2017年3月20日月曜日

最後の教授会

 


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sr2.jpg・辞めるとなるいろいろやるべきこと、やってもらうことがあります。そんなことが1月からずっと続きました。最後の授業、最後のゼミ、最後の教授会、そして送別会。やるべきことはなんと言っても、研究室を空にすることでした。僕の研究室は二部屋を一つにした広いものでした。その部屋の真ん中に書架を6本置いて、半分はゼミ室として使ってきました。主に院と4年生のゼミでしたが、音楽を流し、お菓子も用意して、サロンのような雰囲気にしてきました。仕切りに使っていた書架は、本を家に持って帰り、後期の初めには撤去しました。それで部屋の感じはずいぶん変わったのですが、全てがなくなると、僕がいた時間そのものが消滅したような思いに襲われました。

・その片付けが終わった後、研究室には1度だけ出かけました。最後の教授会で、その後、学部の送別会がありました。ただし、教授会終了後に3時間ほどの間がありましたから、僕は空っぽの研究室で、村上春樹の『騎士団長殺し』の続きを読みました。送別会の始まる少し前に読み終わったのですが、ストーリーの面白さに数日で一気に読んだのに、後に何も残らない。研究室と同じ「空っぽの世界」という読後感を持ちました。窓から見える風景は夕暮れで、徐々に暗くなっていきました。

party1.jpg・送別会の主役は僕を含めて3人でした。たまたま歴代学部長が一度に辞めるというので、いつもとは違う会になりました。学部では3年前に7人が辞めていますから、ここ数年で一気に若返ることになりました。数年前から学部の改変作業も始まっていて、中身も大きく変わることになりそうです。インターネット元年に開設されたコミュニケーション学部はこの20年の間に、社会状況の変化に合わせてカリキュラムを何度も変えてきました。新しい領域だっただけに、その改変に追い回されてきたような記憶があります。就職を第一に考えて入学する学生が増え、それにあわせてキャリア教育の必要性にも迫られてきました。

・教員生活を振り返って思うのは、何より、大学が大学でなくなりつつあるという危機感でした。それはもちろん、この大学に限ったことではありません。補助金をちらつかせて言うことを聞かせようとする文科省の姿勢はあまりに露骨です。天下り批判は氷山の一角に過ぎないでしょうし、産学協同はもう当たり前で軍学協同が推進されようとしています。その意味では、よき時代を過ごすことができたと言えるかもしれません。逆に言えば、かつての大学、あえて本来のと言ってもかもしれませんが、それを知る人が少なくなることには、強い危惧の念を感じます。

・辞めるに際して、何人もの人から、これから何をするのかといった質問を受けました。辞めるとは言っても、もう一年非常勤で、週一回大学には通います。講義もゼミもやりますから、完全にリタイアというわけではありません。その新学期も来月から始まります。終わったような、終わっていないような、中途半端な気持ちでの区切りだと答えました。しかし同時に、なぜ何かをしなければならないんだろうといった問いかけを逆に返すこともありました。ただ、毎日の生活を充実させること。それで十分でしょうという返事に、納得した人は少なかったかもしれません。

2017年3月13日月曜日

K's工房個展案内

 


「マトウ ソウシテ ワタシハワタシニナル」

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・K's工房の個展が2年ぶりに京都で開かれます。3月24日(金)から26日(日)までで、場所はこれまでとは違って銀閣寺の「アートライフ みつはし」です。12時から6時までは在廊します。

・2年前の個展は退院直後でしたが、その後の2年間のリハビリで新しい作品を作るようにもなりました。今夏のテーマは「マトウ ソウシテ ワタシハワタシニナル」。一体何をまとったのか。是非、お気軽にお出かけください。なお、基本的には僕も在廊しますが、自転車をもっていって、懐かしいところを走り回るつもりですので、留守になるかもしれません。

