「魂」といった宗教的な言説に直結したりしないし、ファッション化したドラッグ文化にも批判的である。

・ディジタル化とは実体あるものを01の数字に置きかえて代替することだ。しかし、実体ととして存在する生命が、ディジタル情報によって生成され管理されているのだとすれば、生命の本質にあるのはアナログではなくてディジタルだということになる。そんな発想を理解したら、ノーバート・ウィナーのサイバネティックスが気になり始めた。彼の『人間機械論』(みすず書房)には、サイバネティックスは「有機体(organism)を通信文 (message)とみなす比喩」として発想された研究視点だという説明がある。有機体の根源にあるのはメッセージ。だから実体には形や質量がなくてもいい。そんな発想が、今、いろいろな形で現実化して、身の回りに目立ち始めている。ipodがその端的な一例であることはいうまでもない。