・関大の木村洋二さんが亡くなった。肺ガンで寝耳に水の話しだった。同年代というだけでなく、彼とは若い頃からつきあいがあって、ある意味では、一番影響を受けた人だったし、非常勤をはじめ、ぼくの就職先をいろいろ心配してくれる優しい人だった。昨年の秋に東北大学で開催された「日本社会学会」で会ったときには、いつもながらの元気さで、一緒に飲みながら、よく笑っていたことを思うと、未だに信じられない気がしてしまう。
・木村さんは亀岡の山奥に住んで、そこから大阪まで通っていた。最初にバイクで訪ねたときには、急斜面に数軒の集落と段々畑がある風景に驚いたが、すっかり気に入って、その後、何度もお邪魔した。付近を歩いて、生えているキノコの名前を言いながら、食べられるものをとって、おみやげにしてくれた。もう30年近くも前の話だ。ぼくが田舎暮らしを本気になって考えたのは、彼との出会いがきっかけだったと言っていい。
・山奥に住むには車が欠かせない。彼は4輪駆動のスバル・レオーネを絶賛して、乗るならこれと力説したから、ぼくもその気になって、しばらくして、レガシーのワゴンを購入した。子ども達とあちこちキャンプをして回ったり、北海道をはじめ国中を走り回って、今では彼以上のスバリストになってしまっている。職場への通勤ももちろんレガシーで、片道100キロの道のりを往復して10年になる。
・高らかに笑いながら話す人で、最初の本も『笑いの社会学』(世界思想社)だった。一見豪快で達観したように見えるが、きわめてデリケートな感性をしていて、いろいろ気を遣う一面もある人だった。出会ったのは、胃潰瘍を患って胃を切除した直後だったようで、玄米食などを勧められたが、ぼくも程なくして胃潰瘍になって苦しんだ。幸い特効薬が出たばかりで、ぼくの場合は切除を免れたから、気にせずに食べたいものを食べて、今ではメタボを指摘されるようになっている。
・会ったときはいつでも話すのは彼で、ぼくは聞き役だった。人間の感情やそれをもとにした関係をルービックキューブの六面体で構想するというアイデアが、彼の追求するテーマで、あれこれ思いついたことを目を輝かして話した。しかし同時に、人間関係における日本人的な特徴にも興味を持っていて、2冊目の本は『視線と私』(弘文堂)という題名で出された。私は他者の視線によって捉えられたものの集積として自覚される。そんな鳥瞰図と虫瞰図の間を行ったり来たりしながら思索をし、また人づきあいをする人だった。
・ぼくが東京の大学に移ってからは、会う機会も少なくなったが、しばらく前に、新聞に出た顔写真つきの記事を見たときには、笑ってしまった。笑いの程度を測定する器械を考案して、その単位を"aH"にしたという話しだった。いかにも彼らしいと思ったし、性の革命を提唱したウィルヘルム・ライヒを思い浮かべた。自然界に偏在するエネルギーを「オルゴン」となづけ、それを集積して身体や精神の治療に役立てようとした試みだ。ライヒの発明は受け入れられなかったが、笑いの測定器と"aH'という単位は傑作だと思ったし、いろいろ話題にもなった。
・その「笑い」とライフワークの「ソシオン理論」が、これからどう展開するのか、またあってゆっくり話を聞いてみたいと思っていたのだが、それがかなわぬうちに他界してしまった。彼の流儀からすれば、笑ってさようならをするのが適切なのかもしれないけれど、あまりに唐突で、早すぎる死だから、今はとても笑う気にはなれない。