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2017年3月6日月曜日

『沈黙』

 

silence1.jpg・遠藤周作の原作を読んでいなかったが、マーチン・スコセジが監督をしたというので映画を見た。時代は江戸幕府がキリスト教を禁止し、ポルトガル人の追放や入港を拒否した頃のことである。日本で布教活動をした司祭のフェレイラが棄教したことに対して、信じられない弟子たちが、フェレイラに会うために日本に出向こうとする。マカオを経て日本にたどり着いた若い司祭たちが出会ったのは、奉行の厳しい弾圧と、それでも改宗しようとしない熱心な信者たちだった。

・物語は、このポルトガル人の司祭ロドリゴを守ろうとする農民たちと、奉行所に囚われて、厳しい拷問によって死んでいく者たちとの関わりの中で、この地で布教することの意味を自らに問い、キリストやその教えに対して疑いを感じながらも、理想を追い求めようとする主人公の苦悩を描いている。映画を見ながら思ったのは、この主題は、コンラッドの『闇の奥』に通じる近代ヨーロッパが基本にした「文明」と、植民地に赴いたものが一様に感じた矛盾だというものだった。

・ヨーロッパで成立した近代文明には「理想」と「エゴイズム」、そして「懐疑」という三つの要素がある。「これら三者が相互に関連しあい、相互に制約しあいながら一種の動的均衡を保っている。」ところが文明人は「そこから切り離されると、彼は行動の方向を見失ってしまう。」(井上俊『悪夢の選択』筑摩書房)主人公を襲った苦悩は、まさにそれだったように感じた。

・近代化が及んでいない当時の日本では、このような文明観はもちろん通用しない。ヨーロッパ列強が世界各地に出かけ、見つけた大陸を植民地にし、そこで生きていた人たちにキリスト教を広めようとした中には、純粋な布教活動ではなく、植民地支配のために必要な条件だったという要素もある。だからこその、幕府によるキリスト教禁止とポルトガルやスペインに対する鎖国だったのである。映画では、なぜ幕府がこれほどまでに、キリスト教を弾圧するのかといった問いかけはない。だから奉行所による冷酷非常な仕打ちと、それに耐える司祭と農民たちといった関係だけが強調されている。

silence2.jpg・そんな感想を持った後で、原作を読んだ。物語は基本的には同じだったから、映画のシーンを思い出しながらの読書だった。ただ、「理想」「懐疑」「エゴイズム」というキーワードを意識していたためか、主人公の心の動きをこの三つの思いを巡って理解するといった読み方になった。また純粋に、というよりは盲目的に神を信仰する農民と、マカオから道案内をし、主人公を裏切りながら、その後もつきまとうキチジローの身勝手さに、「理想」と「エゴイズム」の二面を当てはめたくもなった。そうすると、もう一つの「懐疑」の役割は奉行や通辞(通訳)といったところだろうかなどと。先入見があると、読み方に偏りが出がちになる。そんな疑問を感じながらの読書になった。

・しかしまた、フェレイラとロドリゴが出会って棄教した(転んだ)理由を話す場面では、映画と原作の違いに妙な関心をもって、あれこれ考えながら読んだ。映画では日本の土壌にはキリスト教は根付かずに腐ってしまうということだったのに、原作では、日本人が受けとめると、それは全く異なるものに変質してしまうからと、違う説明がされていた。日本人は外の文化を受け入れるのは寛容だが、形だけを取り入れて、中身の受容については関心がない。だから、似てはいても本質的には違ったものになってしまう。それは奈良、平安の時代から続いていて、明治になってから現在にいたるまでも、相変わらず輸入文化に貫かれている特徴である。遠藤周作は、そんな指摘をした丸山真男や梅棹忠夫を読んでいたのかもしれない。

・こんな読み方をしながら一番自覚したのは、僕のキリスト教に対する無関心さと無関係さだった。敬虔なキリスト者だった遠藤周作にとっては、ふざけた読者だと思われるにちがいない。

