2008年8月11日月曜日

「自然」を心地よく味わうために

 

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・7月になったら、急にBSの映りが悪くなった。特にNHKがちらちらするし、声もとぎれがちだ。天気が悪いときに出る症状だが、雲一つない日でもそうなる。原因は衛星に向けたアンテナを邪魔するように茂った栗の木だ。森の木は毎年成長する。冬は明るい家の中が、今の季節になると薄暗いというより、真っ暗になる。森の外はまぶしいほどだから、その対照が余計に目立つのだ。枝打ちをした方がいいのだが、大木になった枝は、2階の屋根よりもはるかに高いところにある。梯子を使ってもとても届く高さではない。

・地デジも受信できないから、やっぱり、ケーブル・テレビにしなけれなばならないのか、と諦めかけたが、ものは試しと、木にへばりついているツタを切ってみた。上の写真のように、この森ではどの木にもツタが幹一杯にからみついている。それが森をいっそう緑にし、また薄暗くしているのだが、ひょっとしたら電波も妨害しているのではないか。そんなことをふと思いついた。

・ツタは切ったからといってすぐに枯れるわけではない。しかし葉が枯れて、風や雨で落ち始めると、テレビの映りがよくなった。葉の生い茂った枝にわずかの隙間ができて、そこを電波が通りぬけるようになったのである。もちろん、ちょっとした天気の変化で映りは悪くなるし、風が吹けば画面も揺れる。

・これでしばらくはテレビも見られそうだが、応急処置であることに代わりはない。庭にもう少し光を入れるためにも、伐採を頼もうかと思っている。ソーラーの庭園灯がバッテリー不足でつかないし、朝顔の生育も悪い。第一に、家の中がいつもよりも増してじめじめするようになった。とは言え、森の中はやっぱり涼しい。森の外は30度でも、中に入れば、冷気が心地いい。その環境を壊さずにおくためには、かなり微妙で頻繁な手入れが必要だということになる。自然を心地よく味わうためには自然のままにしておいてはだめなのである。

forest69-2.jpg・「自然」といえばもうひとつ。去年あたりから猿軍団が頻繁に現れるようになった。今年は、サクランボや桑の実が食べ頃の時に来て、枝を揺らし、糞をして帰って行った。近くの畑では、キュウリもトウモロコシもブルーベリーも大きな被害を受けている。毎朝散歩をするパートナーは、その様子を何度も見かけたようだ。もちろん、猿たちは彼女が近づいたからといって逃げるわけではない。あるいは、畑で作業をしている人がいても、お構いなしのようだ。山に近い畑は、もうどうしようもない状態らしい。

・周囲の山には数グループの猿がいて、町ではその動向を把握しているようだ。観光客が来るあたりには餌をやらないようにと書いた看板がいくつもある。猿を見つけて、「かわいい!」なんて嬌声を上げて、袋菓子を与える。野性の生き物を知らないのだから、仕方がないといえばそれまでだが、襲われてから、「ウソー?!」では遅いのである。こんな状態が続けば、必ず猿の駆除という話になる。実際、この数年で、熊はずいぶん撃ち殺された。山に野生の生き物がいなくなれば、自然は自然でなくなってしまう。うまく棲み分けをして、自然らしさを壊さないようにする。それもやっぱり、ものすごく難しいことなのだと、つくづく思う。


2008年8月3日日曜日

伊豆で素潜り体験

 

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photo47-2.jpg・去年の立山やその前続けた東北旅行と違って、今年の夏は近場にした。沖縄が好きな息子の話を聞いて、海で素潜りをしてみたいと思ったからだ。あてがあったわけではないが、伊豆の南端をめざすことにした。しかし、パートナーの地質上の興味で、まずは三浦半島へ。三崎港の魚屋さんでおまかせの刺身定食と煮魚を食べた。イワシの刺身がマグロより、ハマチよりおいしかった。その後、城ヶ島へ行き、葉山で泳いで宿泊。海草が一杯で濁っていたからシュノーケルなど無用だった。それにしても、久しぶりの下界のせいか暑い。葉山ビールがおいしかった。

