2012年7月23日月曜日

デモの勢い

・首相官邸前のデモが6月末から急激に増えて、毎週金曜日の夜には10万人を超える人が参加するようになった。増えたのは大飯原発の再稼働に対する抗議だったが、再稼働が強行されたあとも集まる人は増え続けている。大飯原発再稼働直前の6月29日のデモでは、Ustreamがヘリを飛ばして、上空からデモの様子を2時間ほど生中継をした。集まった人たちの多くはtwitterやfacebookの呼びかけに応じたもので、テレビや新聞は無視し続けてきたから、その中継は余計に印象深かった。

・デモの様子をヘリから伝えたのはタレントの山本太郎だった。そのことを事前に察知した警察の対応なのか、同日に彼の姉がマリファナの不法所持で逮捕されて、メディアが一斉に大きく報道した。大飯原発再稼働直前のデモの日に発表したというのは、明らかに作為的で、デモの勢いを抑えるつもりだったのかもしれないが、何の力にもならなかった。Ustreamの中継にはヘリを使う費用などに多くのカンパが寄せられたようだ。その後のデモでも、いくつものカメラを使った中継が続いているし、大飯原発前の抗議の様子も、再稼働の日に行われた「再稼働反対」の声を夜通し中継し続けた。

・このデモの勢いは7、8日の「NO NUKES2012」(幕張メッセ)の音楽フェス、そして16日の代々木公園での10万人集会と続き、主催者の予想を超えた17万人もの人が集まるほどに増している。炎天下の中を集まり、いくつかの方向に分かれて行進をしたようだ。中には福島や東北、あるいは関西からバスを連ねて参加したグループもあったという。老若男女、小さな子供を連れた家族など、反原発の意思表示をする人の多様さが、この主張の切実さを物語っている。

・メディアもさすがに無視するわけにはいかないと判断したのか、大きく取り上げ始めている。ただし代々木公園に隣接するNHKは相変わらず、小さな扱いのままである。あるいは、朝日新聞は鰻の記事の下に置いていて、一面とは言え、何だこれはという感想を持った。それは、大きな写真を一面トップに載せた東京新聞とは、きわめて対照的だった。

・メディアが取り上げなければ、どんな出来事もなかったかのように扱われる。メディア論ではつい最近まで、それがメディア批判の常套句として使われてきた。ところが、インターネットという新しいメディアが、そんな常識を打ち破った。メディアはそのことに脅威を感じ始めている。

・ツイッターは本来「つぶやき」ではなく「さえずり」だし、フェイスブックの標語は「今何してる」ではなく「今何が起こっている?」だ。そんなグローバル・スタンダードとは違って、日本ではツイッターは独り言をつぶやく場として普及し、フェイスブックは友達作りに便利な場として拡大してきた。その意味では、反原発の声が、二つのソーシャル・メディアを文字通り「社会的」なものにし始めていると言えるのかもしれない。

・政府は原発の再稼働という方針を変えようとしないし、やらせまがいの原発聴取会で将来の方針を決めようとしている。首相はデモについて「大きな音」といって無視しようとしているし、反原発の声が一時の感情的な高まりに過ぎないとでも言いたげな発言をくり返している。日本の現状や未来を経済の観点から考えれば、すべての原発を即廃炉にすることなどはできないという理屈だ。

・脱原発の声は確かに感情的かもしれない。しかしその感情は人間の命や健康、そして環境の汚染を第一に考えるべきという「倫理観」に基づいて生まれたもので、ドイツのメルケル首相が脱原発宣言をしたときの第一の理由に一致している。他方で、経済を第一に考える人たちが主張するのは、おなじ「かんじょう」でも「金勘定」にすぎない。それを声高に言う人やその背後には、既得権や利権故に現状を変えたくないという思惑が見え隠れする。

・だから、このデモの勢いは、政府や国会、そして官庁が方向転換の必要性を実感するまで持続させなければならないと思う。もうすぐ夏休みだから、ぼくも現場に出かけて、その行進の中に入りこみたいと思っている。アジサイには間に合わないがヒマワリかコスモスの頃には、原発ゼロを目指す方針を認めさせたいものである。