2017年2月27日月曜日

Roll Columbia: Woody Guthrie's 26 Northwest Songs

 

woody1.jpg・ウッディ・ガスリーが何かと話題になっている。スーパーボールのイベントでレディ・ガガが"This Land is Your Land"を歌ったとか、ガスリーがトランプ大統領の父親を歌にしているとか、オバマの就任式にはピート・シーガーやスプリングスティーンなどが大聴衆を前に"This Land is Your Land"などを歌ったのに、トランプの時にはミュージシャンのほとんどに断られた等々である。

・ガスリーは1950年代初頭に2年ほどトランプの父親が所有するアパートを借りていたようだ。この父親は公営住宅への黒人の入居を邪魔した人で、ガスリーは、そのことを批判して歌を作ったのである。まさに、この親にしてこの子ありを証明するような歌詞である。なおこの歌は、ライアン・ハーヴェイが歌っている。



きっと トランプの親父は知っている
どれほど 人々の心の奥底に
人種的憎悪を引き起こしたのか
………
黒い野郎は誰もうろつかない
・ウッディ・ガスリーの歌の多くはレコードとして残されていない。この歌も、オクラホマ州タルサにある「ガスリー資料館」で、イギリス人の研究者が歌詞を見つけたということである。実際、彼の肉声で歌われているものの多くは、民族音楽の収集家でアメリカ議会図書館に務めていたアラン・ロマックスが録音したものだった。

・"Roll Columbia: Woody Guthrie’s 26 Northwest Songs"はガスリーがコロンビア川のダム完成にあわせて、水力発電のメリットを宣伝するために国から依頼されて書いたものを中心に26曲集めたアルバムである。コロンビア川はカナダのロッキー山脈を源流としてアメリカのワシントン州とオレゴン州を流れて太平洋に注ぐ全長2000kmの大河である。その川を堰き止めるグランドクーリーダムは1941年に完成したが、横幅が1.6kmで高さが168mもあり、現在でも北アメリカ最大のものである。このダムは、フーバーダムとともに、大恐慌を乗り越えるための国策として建設されたものである。

・このアルバムは、歌が作られてから75年経ったことを記念して作られた。歌っているのはガスリーではなく、現役のミュージシャンたちだが、僕は一人も知らない人ばかりだ。大恐慌の時代に、失業した人たちや低賃金で酷使された人たちの代弁者として、多くの歌を作り、争議の場や集会などでも歌ったガスリーが、国に雇われて多くの歌を作ったというのは、これまであまり知られていなかったことである。また26曲の中にも、ほとんど公表されなかった歌もある。

・26曲にはコロンビア川を中心にオレゴンやワシントン州の魅力を歌ったものが多い。もちろん、ダムを賛美する歌もある。「屈強な男たちが日夜働いて、ワイルドな川に負けない強さを備えた。」アメリカ中を放浪したガスリーには、この大陸の自然を賛美する歌、自然の恐ろしさを伝える歌、開拓の歴史を語る歌、さまざまな不正や、政治に押さえつけられる人たちの歌など、数多くの作品が残されている。

・もちろんダム建設によって起きた問題も多かったようだ。鮭の遡上ができなくなったことや水没によって移転を余儀なくされた人たちも出た。しかし彼がそこに気づかなかったのもまた、40年代という時代であればこそだったように思う。ガスリーの自伝『ギターをとって弦をはれ』(晶文社)を久しぶりに読み返したが、トランプもコロンビア川についての記述もなかった。


2017年2月20日月曜日

リチャード・セネット『クラフツマン』筑摩書房

 

sennet1.jpg・「クラフツマン」はふつう「職人」と訳される。「職人」は何より「作る人」だ。しかし、日本語訳を「クラフツマン」としたのは、この本が「職人」ということばを超えた、幅広い世界を扱っているからだ。例えばストラディバリウスのヴァイオリンに言及する一方で、ピアニストの手の動きにも触れている。あるいは副題には「作ることは考えること」とあるが、Makingには作ることだけではなく、「発達」や「素質」といった意味もある。つまり「クラフツマン」「クラフツマンシップ」は、およそ人間のすること全てに関わってくるのである。