photo47-3.jpg・当たり前だが、湘南海岸はどこも人で一杯で、道路は渋滞ばかり。ほとんど道草もせずに下田まで走ったのだが、5時間もかかってしまった。で、ホテルの着くとすぐに海岸に直行。しかし、ここの海岸も海草が浮かび、水は白く濁っている。岩場のところでちょっと泳いだが、50cm先も見えなかった。連泊するから、もう一日チャンスがあるが、魚を追いかけたり、ウミウシと遊んだりなんていうのはまず無理だ、とほとんど諦めた。椰子や棕櫚(シュロ)が林立し、山にはいかにも南国風の照葉樹が密生している。三浦半島よりはずっと涼しくす過ごしやすい。ハワイの気分をちょっと味わって帰るのか、という二日目だった。

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photo47-6.jpg・三日目は石廊崎まで行って灯台を見物して、黒潮が打ち寄せる海岸を断崖の上から眺めた。エメラルドグリーンのきれいな海だ。よく澄んで岩の様子がよく見える。しかしここではとても泳げない。駐車場に戻ると岬めぐりの遊覧船が出発だという。さっき上から見た海に行けるのだからと、急いで乗り込んだ。今日の海は静かだというが、それでも結構波だって、船は揺れる。海から見ると岩の侵食がすごい。折り返しの大根島には台湾猿がいて、船が近づくと寄ってきた。観光目的で放し飼いにされ、そのまま放置されたようだ。島の向かいの海岸に、いくつもテントが張ってあり、大勢の人がシュノーケルをつけて遊んでいる。あそこはどこ?船を下りて、行ってみることにした。

photo47-7.jpg・場所の名前はヒリゾ浜、近くの中木という漁港から船で行く。断崖絶壁に囲まれた浜だから、陸伝いには行けない。浅瀬の多い磯で、顔をつけただけで青や緑や黄色の小さな魚がいる。フグもいるし、大きな魚もいた。サンゴも見えて、今回の目的をやっと実現することができた。海草が邪魔して深いところは見にくかったし、歳を考え2時間ほどで引き上げたが、見所はまだまだたくさんあったようだ。水中カメラもないから感激した景色は写せなかったが、後で調べると、いくつもサイトがあった。たとえばNakagiへ行こうよを見ると、ミドリイシというサンゴの群落もある。

2008年7月27日日曜日

新譜あれこれ

 

coldplay2.jpg・コールドプレイの新譜が出るというメールがアマゾンから来たから、さっそく注文をした。で、忘れた頃にやってきた。"Viva La Vida"。なじみの声とサウンドという感じもするが、何か今一つ訴えてくるものがない。アルバムづくりにはブライアン・イーノも参加しているという。相変わらず引っ張りだこなのだ。しかし、その影響が顕著というわけでもない。大体なぜタイトルがスペイン語なのだろうか。「人生万歳」とはどういう意味なのか。それを日本版は「美しい生命」なんて訳している。そしてなぜジャケットがジャンヌダルクなのだろう。歌詞を見るとイエルサレムだの王だのローマ軍だのが出てくる。「日本の恋人」なんて題名の歌もあるが、それらしいのは「今夜走るだろう、大阪の太陽を思いながら」という一節のみだ。まったく訳のわからないアルバムだが、ご丁寧に発売直後にはテレビCMもやっていた。コールドプレイもこれでおしまいか。そんな気になった一枚だ。

stereophonics2.jpg ・対照的にちょっと前に出たステレオフォニックスの"Pull the Pin"はいい。僕は基本的にうるさいのは好きではないが、彼らだけはそんなに気にならない。スティーブ・ジョーンズのハスキーな声と3人だけのシンプルなサウンド、それに何気ない日常や些細な事件を話題にした歌詞。そういったスタンスはこのアルバムでも変わらない。「いつも起こしてくれるガールフレンドはピンクが好き。それは日没前の空の色。そんな彼女と夜にはとりとめもなく長話をする。彼女は僕の輝く赤い星。」あるいは、ケータイを盗まれて殺された 15歳の少年の話もある。ちなみに僕が最初に気に入ったのは、鉄道に飛び込んで自殺した少年を歌った"Local boy in the photograph"だった。