2012年7月16日月曜日

最近買ったCD


Madonna"MDNA"
Bruce Springsteen”Wrecking Ball”
Patti Smith "Banga"
Neil Young "Americana"

・新しいアルバムが出たらほとんど買うというミュージシャンは30人(組)ぐらいだろうか。多くは僕と同世代で、それぞれが出すのは数年間隔なのだが、これが毎年結構な数になる。時にはがっかりと言うこともあるが、それは例外的で、多くは納得がいく。そんなミュージシャンたちのアルバムが今年も半年を過ぎていくつかたまった

madonna4.jpg・マドンナの"MDNA"は4年ぶりのアルバムだ。下着姿だった前作の"Hard Candy"に比べて、今回のジャケットは透けたブラインドガラス越しで、真っ赤な口紅が目立っている。ワールドツアーもやっていて、イスタンブールではコンサートの最中に乳首を出したなんてニュースもあった。YouTubeにはそのシーンがあって、乳首よりは鍛えたからだで腹筋が割れているのに今更ながら驚いた。背中には"No Fear"の文字。相変わらずの元気さだが、アルバムそのものは。サウンド的にはいつもに比べて新鮮さに欠ける気もしたし、歌詞についても素直なラブソングのようで、おもしろいものが少なかった。

bruce5.jpg ・スプリングスティーンの”Wrecking Ball”は3年ぶりのアルバムで、Eストリート・バンドのリーダーだったクラレンス・クレモンズが死んだ直後に録音が開始されたようだ。収録曲の多くはアルバムで発売される前からコンサートでは歌われていたようで、2年以上前のNY City Liveではクラレンス・クレモンズも元気にステージに立っている。その"Land of Hope and Dream"を聴いていると、彼の変わらない、一貫した姿勢とメッセージがよくわかる気がした。


この列車には聖者も罪人も乗っている
敗者も勝利者も運んでいる
失われた魂、報われた信念
夢はくじけず、自由の鐘が鳴る

patti6.jpg ・パティ・スミスの"Banga"は8年ぶりのアルバムのようだ。意外な気がしたのは、前作の"Trampin"の後に、他のミュージシャンの歌を集めた"twelve"やシングル盤を集めた"Outside Society"を出していたからだ。"Fuji-san"という曲があって、アルバムについて自分で説明しているビデオ"Patti Smith BANGA New Album Release"では、地震と原発事故にショックを受けて作ったと話している。フジロックに何度も来ているから、このタイトルにしたのかもしれないが、彼女には特別の山として記憶されているようだ。録音には娘と息子が参加していて、エイミー・ワインハウスを追悼する歌、ジョニー・デップの誕生日を祝う歌もある。最後はニール・ヤングの"After the Gold Rush"。どの曲も静かにじっくり歌っていて、鎮魂歌のように、また子守歌のように聞こえてくる。

neil1.jpg ・そのニール・ヤングの"Americana"は「オースザンナ」や「我が祖国」といったアメリカの伝統曲ばかりを集めている。どういう理由か、最後は「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」だ。アメリカへの原点帰りということだろうか。ニールはカナダ人だが、音楽的なアイデンティティはアメリカにある。そんな宣言のアルバムなのかもしれないと思った。ただし、クレージー・ホースをバックにしてロックしているから、よく聞かないと原曲が何かわからないものもある。ここのところ駄作が多くて買おうかどうか迷ったが、まーいーか、という程度にはしあがっている。

・P.S.エディ・ベダーの"Society"は本当にいい歌で、運転中もしょっちゅう聴いている。その歌をYouTubeでジョニー・デップと一緒にやっているのを見つけた。

2012年7月9日月曜日

久しぶりにMLB


・メジャーリーグについては、このブログを始めたときから何度も書いてきた。そもそも、インターネットを使えるようになって自前のホームページを立ち上げたきっかけの一つは、猛烈なバッシングの中をメジャーリーグに飛び込んだ、野茂投手について発言したいと思ったからだった。ところが、もうずいぶん長い間、何も書いていない。理由は一つ、マネー・ゲームばかりが賑やかで、ゲーム自体がおもしろくないからだ。