・セネットの師であるハンナ・アレントは「労働する動物」と「工作人(ホモ・ファーベル)」を区別した。ここには現代の労働が、自ら考えながらするものではなく、強制され、自動的におこなうものに変質したという批判がある。オートメーション化された中の単純労働や組織のなかで働くことはもちろんだが、何のためにとか、どうなるかを考えずに行うことも含まれる。原爆の開発などはその典型だろう。

・セネットはこのような二分化に反対して、クラフツマンを歴史的に、あるいは身体論的に分析することを試みている。それはアレントが批判した「労働する動物」から「考えながら作る人」への転換を目指した試みだと言える。

・およそどんなことであれ、専門家になるまでには1万時間の訓練が必要だとされる。で、そこで修得されたものは「暗黙知」として結実化する。つまり、理屈やことばで自覚しなくても、手に代表される身体が自然に動いて、やるべきことができるようになる。もちろん現在では、何をどのように教えるか、訓練するかの多くはことばとして「明示知」化されている。しかし、それは全てではない。だから、かつての職人がそうであったように、「暗黙知」の中には習うのではなくて慣れる、教わるのではなく盗む形で身につくものも残されている。

・ここにはもちろん、個人的な才能もある。ストラディバリウスの工房には多くの弟子がいて、同じ材料で教えられるままにヴァイオリンを作ったが、誰もストラディバリウスと同じヴァイオリンを作ることができなかった。そんな才能は「アーティスト」の登場によって、一層注目されることになる。セネットによれば「アーチスト」と「クラフツマン」の違いは、「個人」と「集団」、「独創」と「共同」、「突然」と「ゆっくり」である。

・クラフツマンは何かを作るだけでなく、作るための道具も作り出す。機械化は、クラフツマンが習得すべき技術を軽減し、作成に要する時間を短縮する。あるいは、作品のできがりに見られるばらつきをなくした。それはまた、大量生産を可能にして多くの人に行き渡らせることを可能にしたが、同時に、画一化をもたらした。「クラフツマン」の仕事に、機械ではできないどこか未完成のもの、不完全な部分を求める流れも生まれることになった。

・「クラフツマン」が新しい試みに挑戦すれば、それを妨げる「抵抗」に出会うことになる。その「場所」を突き止め、疑問を抱き、打開する。セネットはその三つを「クラフツマン」に必要な三つの能力だという。しかもそれは必ずしも、能力のある人だけに限られたものではない。

・今は高度な消費社会で、自分で何かをしなくても、モノでもサービスでも購入することができるようになった。あるいはアナログからデジタルへの変化が、さまざまな技術を無効にしたり、新しい技術を必要にするようになった。残念ながら本書では、このような点についての議論はない。しかし、「クラフツマン」について、改めて考えさせられることに満ちあふれた内容であることは間違いない。

2017年2月13日月曜日

久しぶりのぎっくり腰

 

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forest139-2.jpg・この冬は昨年11月に季節外れの大雪が降った後は、ほとんど雪らしい雪はなかった。とは言え、寒いのはいつも通りだったから自転車は、知人が来た正月に西湖まで行ったきりだった。薪割りは着実に進めて、もう残りわずかになったのだが1月中旬に30cmほど降ってからは中断している。当然運動不足になって、そのせいかぎっくり腰が再発した。

・特に激しい痛みが来たわけではなかった。朝起きて、少しおかしいかなと思った程度だったのに、昼過ぎになると腰が曲がって、頻繁に電気が走るような痛みが出るようになった。前日に工房の屋根や雨樋にたまった落ち葉を取るために、ハシゴに乗って無理な姿勢で作業をしたせいかもしれない。大学に行くたびに、研究室でのゴミ出しや、本の持ち出しも続けてきた。

forest139-3.jpg・4日には院の最後のゼミとパーティがあって、どうなるかと思ったが、何とか乗り切った。何しろ座ると固まってしまって、立ち上がるときに電気が走るし、おそるおそる腰を伸ばさなければならなかったのだ。大勢の人が集まったから、あまり無様な姿は見せたくなかった。家ではだらしなく腰を曲げて歩いていたが、社会に出るとそれなりにしゃきっとする。ところが家に戻ると、無理がたたってまたひどくなる。そんなくり返しが半月ほど続いた。