stereophonics3.jpg ・ステレオフォニックスは2006年にライブ版を出している。"Live from Dacota"。それに気づいてチェックをすると、その"Local boy in the photograph"があったので、これも買った。2枚組みで20曲が入っている。"Pull The Pin"とあわせて通勤時に何度も聴きかえした。当然だが、コールドプレイはめったにかけない。
・ところで、バンド名のステレオフォニックスというのが前から気になっていた。バンドのイメージに合わない名前だと思ったからだ。ネットで調べるとスティーブのおじさんが経営していた店の名前だという。サウンドにも風貌にも、そして歌詞にも似つかわしくない名前だが、彼にはそれなりの思い入れがあるのかもしれない。

alanis1.jpg ・もう一枚は久しぶりのアラニス・モリセットだ。"Flavors of Entanglement"。偶然だが、シェリル・クロウのアルバムとほとんど同時に聴いた。このコラムでは10年前にも二人を一緒にとりあげている。冷たさと暖かさが同居するアラニスと、乾いて強いシェリル。それはカナダのオンタリオとアメリカのカリフォルニアの風土の違いそのものだ。読み返すとそんなことが書いてある。ここ数年の二人について調べると、どちらも精神的につらい時期を過ごしたようだ。そして二人ともよく恋をして、そして失恋する。
・アルバムのタイトルは「障害物の気配」といった意味だろうか。曲名には「未完成」とか「モラトリアム」といったことばが並んでいる。「いつかは自由に話せるかも、怖がらずに、私の詩や歌詞や芸術とは離れて、自分を評価できるかも」素直なつぶやきのような歌だ。

2008年7月20日日曜日

拝啓、野茂英雄さま


・野茂英雄が現役を引退した。2005年に日米通算200勝をあげた後7月に解雇されて、これで引退かと思われたが、その後も復帰をめざしてがんばってきた。メジャーへの道を切り開いたパイオニアで、通算200勝もあげた選手なのに、現役続行をめざしてマイナーで投げ、春季のキャンプで生き残りをかけて戦い、今年はベネズエラのリーグにも挑戦した。「もういいじゃないか」という気持と、何とかまたメジャーのマウンドでの雄姿をという思いを抱きながら、彼のニュースを追いかけてきた。日本人メジャーリーガーが二桁の数に増え、イチローと福留がオールスターに出場したとは言え、彼のいないメジャー・リーグには、もうかつてほどの関心を持てなくなっている。どんな選手が出てきても、それほど興奮しないのは、彼の野球人生のなかに、もう敬服するとしか言いようのない生き様を見てきたからである。

・ぼくはこのサイトを1996年の秋にはじめている。最初に野茂投手に触れたのは1997年の7月だった。ドジャース3年目で、13,16 勝と活躍したあと調子の上がらないシーズンになった年だった。その後も折に触れて、彼についてのコラムを書き続けてきた。改めてふり返ると次のようなものになった。並べてみると1998年だけがない。この年野茂はドジャースを解雇されてメッツに移籍している。ちなみに僕もこの年、大学を変わることが決まり、関西での最後の一年を過ごした。


1997年7月「ガンバレ野茂!!」(ドジャース)
1997年9月「ぼくの夏休み・その2」
1999年5月「 野茂の試合が見たい!!」<メッツ→カブス→ブリュワーズ)
1999年11月「 オフ・シーズンの野球とベースボール」
2000年8月「 オリンピックのTV観戦はどうしようかな?」(タイガース)
2000年10月「 オリンピック・野球・サッカー」
2001年4月「 Nomo No-No!!」(レッドソックス)
2001年7月「 MLBとNHK」
2002年9月「 やっぱり野茂が一番!」(ドジャース)
2003年3月「 やれやれ、今度は松井か………」
2003年10月「 野茂のMLB」
2004年7月「 Ah, Nomo !」
2004年8月「 何とも奇妙なプロ野球」
2005年5月「 野茂の夢、野球の夢」(デビルレイズ)
2006年4月「 野茂とイチロー」
2007年10月「 松坂と野茂」