・今年テキサスと契約したダルビッシュについて動いたお金は、交渉権が5170万ドル(40億円)で、契約金は6年で6000万ドル(46億円)だった。この金額は松坂がボストンと交わした契約金を超えて、日本人メジャーリーガーとしては史上最高で、ストーブリーグでは、そのことが大きな話題になっていた。もう、総額1億ドルなんて数字を見ても驚かないが、原点に戻って見ると、異常さがはっきりする。

・野茂投手は1995年にメジャー入りして、その年の新人王に選ばれたが、彼はマイナー契約でわずか11万ドル(当時のレートで1300万円)だった。そこからメジャーに12年在籍して123勝をあげたのだが、おそらく、彼が手にした年俸の総額はダルビッシュや松坂が契約時に手にした金額より少なかったのではないかと思う。その松坂は昨年肘の手術をして、今は復帰に苦労をしているところだ。今年は契約の最終年度だが、これまでの勝ち星は野茂の半分にも満たない49でしかない。

・一方でイチローや松井は日本での実績に違わぬ活躍をした。ただし二人とも衰えが著しくて、イチローはヒットが打てなくなっているし、松井は契約自体がリーグが始まって1ヶ月経ってからで、打率は1割台を低迷している。松井の今年の年俸は最高でも60万ドル程度で、ヤンキース時代の20分の1にでしかないが、彼がメジャーで稼いだ額はすでに8000万ドルを超えている。イチローはもちろんそれ以上で、すでに1億5000万ドル以上になっている。ただし彼も今年が契約の最終年だから、来年度はがた落ちか、下手をすると契約するのに苦労するということになるのかもしれない。

・こんなにお金にこだわるのは、そのことを考えると、試合を見ること自体がばからしくなるからだ。たとえば、イチローが200本以上のヒットを打ったときも、ヒット1本に換算すると800万円になったし、松坂だったら現在のところ、1勝が1億円の計算にもなる。もちろん、サッカー選手なら1本のシュートが何億円にもなるわけだが、こんなに高騰したスポーツ選手の年俸に賞賛の声しか上げないスポーツ・メディアの姿勢は、それをただ増幅させることだけだ。

・とは言え、メジャーリーグの情報はネットでチェックはしている。今年メジャーリーグに在籍している選手は、マイナー所属も含めて20人ほどもいる。けが人も多いし、評価されずに試合に出られない人やマイナーに降格されたままの人や、契約解除された選手も少なくない。人数の割に日本人選手は目立たないが、テストまでされて安い年俸で契約した青木の活躍や、地味だけど実績を積んでいる黒田などもいる。

・ついでに言えば、巨額のお金が動くのは人気プロスポーツのグローバル化が最大の理由だが、それは一般の企業でも同様だ。トップばかりが収入を増やしている現象については、格差社会のアメリカでも、最近の極端さには大きな批判が上がって、ウォール街をデモする若者たちが話題になったりもした。日産のカルロス・ゴーンの10億円は別格かもしれないが、日本でも格差が当たり前になる時代はそう先のことではないだろう。

・一方で、消費税は上げても、高額所得者の税負担を重くする税の改革は見送られた。日本の所得税は1987年までは最高税率が70%だったのに、現在では40%に引き下げられている。土地や株式の譲渡所得などには分離課税が適用されるから、実質的には100億円の収入があっても十数%の税で済んだりもするようだ。個人所得を個人の能力として考えれば、その数字を問題にするのはわからないでもない。だとすれば、名誉として、その所得のほとんどが社会に還元されてもいいのではないかと思う。どんなに稼いでも、そのお金をあの世まで持っていくことはできないのである。

2012年7月2日月曜日

やっぱりアンテナを立てようか

 

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・地デジのBS放送を止められてから4ヶ月が過ぎた。もともとそれほど見ていなかったから、特に不便に感じることはないのだが、BSでは夕飯時にも韓流や昔のドラマ、あるいはテレビショッピングなどをやっていて、ニュース番組がほとんどないから、「もうちょっと、ましな番組をやってくれよ」とつぶやくことが多くなった。NHKもプロ野球の中継が増えて、NTTの光テレビを見ることが多くなった。しかし、旅や料理の番組ももう飽きてきたし、見たい映画も、そうあるものではない。

