2010年7月26日月曜日

思い出袋

 

鶴見俊輔『思い出袋』

turumi1.jpg・鶴見俊輔は1922年生まれだから、今年は米寿の歳になる。彼の文章を最初に読んだのは大学生の時だったから、もう40年のつきあいだが、まだまだ書き続けているから驚きというほかはない。

・『想い出袋』には題名の通り、過去をふり返って書いた短文がいくつも収められている。話の多くは、すでに読んだことがあるものが多い。中には何度も書かれたものもある。それに気づいて飛ばそうかと思ったが、どれもまた、読んでしまった。しかも、何度も繰りかえし読み返したページや一文がいくつもあった。それはたとえば、次のような文だ。


私は、自分の内部の不良少年に絶えず水をやって、枯死しないようにしている。

鶴見俊輔は日本人の良心だ、とぼくは思ってきた。些細なことから大きなことまで、どうするか、どう考えるかと迷ったときに、灯台のように行く先を照らしてくれる人の一人だった。そう信じたのは、彼が正論や世の趨勢に従うことの危うさを、自分の感覚や無意識にまで問いかけて、指摘しつづけてきたからだ。

・「不随意筋の動きまで意識した上での哲学」。ぼくが何かについて考えるときに、よく思い出して反芻することばだ。枠をつくれば、そこからはみ出すもの、はみ出されるもの、あふれ出てしまうものが必ずある。きれいに、正しくと考えれば、はみ出すものは除外される。しかし、それは優等生のする発想で、そこからは自分の実感は排除される。しかし………


小学校から中学校へと、自分の先生が唯一の正しい答えをもつと信じて、先生の心の中にある唯一の正しい答えを念写する方法に習熟する人は、優等生として絶えざる転向の常習犯となり、自分がそうあることを不思議と思わない。

・だから優等生ではなく、不良である自分の方を大事にする。けれども正しさを強制されがちな時代のなかで、この気持ちを持ち続けるのは簡単なことではない。そのことは、彼が子どもの頃や戦時中に経験した話の中に散見される。で、それが彼の生き方の流儀になってきた。

・ぼくは戦後生まれだから、民主主義が新鮮だった時に子ども時代を過ごした。少年時代のヒーローはジェームズ・ディーンやプレスリーと言った不良だったし、大学生の頃には30歳以上の大人は信用するなといったことばが真実味をもって実感された。そんな不良的な発想が枯死しないように、ぼくもいつも水をやってきた気がする、けれども最近は、そんな発想が通じにくい世の中になってきたことをつくづく感じている。僕は還暦を過ぎたところだから、米寿はまだまだはるか先の話だ。もちろん、そこまで生きられるかどうかもわからないが、内部の不良少年にずっと水をやり続けることができるのだろうかと思う。

・「自分のこれまで読んできた本のうち、今、心にのこっているものをあげる」。「オール・タイム・ベスト」。鶴見はそれを片岡義男から教わったと言って、ベスト5、10、そして20と考えてあげている。水木しげるの『河童の三平』が最初にあがっているのが、いかにも彼らしい。僕ならいったい何をあげるだろうか。鶴見俊輔を何冊もあげそうだし、彼の本で知った人も少なくない。たとえばG.オーウェル、H.D.ソローなどだ。

・そんなことを考えているうちに実際に、何冊かの本を読み直してみたくなった。自分の内部の不良少年を枯死させないために‥‥‥。

2010年7月19日月曜日

喫煙は病気ですか?

・俳優の館ひろしが医者の助言で禁煙をはじめるというCMがある。CMで公言しているわけだから、もう失敗は許されない。彼はヘビー・スモーカーで、禁煙を試みてうまくいかなかった経験もあるようだ。一大決心をして実行、という感じだが、そのCMを見て、喫煙は病気という認識が、これでまたいっそう強くなるな、と思った。

・当のCMのスポンサーはファイザー製薬で、薬は医者に処方してもらって服用するものだという。だから、健康保険がきいて費用も安く済むらしい。ただし、そのためには、ニコチン中毒だという医者の診断が必要になる。ファイザー製薬のサイトには、ニコチン依存症をチェックするページや、禁煙した場合のメリットが、数時間後から20年先まで丁寧に説明されている。一日一箱(300円)吸って20年続けると、その金額は 219万円になるという。喫煙は体に害があるだけでなく、まったくの無駄使いというわけである。