「ブログ・アーカイブ」『野茂と野球』

・野茂については、この他にも何本か書いた。その中でpdfでこのサイトで公開しているのは次のものだ。メジャーリーガとしての活躍よりは、彼の行動に対する日本のメディアの対応の仕方を批判したものである。そのことを自己反省的にふり返るメディアなどは、おそらく皆無だと思う。


1998年8月「野茂の衝撃『ホームエコノミカ』」
2000年6月「スポーツ・ジャーナリズムの不在と可能性『現代スポーツ評論2』」

・野茂がメジャーデビューした1995年は阪神大震災ではじまり、オームの地下鉄サリン事件があった年だ。しかも、彼のメジャー行きには近鉄球団や日本プロ野球機構はもちろん、メディアもこぞって批判的だったから、彼の活躍はことさら印象的だった。当のメジャー・リーグもまた、前年に選手のストライキでリーグが中途で終わり、観客離れが心配されていた。そこに日本から奇妙な投げ方で三振の山を築く投手が現れたから、それはメジャー・リーグにとっても救世主になった。

・1995年はまた、日本におけるインターネット元年でもある。彼の投げた試合はもちろん、メジャー・リーグについてのニュースが、テレビや新聞以外から独自に入手できるようになった。そしてまた、日本の中はもちろん、世界に向けてでも自分が発信者になることが容易に現実化した。今現在のメジャー・リーグ、日本のプロ野球、そしてメディアやネットの状況を見回すと、野茂がメジャーに挑んだ13年間の変容に改めて驚かされる。野茂は、その激変を象徴する革命家のような存在だが、彼自身はまた、たんに野球が好きという無骨さを出しつづけてもいる。その変わらない一面がまた、たまらなく野茂を魅力的にもしている。

2008年7月13日日曜日

学生気質が変わった?


・最近、学生の気質が変わった、という話が教員の間でたびたび持ち上がるようになった。ケースはそれぞれだが、僕にも思いあたる節がいくつかある。たとえば、大講義で苦労した「コミュニケーション論」で、学生から感想を聞く「授業アンケート」をした。試験前だったせいもあって、いつにもまして大勢の学生が出席して、席がたらないほどだった。で、アンケートを回収すると、あまった紙が大量にある。おかしいなと思って、アンケートに回答した枚数を数えると、250枚しかない。550人、いや600人近くいたはずなのにと、TI(ティーチング・アシスタント)の院生K君と顔を見あわせて頭をひねってしまった。

・出席した学生の半分以下しかアンケートに回答してくれない。しかも3分の1は用紙すら受けとらなかった。どうしてなのだろうか。「コミュニケーション論」では4回の授業中レポートを課した。だからだろうか、出席者が500を切ることは一度もなかった。もちろん、出席した学生のほとんどがレポートを書いて提出した。じっくり読む時間はないが、それでも一通り目を通したし、TIのK君にも読んでもらっておもしろいものにチェックをしてもらった。大講義だからとほったらかしにはできない、と思ったからだ。なのに、無記名だと出さなくてもいいと判断する学生が過半数もいたのだ。ずいぶん現金で、自分勝手だな、と思った。

・講義の中身は「コミュニケーション論」だから、当然、現代の人間関係の特徴について考えるもので、他人事ではなく自分のこととして受けとめるよう授業を進めた。だから、学生が書くレポートにも、それなりの自己分析や反省がこめられていた。「無関心」「孤独」「誠実さ」、そして「信頼」とは何か。そんな話をしたのだが、僕の言いたいことがどのくらい、どれほどの人に伝わったのか、と考えるとはなはだ心許ない気持になった。試験の答案では、逆に教員の顔色をうかがうような媚びた回答が目立つから、それと対照させると、現金で自分勝手という意識が一層強調されてくる。「必要となれば、相手にあわせることに懸命になるが、そうでなければ、相手かまわず自分勝手にやる」といった行動の仕方である。