・前回のこのコラムで紹介した隣の手作りログハウスが完成して、屋根には地デジ用のアンテナも立った。その隣人に「ここは電波が届きにくい所ですよ」と言ったら、映るようだという返事だった。近くでも、アンテナを立てて見ているところがあるらしい。その話を聞いて、「地デジなんか見なくたっていい」と思っていた気持ちが揺らいだ。

・実はずいぶん前から高性能の地デジ用アンテナをネットで調べていて、立てる可能性は探っていた。難視聴地域だからBSで見られるよう、総務省の係の人と交渉したときでも、アンテナを立てて見ている家があることを聞いていたからだ。で、アンテナを買うことにしたのだが、一番の理由は、総理官邸前で毎週金曜日におこなわれているデモをNHKが全く報じないという「さえずり」をツイッターで聞いたからだった。

・29日のデモの様子はUstreamでライブ中継されたし、山本太郎の乗ったヘリコプターが二度、録画した上空からの様子を40分ずつ放映した。官邸から国会議事堂にかけて多数の人が集まっていて、その光景は圧倒的で、主催者発表では15万人、新聞によっては20万人と書いてあるところもあった。テレビは臨時ニュースを、新聞は号外を出してもいい出来事のはずだが、どうだったのだろうか。確認できないことがちょっともどかしかった。

・アンテナは28日に届いて、さっそく屋根に取りつけたのだが、残念ながら何も映らなかった。ネットで調べると、電波が微弱な場合にはブースターが必要だと書いてあった。我が家にはVHFのアンテナにブースターをつけてあって、それとつないだ同軸ケーブルを使ったのだが、デジタルの電波を増幅してくれなかったようだ。それではと、またアマゾンでブースターを注文することにした。

・ブースターの設置場所はバルコニーの下にある。傾斜のきつい屋根伝いに二階に上がり、またバルコニーの下に潜り込んでの作業のくり返しで、それほど暑くはないのに汗びっしょりをかいての作業になった。何度か受信スキャンをくり返して、映ることは確認できたのだが、NHK2局と民放2局の全部が入らない。3局入ったところで、日も暮れたのであきらめたが、ネットで確認すると、アンテナ近くにさらに小型のブースターをつけると、もうちょっとパワー・アップすることがわかった。

・結局何とか4チャンネルの受信に成功した。たまたま雨雲が厚く覆っていて、BSもCSも映らなかったから、日曜日は、久しぶりに地デジを多く見ることになった。4ヶ月ぶりだから懐かしい気もしたが、夜はやっぱり、Ustreamの大飯原発前からのライブに釘付けになった。ここ数日の経験が、こういう現場を生中継できないテレビのどうしようもなさを改めて実感する機会だったのは、何とも皮肉なことだと思った。

2012年6月25日月曜日

父母が老人ホームに

・父と母が介護付き老人ホームに入居した。4月のはじめに母が脳出血で入院してから2ヶ月弱、すでに要介護1の認定を受けている父と、新たに要介護2になった母のこれからの生活の仕方については、ずいぶん考えさせられることが多かった。結論的に言えば、自立した生活ができなくなり、子供が同居して一緒に暮らすことが無理な状況では、介護付きの老人ホームに入居するのはベターな選択だったと思っている。ただし、そのことを納得してもらうのは、特に母については大変だった。

・母は庭に畑を作り、何種類もの野菜を栽培していたし、梅やレモンやゆずの実もなって、それらを保存食にすることもやっていた。そんなことが突然できなくなったとは言え、庭への愛着はそんなに簡単に捨てきれるものではない。あるいは、至れり尽くせりの介護付きとは言っても、今まで生活していた家の広さに比べれば、ホームの部屋はあまりにも狭すぎる。だから、月に一度ぐらいは迎えに行って数日家に帰って暮らすことぐらいはしてあげなければと考えた。

・ところが、脳出血の影響で、やることや考えること、そして何より記憶することに障害が出て、母は介護してもらわなければ生活に支障があることをつくづく感じ取ったようだった。特に、引っ越し作業を始めてからは、整理するつもりでかえってごちゃごちゃにしてしまったりして、もうここから逃げ出したいとまで言うようになった。