・僕は二年ほど前まで、毎日一箱ほど吸っていた。それもニコチンやタールの含有量が多い赤いウィンストンだった。もう40年になるから、体には相当悪かったのかもしれないが、特にこれといった病気も自覚症状も経験していない。だから、禁煙しようと思ったことは一度もなかった。ただ、飛行機が完全に禁煙になって、長時間吸わないでいても、そんなにきついと思わなかったから、やめようと思えばやめられるという感触はあった。ちなみに、依存症のチェックをやってみたが、10項目の質問には、はっきりYesと答えられるものが一つもなかった。

・とは言え、今でもたばこは吸っている。ただし、二年前からパイプに変えて、日に三度ほど煙をくゆらせている。パイプの煙は肺には入れない。口の中でくゆらすと、紙巻きとは違う味を感じることができる。朝起きてすぐや仕事の合間にちょっと一服といった感じで一日に数本ウィンストンも吸うが、パイプを始めてから、紙巻きは吸ってもあまり美味しいとは感じなくなった。吸う機会がなければ、数時間でも十数時間でも、吸わなくてもかまわない。だからだろうか、パイプを吸う行為や時間がいっそう楽しみになった。

・去年から山歩きを始めて、今年もここのところほぼ毎週一回、近所の山を歩いている。10kmほどの距離を4〜5時間程度といった目安で、最近では西沢渓谷、大菩薩峠、横尾山、そして日向山などを歩いてきた。それで見つけた楽しみは、頂上まで登っておにぎりを食べた後、パイプをくゆらせながら下山することで、何ともいえない心地良さを感じている。タバコのおいしさを味わえる至福の時間で、副流煙を気にすることもないし、吸い殻が邪魔になることもない。

・ファイザー製薬のページには、喫煙者の7割がニコチン中毒だと書いてある。だとすれば、3割はそうではないということになる。しかし現実には、やめたいなどと思わず、喫煙を楽しんでいる人も、意志薄弱者や病人のレッテルを貼られがちになっている。喫煙にはそれなりの楽しみもあるし、効能もある。そういったことが言えない、言いにくい風潮は、かなり行き過ぎた病的な徴候のようにも思えてしまう。

2010年7月11日日曜日

初夏の山歩き

 

    西沢渓谷、大菩薩峠、横尾山、日向山

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・富士山の宝永山と小富士を歩いた後、週に一回のペースで近くの山を歩いている。この季節は、新緑が一歩ずつ山頂に近づき、花が咲くようすがよくわかる。
・西沢渓谷を歩くのは二回目だが、前回は秋だったから、山や川の様子はずいぶん違った。山一面の緑でところどころにツツジが咲いている。甲武信岳に泊まりがけで登るグループもいて、山登りのシーズンであることを実感する。しかし僕が歩いたのは渓谷を巡る10kmほどのコースだ。林業が盛んだった頃に使われたトロッコの線路道が復路になっていた。


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・翌週は大菩薩峠を目指した。日川沿いの道を北上していく途中で熊らしき黒い影が道路を横切った。大菩薩峠は高校生の時に山小屋で合宿して以来だから、もう40年以上ぶりになる。途中の福ちゃん荘は懐かしかったが、昔の記憶はほとんどない。霧がかかって眺望はよくなかったが嶺から峠にかけてはお花畑で気持ちがよかった。山ツツジがあちこちに咲いていた。西沢渓谷とそれほど離れていないのに、オレンジと赤紫でまるで感じが違う。photo55-4.jpg
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・横尾山は山梨と長野の県境にある信州峠から登った。1時間ほどでついたカヤトの原の眺めは素晴らしかった。南を向くと左(東)から富士山、南アルプス(北岳、農鳥岳、甲斐駒ヶ岳)、中央アルプス、木曽御嶽山、そして八ヶ岳までが視界に入って、まさにパノラマの風景だ。梅雨の合間の快晴の日で、湿度の低いからっとした風が吹いて心地よかった。カヤトの原は一面の花畑。真東には花崗岩が針の山のように乱立した瑞牆山(みずがき)が見える。
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・6月最後の週は日向山に登った。白州から林道を矢立石まで行き、頂上まで1時間ほど登った。森を抜けると一面の砂浜で、空が海のように思えた不思議な光景だった。花崗岩が風化して、岩が露出し、またきれいな砂になっている。当然、山はあちこちで崩落していて、ぞっとするような断崖もある。残念ながら間近に見えるはずの甲斐駒ヶ岳は雲に隠れていたが、山頂の砂浜岳で大満足の景色だった。その、砂状の下り坂から錦滝までは今までになくきつい下山道だった。
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2010年7月5日月曜日