・ここにはまた、「面倒くさいことは、極力回避しよう」といった行動基準もうかがえる。それは、学生と接していて、よく目にする反応でもある。課されたレポートについて、本を読むことなど面倒くさい。買うのはもちろんもったいない話だが、図書館に行って借りるのも煩わしい。だからネットでグーグルかウィキペディアということになる。同じ内容や文面のレポートを読まされる教員は、そのことで学生を叱ったりするのだが、彼や彼女たちには、どこが悪いのか今一つわからない。自分で読んだり、考えたりしなくても適当な材料が手近にあるのだから、それを使えばいいじゃないか、という発想なのである。

・要領よくやることは、もちろん、決して悪いことではない。けれども、要領だけで行動したのでは、おそらく大学では何も学ばず、何の技術も身につけずに、ただ学士の称号だけ受けとって卒業することになってしまう。知識や技術は、面倒なことを地道にやって始めて身につくものだからだ。その地道な努力を無意味に感じさせる要因は、ケータイ、ネット検索、そしてコンビニなど、学生たちの日常生活に溢れていて、しかも、どれもが便利で不可欠な道具や手段になっている。グーグルやウィキペディアでレポートを手軽に仕上げるのが、マクドナルドでハンバーガーを食べるのと同じ感覚だとしたら、どこが悪いかわからないのは無理のないことなのかもしれない。

・これが新しい学生気質だとしたら、それに、どう対応したらいいのだろうか。小うるさいじじいと思われてもしつこく指摘するか、もう好きなようにやれと突き離すか。悩ましい課題だが、幸いもうすぐ夏休み。学生のことも、大学のことも、この期間はすっかり忘れることが肝心だ。

2008年7月6日日曜日

ジグムント・バウマン『コミュニティ』筑摩書房 ほか

 

bauman.jpg・「コミュニティ」についての本を何冊も読んでいるのに、バウマンの『コミュニティ』を読んで改めて、‘目から鱗’という感じを味わった。「コミュニティ」がまさに壊れるときに、アイデンティティが生まれる」という一文に出会ったからだ。これはジョック・ヤングからの引用だが、バウマンは続けて次のように書いている。


アイデンティティは、「単なる代用品」であることを否定しなければならない。つまり自らが取って代わることになる、当のコミュニティの亡霊を眼前に呼び出さなければならない。アイデンティティはコミュニティの墓場で芽吹くが、この死者の復活を約束することで繁茂するのである。(p.26)

・こんな指摘は、社会学を勉強し始めた頃に最初に習ったことである。たとえばテンニースの「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」やマッキーバーの「コミュニティ」と「アソシエーション」といった概念だ。なのに今さら、感心してしまったのは、「コミュニティ」ということばの氾濫とその概念の多様さで、訳がわからなくなってしまっていたからで、まさに一言、原点に戻れといわれた気がした。

・本来の意味での「コミュニティ」は、近代化の過程で葬り去られてしまった。それは個人にとっては何より、「社会的な自由」として積極的に受けとめられたが、しかし一方で、人びとは個人的な安心を感じられる場や関係が必要であることにも気づかされる。それを引きうけたのは近代的な家族であり、生活の場であらたにできる近隣関係、働く場としての「企業(工場)」、そして「国民国家」という枠組みで、要するに、ホッブスボウムの言う「想像の共同体」のことだ。

・こういった新しい枠組みのでき方はもちろん、国によって多様だ。ヨーロッパでは数百年の時を経ているし、移民国家としてのアメリカには、バウマンの言う「コミュニティ」はなかった。バウマンはある人の解放には別の人の抑圧がともなったと言い、多くの人は「堅苦しい古いルーティン(習慣に支配された、コミュニティ的な相互行為のネットワーク)から力ずくで引っ張り出され、(仕事に支配された、工場のフロアの)堅苦しいルーティンに押し込まれ」て「大衆」と呼ばれるようになったと言う。その貧困と劣悪な生活環境が見直されるのは、ヨーロッパでも20世紀の前半のことだし、本格的な改善がはじまるのは第二次大戦後のことだ。