・倒れてからすでに2年近くなる父には、母が倒れた原因の多くが自分にあることがわかっている。口に出しては言わないが、子どもたちにも、これ以上の負担はかけさせたくないと思ったのかもしれない。引っ越したらすぐに、家は処分してもいいと言って、さっさと不動産やに連絡をしてしまった。そうなると、もう戻ってくることもなくなるわけで、それでもいいのか念を押したのだが、二人とも、いともあっさりと「いい」と答えた。

・もちろん、ホームに持って行けるものはごく限られていて、今まで使っていたものはほとんど処分しなければならない。その量の多さには改めて驚かされるが、ついこの間までは、どれも必要なものだったのはまちがいない。使っていた食器や衣類はもちろん、冷蔵庫には食べ物が残されている。庭の梅の木には実がいくつもなっていて、畑には茗荷ができている。

・二人にとってこの家は、終の棲家になるはずだった。しかし、そうはならず、老人ホームに入り、家は処分することになった。僕がこの家に住んだのは10年ほどで、すでに建て直されているから、ほとんど愛着はない。あるいは、両親と違って何度も引っ越しをして来ているから、住む場所が変わることにも、それほどの感慨を持たずに来た。しかし、二人にとって、本当のところはどうなのだろうか。そんなことを考えると、きれいに片づけて、売れる前にもう一度帰れるようにしておこうか、などという気にもなってくる。

2012年6月18日月曜日

入笠山と上高地

 

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・春になって山歩きにいい季節になっても、いろいろ忙しくて、出かけられなかった。朝大学へ出かける際に、湖にかかった霧の向こうに御坂山塊が見えたりすると、山が呼んでるなーと、思わずため息をついたりもした。ところが、山に行こうと思うと、天気が悪かったから、行きたい気持ちばかりが募って、いささか欲求不満状態になっていた。で、時間にもちょっと余裕ができ、天気の日が続くようになって、そろそろ行けそうかとなったところで、ぎっくり腰になった。

・今年の山歩きもやっぱり富士山から。一昨年の春に富士宮口の五合目から宝永山まで歩き、続いて須走口から幻の滝や小富士を訪ねたから、今年はその間の御殿場口から宝永山の近くの双子山まで登ってみた。太郎坊から森林限界ぎりぎりのところにある道を幕岩まで歩き、そこから双子山まで登って引き返した。雲が激しく流れる中、時折頂上も見えたし、途中で鹿にも出会った。登山道は砂走りの崩落で通行禁止になっていた。富士山の噴火だけでなく、大崩落の危険性が報じられていて、ちょうどこのあたりか、と思いながら下山した。

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・5月の末に諏訪の入笠山に登った。中央高速を走っていて東に見える山脈で、スキー場があるところだ。スキーの終わった季節でもロープウエイは山歩きの人たちを乗せるために動いている。平日なのに駐車場にテントがたくさん並んでいて、自転車に乗る人がたくさんいた。モトクロスの大会が週末にあって、その準備や練習をしていたのだ。ロープウエイの下を猛烈なスピードで駆け下りるライダーたち。
・入笠山の頂上からは八ヶ岳が間近に見え、眼下には諏訪の街が広がっていた。首切り清水という怖い場所から湿原まで歩いた。
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・6月に入って出かけたのは上高地で、今まであまりにも有名で避けてきたところだ。しかし、来てみればやっぱりすばらしい。南の焼岳から穂高まで360度のパノラマで険しい山が迫ってくる。梓川沿いの道を四時間ほど歩いた。ここまでくると、やっぱり上まで登ってみたいという誘惑に駆られてしまう。
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2012年6月11日月曜日