花粉症とケルト神話

 


Anuna "Sensation" "Essential Anuna" "Anuna"

journal1-134-3.jpg・ライ・クーダーがプロデュースした”San Patricio”を聴いて、また、アイリッシュの音楽に興味が向きはじめた。チーフタンズとの共作である”San Patricio”は、アメリカとメキシコ(米墨)の戦争(1846)に関係したアイルランドからの移民たちと、彼らが残した歌を掘り起こしたものだ。戦争には他にも、ドイツや、フランスやイタリア系の移民が参加したが、多くはカトリックで、メキシコ政府は彼らに国籍と、アメリカ政府以上の報酬を約束したらしい。あるいはニューオリンズなどから逃れてきた黒人の奴隷もいたようだ。そんな、さまざまな人種や民族と文化が混在したところで生まれた一つの音楽。”San Patricio”にはアイリッシュともメキシカンとも言い難い音楽も感じられる。

anuna1.jpg・アイリッシュ音楽はだいたい集めたと思っていたが、まだまだいろいろある。そう思うとまた、聴いてみたくなった。アイリッシュ音楽を聴き始めた頃に買ったCDにゲール語で歌う奇妙な歌があった。繰りかえし歌われる言葉が何度聴いても「ワタシ、カフンショウ」と聞こえて、聴くたびに笑ってしまったのだが、CDにはミュージシャンの名がなかったから、そのままになってしまっていた。それを思い出して、曲名の"Fionnghuala"をグーグルすると、「Anuna」というグループ名だとわかった。で、さっそくアマゾンで検索して、何枚かを購入することにした。

anuna2.jpg・聴いてみると、男女混声の合唱グループで、その透明感のあるハーモニーはエンヤに似て、きわめて耳障りがよいのだが、しばらくすると音が鳴っていることすら忘れてしまうほどで、何度聴いても印象として残らない感じがした。しかし、けっして気に入らないわけではない。できのいい映画音楽のように、風景や状況に溶けこんで意識されないが、それゆえに自然で、それなりの心地よさも感じさせてくれる。サティの「家具の音楽」よりもずっと「家具の音楽」らしい、と思った。

 

anuna3.jpg・ところで、カフンショウと聞こえる"Fionnghuala"だが、「フィヌァラ」と読むようで、Wikipediaで調べると、ケルト神話に登場する白鳥に身を変える少女の名で、海神リルの娘ということだ。ゲール語の歌詞と英語の訳を見つけたが、「カフンショウ」と聞こえるところの英訳には「ここでは何も手に入らなかった」とあった。元の物語を知っていればよくわかるのかもしれないが、英語の訳を読んでも、今ひとつわかりにくい内容で、ケルトの音楽を理解するためにはケルト神話を知る必要があると思った。

Jim McCann.jpg ・わからない言葉で歌われる歌が時折、日本語としてはっきり聞き取れることがあって、それがまた何とも奇妙であったりすることが少なくない。「ワタシ カフンショウ」はその好例だが、ジム・マッカンというアイルランドを代表する歌手のライブ盤には、みんなで歌いましょうと言って、「1,2,3,4」をいくつかの外国語で紹介する場面がある。日本語の「イチ、ニイ、サン、シイ」では会場が大爆笑になるのだが、理由はもちろんわからない。anunaは去年の暮れに日本の各地でコンサートをやったようだ。"Fionnghuala"を歌ったとしたら、そのときの会場の様子はどうだったのだろうか、と想像してしまった。