・国家や企業が個人の「アイデンティティ」や経済の基盤を保証し、家族や近隣関係によって安心した生活ができるようになる。20世紀の後半は、その範囲を先進国であれば社会の下層やマイノリティにまで広げることが課題とされたし、後進国の経済的発展にも援助が行われた。まさに、古いコミュニティの墓場に新しいコミュニティと自立した個人のアイデンティティを徹底して実現させる試みだったのである。この流れはもちろん現在進行形だが、一方で、そこから離脱する新たな流れも強くなってきた。

sennett2.jpg ・リチャード・セネットの『不安な経済/漂流する個人』(大月書店)が注目するのは、働く場所にもたらされた構造的な変化で、彼はそれを、「組織への「帰属心」の低下、労働者間のインフォーマルな相互信頼の消滅。組織についての知識の減少」という三つの損失としてとらえている。自分の存在価値を確認するよりどころは第一に自分がする仕事と、それを行う場や関係においてだろう。それが自分にとって流動的なもので稀薄なものに感じられるようになれば、それは「アイデンティティ」を保証するものではなくなってしまう。セネットが見定めるのは現代のアメリカの状況だが、このような傾向は日本にもあてはまる。というより、何より企業人間、職場の人間関係を大事にしてきた日本人の「アイデンティティ」にとっては、この変化はアメリカ人よりずっと大きく深刻だと言えるかもしれない。しかもわたしたち日本人は、古いコミュニティの代わりに作るべき、近隣関係のコミュニティに無関心できたし、欧米型の個人がもつべき確固とした「アイデンティティ」確立にも消極的だった。

・こういった流れを深く憂慮するセネットとちがって、バウマンの論調はもっと悲観的で突き放したものになっている。彼が指摘するのは新たに生まれつつある、恵まれた者たちが作るシェルターとしての「コミュニティ」と「ゲットー」への分断だ。「恐怖の対象としてのよそ者、異邦人、場違いな者」を排除して、限りなく同質な人たちだけで作る隔離された「コミュニティ」。バウマンはそれもまた自発的な「ゲットー」だと言う。本物の「ゲットー」はそこに閉じ込められた者が自由に外に出られない場所だ。それに対して「自発的なゲットー」は、外部の者の立ち入りを拒み、何より安全性を確保したうえで、自分たちの出入りは自由にする。


mita1.jpg ・見田宗介の『社会学入門』(岩波新書)には、人間関係のあり方、他者関係のとらえ方を二つにわける発想が紹介されている。つまり、他者を「生きるということの意味の感覚と、あらゆる歓びと感動の源泉」として見ることと、「人間にとって生きるということの不幸と制約の、ほとんどの形態の源泉」と考えることの二つである。見田が言うように、この二つのとらえ方は本来的には対立的ではなく相補的なものだ。人は完全に自立した存在ではないし、また完全に他者に依存して生きるわけでもない。また、人間関係は信頼でき親密さを前提につきあえるものと、極力排除してしまいたいものに分けられるわけでもない。同質な者同士の安心で安定した関係には退屈や束縛の感覚が伴うし、異質な人間たちの異質性に触れることには、不安や不審を超えた新鮮さや自由の感覚がもたらされる。

・バウマンは、「自由の名の下に犠牲となる安心は、他者の安心であることが多く、安心の名の下に犠牲となる自由は、他者の自由であることが多い。」と言う。社会の近代化の過程には、そこが顕著になる時代と是正される時期がくりかえしてあらわれる。他人を不自由にしても、もっと私に自由を、他人を不安にさせても、もっと私に安心を。こういう発想が露骨な時代における「コミュニティ」とは何なのか。とても軽はずみには使えないことばであることを再認識した。

2008年6月29日日曜日

ジャニス・ジョプリンの孤独

 

janis1.jpg・ジャニス・ジョプリンは27歳で生涯を閉じている。原因はヘロインの多量摂取で、遺作になった「Pearl」の制作に疲れ果てたことが原因だったようだ。今から40年近くも前の1970年のことだ。僕がこのアルバムでよく聴いたのはクリス・クリストファーソンの作った"Me and Bobby McGee"のカバーで、その他にはあまり印象にのこっていなかった。そもそも、歌の迫力は認めてはいても、ソング・ライターとしてはほとんど関心がなかったと言っていい。特に耳を傾けるべきメッセージや詩的な表現があったわけではない気がしたからだ。