絶望と幸福

古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』

・長年大学生とつきあってきて、最近特に強く感じるようになったのは、「彼や彼女たちは、これからちゃんと生きていけるのだろうか?」という心配だ。それとは対照的に、日本の現状はますます暗く、将来的な見通しも立たないような状況だから、「もっと真剣に考えたほうがいいんじゃないの」と、ついついけしかけたりもしてしまう。しかし、反発してくれば、それなりに議論にもなるのだが、黙ってしまって何の反応もなかったりするから、僕の不安が募るだけになってしまう。

journal1-152-1.jpg・『絶望の国の幸福な若者たち』はまだ20代の若い博士課程在学の学生によって書かれている。新聞などの書評でも話題になって、その題名にも惹かれたから、買って読んでみた。この絶望の国で、若者たちはなぜ、幸福な意識を持って生きていけてるのだろうか。結論を先に言えば、「確かにそうかも」と納得できる内容で、重い内容を軽い文体で分析するスタンスの取り方にも、新鮮な印象を持った。

・著者によれば、今若者たちが幸せだと感じるのは、衣食は足りているし、日々の生活を彩るものはたくさんあって、お金が十分ではなくても、工夫次第で、それなりに楽しく暮らせるからだと言う。それは調査においても実証されていて、内閣府によれば、2010年の時点で20代の若者の70.5%が現在の生活に「満足」と答えていて、それは過去40年間で最高の数値になっているようだ。確かに、モノは豊富にあるし、近くにコンビニもあって便利だし、スマートフォンのような情報端末も使えるようになった。日本が世界最高の居心地のいい暮らしを提供してくれる社会であることは間違いないのだろうと思う。

・しかし、その幸福感には、現状についても未来についても、大きな不安感がつきまとっている。僕が学生たちにもっと自覚的になってほしいと思うのは、まさにそこのところなのだが、著者の解釈は、若者たちは無自覚なのではなく、どうしようもないとわかっていて、マクロではなくミクロなところで、自分なりに個人的な方法で対処する道を探っているというものだ。

・確かに、上の世代が日本の現状や将来について心配するのは、国が抱える借金や経済的な衰退、政治的な、そして防衛的な力の弱さであり、少子高齢化に伴う社会保険制度の崩壊といったマクロな問題ばかりである。しかも、このどう改革しても難しい問題に対して、政治家や官僚、そして財界のトップたちは、既得権や目先の利益にこだわり、これまでの政策に縛られて、ますます泥沼にはまってしまっている。

・それに対する現在の若者たちの姿勢は、正面切っての批判や大人たちに変わって改革をといったものではなく、消極的な拒絶や自分なりの個人的な逃げ道の模索といったものだ。彼や彼女たちは、今を幸福だと感じる反面で、社会に対して満足していないし、未来に対する希望も持てないと感じている。あるいは、日本に生まれてよかったと思う反面で、国を愛する気持ちは薄く、国のために戦う気持ちは他国はもちろん、上の世代と比べても低い数値のようである。

・経済が衰退したっていいじゃないか、人口が減っても、社会保険制度が破綻しても仕方がないじゃないか。そうなったらそうなったで、生き方や暮らし方に自分なりの道を探せばいい。もし、多くの若者たちが、そんな自覚を持って現在や未来を見ているのなら、僕はそれは大いに結構なことだと思う。それは未来に対する絶望ではなく、新たな希望にもなるだろう。しかし、学生とつきあっていて、なかなかそんなふうには思えないのが正直なところだ。彼や彼女たちは、豊かで便利な現実を自然視している反面で、将来に対する不安も感じていて、二つの間にある大きな断層の前で為すすべもなく立ち尽くしているように見えるからだ。

・経済成長一辺倒で来た国が、そうではない方向に舵を切るのは難しい。著者が指摘するのは、その反面で、民主主義の浸透が犠牲にされてきていて、若者たちにその埋め合わせというつけが突きつけられているという現状だ。それをどう解決するかはマクロではなくミクロの問題として個々人が何とかすればいい。この本に書かれているのはそんな結論だが、であればこそ、為すすべもなく立ち尽くしているように見える若者たちが気になってしまう。

・この本には3.11以後「世界が変わった」とする言説に対する批判もある。納得できる点もあるけれども、原発やエネルギーの問題について、まったくふれられていない点に強い疑問を持った。若い人ほど影響がある放射能とどうつきあうのか。これは、ミクロのみならずマクロな問題として、誰もが直面している問題のはずである。