2010年6月28日月曜日

動物園という名の地獄

・梅雨の合間の晴れた日に那須に出かけた。温泉につかってのんびりが目的だが、どこか出かけるところでもあればとネットで探してみた。そうすると、サファリや動物王国、そしてモンキーパークなど、ごく近いところに三つも動物園があることに気がついた。何でこんなにと思って、サファリで検索すると、あるはあるは、北海道から九州(大分)まで、日本には10箇所もサファリと名のつく動物園があった。ちなみに那須の近辺では群馬と福島にサファリと名のつく動物園がある

・サファリと言うからには、象やキリンやライオンなど、アフリカ生まれの動物たちが半ば放し飼い状態でたくさんいるはずだから、日本中にはそれぞれかなりの数がいるだのだろう。そして、どんな動物にしたって、生息数は激減していて、アフリカでも保護区が設けられて厳しく管理されている。そんな危機的現状を伝えるドキュメントがよく放送されるから、次々輸入することなどできないはずなのに、なぜこんなにたくさん輸入できるのだろうか。日本の気候はアフリカとはずいぶん違う。群馬も栃木も福島も、冬には雪が降って零下になる。動物を凍え死にさせないためにはそれなりの暖房設備とかなりの光熱費を使って、狭いところに閉じ込めておくにちがいない。

journal4-129.jpg ・こんなことを考えたのは、以前に富士サファリパークに出かけたことがあるからだ。春先で、まだ暖かくはなく、富士山にはたっぷり雪が積もっていた。平日で客も少なかったから、経営状態が悪くなったら、この動物たちはどうするんだろうなんて心配した。世界中の動物を間近で見る機会があることはもちろん、悪いことではない。しかし、自然条件の違うところにこれほどたくさん動物園を作るのは、動物にとっては環境条件の悪い監獄に入れられたも同然で、まるで地獄のようだと思ってしまった。

・太地のイルカ漁をドキュメントした"the cove"の上映妨害が話題になっている。鯨やイルカの問題については、文化の違いを無視した欧米の横暴な主張だとする反論が繰りかえされてきた。僕もそういった思いに共感しないではないが、太地のイルカ漁は、食用ではなく水族館やマリーンランド用だと聞いて、ちょっと考えを新たにした。イルカは水族館には欠かせないエンターテインメントの主役で、日本にはイルカを売り物にしている水族館が北海道から沖縄まで30以上もある。確かに、イルカの賢いパフォーマンスは魅力的で、老若男女を楽しませてくれている。しかし、そのイルカの餌には、潰瘍を防いだり治療したりする薬が混ぜられているなどといった話を聞くと、捕獲され、閉じ込められ、調教されて、演技を強制されていることに心が痛む思いがする。

・動物園や水族館は、見方によっては動物を無理矢理閉じ込めた刑務所であり、地獄でもある。そう思うと、楽しい!、かわいい!、すごい!などと歓声を上げる気にはとてもならない。動物園の動物は、何かが死んでしまった動物で、野生のままのものとはまるで違う。それは放し飼い状態にしたり、見え方や見せ方を工夫したって、取り戻すことのできないものだ。こんなことを読んだのは、ブーアスティンの本だたっか、ボードリヤールの本だった。自然を人工的に再現したり、移設したりして、それがあたかも自然そのものであるかのように、人びとに体験させる。

・自然という名の不自然な場の乱立が自然そのものを不自然にする。不自然な場で不自然な行動を強いられる動物たちが胃潰瘍になるのは、きわめて自然なことだが、そこに出かけて行って、かわいいとかすごいといって歓声を上げる人間の行動は、果たして自然なことなのだろうか。

2010年6月21日月曜日

トンネルはできたけれど

・山梨県は山ばかりだから、かつては、どこへ行くにも峠道を越えねばならなかった。東京から甲府に行くには笹子峠、御殿場からは篭坂峠、身延方面からは本栖道、そして河口湖と甲府の間には御坂峠があって、交通の難所になっていた。現在では、どの峠にもトンネルができて、交通は便利になっている。特に中央道の笹子トンネルや東富士五湖道路の籠坂トンネルは、そこが交通の難所であったことを気づかせないほどに快適だ。