・で、腰はまだ完治していない。やっと消えたと思った雪がまた積もったから、しばらくは自転車も薪割りもできない。その代わりというわけではないが、ここのところ映画を見に出かけている。『シンゴジラ』から始まって『ハドソン川の奇跡』『この世界の片隅で』『スノーデン』を甲府のシネコンで見た。『沈黙』は夜しかやっていなかったので、三島まで出かけた。

・改めて気づいたのだが、映画は今、ほぼ全国一斉に多くのシネコンで上映されている。山梨県には一つしかないが、隣の静岡県にはいくつもある。しかし、『スノーデン』も『沈黙』も見ている人はわずか数人だった。両方ともよく出来た映画だと思うが、娯楽性には乏しい。シネコンだからこそ上映できるのかもしれない。この二本の映画については、近いうちにレビューをしようと思う。もっとも遠藤周作の原作を読んでいないから、その後でということになると思う。

forest139-4.jpg・今は厳冬期だが、湖畔には結構観光客が来ている。早朝の通勤時にも河口湖大橋には富士山を背景に写真を撮る人がかなりいる。しかも外国人が多い。世界遺産の威力といえばそれまでだが、歩道は雪が積もったままで、車道まで出て写真を撮ろうとするから、危ないことこの上ない。自転車を走らせている人もいる。滑って転ばなければいいがと、心配をすることが多い。

2017年2月6日月曜日

最後のゼミ

 

・退職する教員は慣例として最後の講義をやることがあります。しかし僕はやりませんでした。何によらず儀式や儀礼的なことは嫌いで、これまでもできる限り避けてきたからです。しかし、今年度限定の特別企画講義「仕事、レジャー、そしてライフスタイル」の最後の時間には、終了時に花束をもらいました。毎回ゲスト講師を招いて話してもらう授業で、僕は最後だけ、まとめとライフスタイルの話をしました。もうこれで十分と思ったのですが、院の卒業生たちから要望があって、院の最後のゼミをやることにしました。

・大学院ではこれまで18年間で30名ほどの学生を指導してきました。数年前まで、院のゼミには卒業した学生も多数参加していて、毎回3時間を超える時間を使って、各自の研究発表を行ったり、僕が編者になって何冊かの本を作ってきました。ユニークな研究をする人が何人も育ったことは、僕にとっては何よりの喜びであり、また自慢になることです。

・コミュニケーション学部には『コミュニケション科学』という紀要があります。退職者には記念号を出す権利があるのですが、僕は最後の仕事として、卒業生を中心に記念号を出すことを提案しました。最後のゼミではその編集方針も検討されました。順調にいけば夏休み明けに原稿を集めて、来年の3月までには発行できると思います。

・最後のゼミには14名が集まりました。中には九州や四国、そして中国から駆けつけてくれた人もいて、懐かしい話に花が咲きました。もっともこのゼミのメインは来年度に博士論文を出す予定のY君の発表で、その進捗状況を報告し、大勢の人から厳しい批判やアドバイスを受けました。僕は来年度も、もう一人の修士論文と学部の卒論を指導するために非常勤講師として勤務を続けます。1年限定ですからY君には頑張っていい論文を書いてほしいものだと思います。

・ゼミの後は場所を変え、飲み会としておなじみの店でパーティをしました。ここには30名近くの人が参加してくれました。賑やかな会の主役になるのは何とも照れくさかったのですが、大勢の人に集まってもらえたのはありがたい限りと思いました。その後2次会、3次会とつき合って、お土産や記念品をいっぱい車に摘んで帰りました。

・実は研究室の片づけなどのせいで数日前から腰痛でしたが、何とかつき合えてよかったです。