・NHKBSで「ジャニス・ジョプリン恋人たちの座談会」という番組を見た。すでに60代の半ばになっているかつての恋人たちが4人集まって、ジャニスの話をするという内容で、当然だが、表には出なかった彼女のプライベートな一面がずいぶん明らかにされた。こういう番組に出会うと引きこまれてしまって、何年も聴きもしなかったCDを引っ張り出してきて、しばらくは、何度も聴くようになってしまう。で、今回も、今までとは別の感覚で、彼女の歌に触れる機会になった。

・彼女の作った"Cry Baby"は、最後の恋人だったデビッドへの気持を素直に歌ったものだ。二人は偶然、ブラジルで出会っている。世界を放浪する青年のデビッドはアマゾンから出てきたところで、ジャニスは休暇中だった。二人は恋に落ち、ジャニスはヘロインの禁断症状を克服する。しかし、アメリカに戻ると、いつもの仲間といつもの忙しいスケジュールで、デビッドは半年後にカトマンズで会おうと言い残して、アフリカに旅立ってしまう。酒とヘロインと一夜限りの男たち(One Night Stand)との付き合いの日々がまたはじまる。


あなたは世界中を歩き回って
世界の果てを探したいと言った
その道の終わりがデトロイトだったと気づくかもしれないし
カトマンズにまで続いているのかもしれない "Cry Baby"

・ジャニスにはたくさんの恋人がいて、きまって長続きしていない。「カントリー・ジョー&フィッシュ」のジョー・マクドナルドとは当時の政治状況に対する考え方ですれ違い、「ビッグブラザー&ホールディングカンパニー」のジェームズ・ガーリーとは音楽的な主導権で対立した。その時一緒にバンドから離れたサム・アンドリューとあたらしいバンドを作ったが、それも長くはつづいていない。デビッドとは唯一、音楽抜きで認めあえる関係だったが、ジャニスに音楽抜きの人生は考えられなかったし、デビッドも派手なミュージシャンの世界は性に合わなかった。彼女は愛と音楽、プライベートな生活と名声の間で引き裂かれる。

・保守的なテキサスに生まれ育ち、それに反発してサンフランシスコに行って音楽で身を立てたが、そこで出会った都会育ちの人たちにもまた心底なじめない。もし男であれば、異性ではなく同性の友達として、気心を通じ合わせる相手を見つけられたのかもしれない。しかし、周辺にいるのは圧倒的に男ばかりのミュージシャンで、近づけば、セックスのともなう男と女の関係しか持ち得なかった。あるいは、彼女が手にした名声も、故郷のテキサスの人には奇異なものとして受けとられたから、それがますます、彼女の孤独感を募らせることになる。

・アフリカのモロッコを出発してバイクでカトマンズに向かっていたデビッドは、そのカトマンズのホテルで、ジャニスが死んだという雑誌記事を目にする。彼女にあてて何通か手紙を書き、彼女もまた彼にあてて手紙を書いた。しかし、いつでも行き違いで、どの手紙も読まれていない。デビッドは香港で"Pearl"を見つけ、レコード屋で試聴をして"Cry Babe"を聴く。自分への思いを絞り出すように歌う彼女の声に涙してしまう。

・40年もたてば、4人の恋人たちのどこにも、青年の面影などは見つけることができない。カントリー・ジョーは孫と遊ぶおじいちゃんになっているし、ビッグ・ブラザーのジェームズにも温かな家庭がある。二人は口をそろえて、人生には音楽だけでなく、もっと大事なものがあったんだ、と言う。男との関係、プライベートな自分の人生を軽視したと言いたげに、それがジャニスにはわからなかったと話すと、デビッドが反論して、ぼくらは信じ合っていたと断言した。彼は、自分が近くにいればという後悔の念でずいぶん悩んだ一生を送ったはずだ。同じように年老いて、仲良く話してはいても、それぞれの思いと現在までの人生の足取りはずいぶんちがっている。「ジャニス・ジョプリン 恋人たちの座談会」は久しぶりに見応えのある番組だった。