・河口湖と甲府の間には新御坂トンネル経由の137号線と精進湖トンネル経由の358号線がある。どちらも急坂でカーブも多いから、車の運転には注意が必要だが、通常の交通量には十分対処できるほどの道で、特に137号線の御坂トンネルから一宮までは数年前に片側二車線のほぼ直進の道路が開通したから、運転はずいぶん楽になった。

forest84-1.jpg ・その河口湖と甲府をつなぐ道路が若彦トンネルの開通で、もう一本増えた。トンネルは御坂山系の大石峠の下を貫いて河口湖と芦川村を結ぶもので、工事は2004年から始まった。トンネルにつながる道路も新しくなって便利さも感じたが、ダンプカーがひっきりなしに行き交い、我が家からも時折、発破音が聞こえて、危険やうるささもも感じた。そしてこの道路は、もちろん、トンネルのある地区の人たちの強い要望でできたものではなかった。県道として新しいルートを計画した県によれば、「災害時の避難ルートや物資の輸送」が一番の理由のようだ。

・トンネルの開通は3月の末だったが、それ以降、週末になると車やバイクの音がブンブンとうるさく響くようになった。多くは新しいトンネルを走ることを目的にしてくるようだ。週末の湖畔は以前から車で一杯だが、混雑は以前にも増してすごいから、滅多なことでは車で出かけないようになった。トンネルから湖畔までの道は新設されたが、湖畔道路は以前のままで、狭い箇所がいくつもある。今までなかった渋滞が起こったりもするのだが、慣れないドライバーはそんな道の真ん中を走る傾向にあって、対向車を見つけて慌ててハンドルを切って避けがちになる。しかも、同じ道を自転車を漕ぐ人も増えた。これから夏に向けて本格的なシーズンになると、渋滞や事故で大変なことになるのではと心配になってしまう。

・その若彦トンネルを何度か運転してみた。今までは精進湖まわりで一時間近くもかかっていた芦川までの道のりが、わずか五分ほどに短縮された。それはそれで便利だが、そこから先の石和や甲府までの時間は、それほど短縮できたとは思えなかった。芦川から先の道がカーブと急坂の連続で、けっして楽な運転ではないし、ルートも整備されていないから、どこへ行くにもわかりにくかった。おそらく、甲府や石和方面から若彦トンネルをめざすのは、ナビの地図が新しくなるまでは難しいだろうし、そもそも、わざわざこのルートを使う必要もないのではと感じた。

・山梨県は山国だから、その発展には道路の建設は欠かせない。そんな思いが、金丸信やその他の自民党議員を輩出してきたと言えるだろう。実際、山歩きをするために車で出かけると、ずいぶん立派な林道や農道を見つけて走ることが少なくない。若彦トンネルと県道719号線は、そんな政治道路の一つなのかもしれないが、そうだとしたら、開通したときには自民の国会議員が0になっているというのはずいぶん皮肉なことだと思った。

2010年6月14日月曜日

ジャズ喫茶と米軍基地

 

マイク・モラスキー『ジャズ喫茶論』筑摩書房
『占領の記憶 記憶の占領』青土社

journal1-135-1.jpg・モダン・ジャズは、歌ったり踊ったりするのではなく、演奏だけの集中して聴くべき音楽である。日本では、そんな音楽が大学生などに好まれて、50年代の後半頃から、哲学や文学と同様の知的で高級な文化になった。ジャズ喫茶は、そんなモダン・ジャズのレコードをかける店で、町の盛り場や大学の周辺にはおなじみだったが、モダン・ジャズのわからないぼくには、ほとんど縁のないところだった。入っても音が大きすぎて話もできないし、本も読めない。それに何より、ジャズのわかる奴だけ入れてやるといった空気が入ることを躊躇させたからだ。

・ジャズ喫茶はアメリカから輸入されたホンモノのジャズを、高性能のオーディオで聴かしてくれる場所だから、そこでの客の姿勢には「集中的な聴取」が求められ、私語は禁止された。この本によれば、そんな聴き方はアメリカにはなかったようだ。そもそも、ジャズにかぎらず、レコードを専門にかける場がなかったようで、その理由を著者は、モダン・ジャズに興味を持った日本人の若者たちにとって、レコードの蒐集やオーディオ装置の購入が難しかったこと、アメリカには、ライブ演奏を聴くことができる場や、音楽ジャンルを限定して放送するラジオ局がいくつもあったことなどをあげている。

・そんな日本独特のジャズ喫茶には、時代によって変遷した特徴があって、それをこの本では「学校」(50年代)→「寺」(60年代)や「スーパー」(70年代)→「博物館」(80年代)とまとめている。つまり新しい音楽を学ぶ場、それを集中して聴取する場、多様なジャンルへの枝別れへの対応、そしてレトロとしての音楽と場という性格の変容である。僕が知っているジャズ喫茶は、確かに「学校」や「寺」といった雰囲気だったが、その後の社会や若者の意識変化と合わせて、いろいろ考えてみたくなる時代分けだと思った。

・他方で、日本の戦後のポピュラー音楽は米軍基地で軍人のために演奏をしたり歌ったりしたミュージシャンを核にして発展した。ジャズから出発した多くのミュージシャンは、やがて歌謡曲歌手になり、歌謡曲を演奏する楽団のメンバーになり、またテレビタレントになった。同じジャズでありながら、ジャズ喫茶は、そんな日本人のジャズやポピュラー音楽とは無縁な世界として発展した。著者はそこに、亜流(ニセモノ)の生よりはホンモノのコピーを求める日本人独特の傾向を見つけている。もっとも、ロカビリーやグループ・サウンズといった、より大衆的な音楽も、ジャズ喫茶から始まったと言われているが、この本ではそんなジャズ喫茶はほとんど扱われていない。

journal1-135-2.jpg・沖縄には米軍基地が集中し、1972年の返還までアメリカに統治された歴史がある。当然、基地の周辺にはアメリカ兵相手の音楽空間がたくさん生まれたのだが、著者によれば、主流はロックであってジャズではなかったようだ。そしてもちろん、本土ではおなじみの「集中聴取」を基本にした「学校」や「寺」風のジャズ喫茶はほとんど皆無だった。アメリカ兵が集まるライブ・スポットでは、沖縄のミュージシャンががアメリカ兵の好む音楽をパフォーマンスして喜ばせた。そこにはアルコールやドラッグが不可欠で、また性欲の処理をする女たちがいた。沖縄について、主に文学を素材にして分析した同じ著者による『占領の記憶 記憶の占領』を合わせて読むと、音楽を含めた、戦後のアメリカ文化の入り方、受けとめ方、そして発展の仕方の違いがよくわかる。

・「占領の記憶」は本土の日本人にとっては敗戦後からのものである。しかし沖縄では、それは明治時代から始まるし、それ以前の薩摩藩や清による支配にまで遡るものである。そしてその意識は本土に復帰した後から現在にいたるまで継続されている。著者はアメリカの占領や米軍基地をテーマにした文学を「占領文学」と呼ぶ。それを代表するのは本土では、大江健三郎や野坂昭如などで、戦後から60年代頃までに特徴的な題材だったが、この本によれば、沖縄出身の作家には、現在でもなお中心的なテーマであり続けている。「占領の記憶」がほとんど忘れられかけている本土と、基地の記憶にいまだに占領され続けている沖縄の違いは、最近の普天間基地の問題に対する温度差でも明らかだろう。

・敗戦によるアメリカの占領は、一方で、日本人に民主主義や新しい生活を教えた。ジャズ喫茶とモダンジャズはその象徴の一つと言えるかもしれないが、現在では、その姿はすっかり風化してしまっている。というよりは、アメリカ文化はすでにすっかり溶けこんで、日本人の中に血肉化しているといった方がいいかもしれない。しかし他方で、アメリカは日本人にとっては異物としてあり続けた。これも本土ではほとんど自覚されなくなってしまっているが、沖縄ではなお、身近な存在としてあり続けている。