2007年9月24日月曜日

病名の不思議

 

・安部首相が突然の辞任表明をして、即入院をした。病名は「機能性胃腸障害」。聞きなれない病名だと思ったが、要は、胃腸の調子がちょっと悪い程度の症状だという。胃酸が少なければ薬で補い、多ければ、やっぱり薬で抑えてやる。それなら入院などしなくても、薬で対処できるのではないか。そんな疑念を感じたら、実はもっと深刻で「潰瘍性大腸炎」らしいという記事も目に入った。あるいは、体よりは心が参っていて、側近の人たちは「自殺」をしないかおそれている、という噂もあったようだ。

・そんなふうに聞くと、突然の辞任も仕方がないか、と判断したくなる。しかし、一方で、辞任はどうにも弁護できないスキャンダルのせいだという記事もある。週刊現代が報じた、胃酸ではなく遺産の相続をめぐる疑惑である。立花隆の記事によれば、国会を混乱させるに十分な疑惑であるようだ。だとすれば、辞任とその理由にされた病気は、単に、疑惑を闇に葬り去るための道具だったということになる。

・そういえば、よく似た事例がもうひとつあった。横綱朝青龍の問題である。夏場所で優勝した横綱は、病気を理由に夏の巡業を休むことにした。病名は「脊柱圧迫骨折」というおそろしそうなものだった。脊椎が折れていて良く相撲が取れたものだが、気力でがんばったということなら、夏の巡業は大いばりでお休み、ということだったのだろうと思う。ところが、帰国したモンゴルで中田英寿と親善サッカーを楽しんだというニュースが飛び込んで大騒ぎになった。

・帰国した朝青龍は、何の弁解も謝罪もせず家に閉じこもって、親方にさえまともに話をしなかったから、マスコミの格好の餌食になった。相撲協会がした処罰は二場所出場停止と自宅謹慎。横綱はまったくコメントを出さず、ひきこもりを続け、何人かの医者がかわるがわる訪れて、いろいろな病名をつけた。「神経衰弱」「急性ストレス障害」「乖離性障害」………。

・不祥事を起こして世間の非難を浴びているのだから、落ちこむのは当然だろう。しかし、それにすぐにもっともらしい病名をつけるというのはどうしたものか。土俵上では気力をむき出しにして、精神力の強さを誇示した横綱だったから、彼のとった行動と周囲のうろたえぶりが余計に奇妙に、滑稽にさえ見えた。で、治療にはモンゴル帰国が不可欠という判断が出た。この間朝青龍からは、一言の発言もなかった。

・最近生じたこのふたつの出来事からは、どんなことでも病気を理由にすれば、不問にふしてもらえる、という考えが見えてくる。実際、何か都合が悪くなると「入院」して、もっともらしい「病名の」ついた病人になるといったケースは少なくない。あるいは事件をおこした容疑者に精神鑑定の要ありといったケースもよく耳にする。病気はすべてを不問にする。こんな発想は、今に始まったものではないのかもしれない。しかし、医者がもっともらしい病名をつければ病気とみなされる。そんな傾向がやけに目についたりもする。

・もっとも、逆のことも感じてしまう。つまり、第一線で働くためには「健康」であることが必須条件だという点だ。だから、仕事の環境は、時間の長さやストレスの強さなど、健康を害する要因で一杯なのに、誰もが、体の不調をおして無理して仕事をしてしまう。そうやってがんばることが、積極的な評価の基準になったりするから、病気を隠して働きつづけることもしなければならなくなる。

・心身の状態、あるいはその変調をどう自覚し、どう公表し、どう対処するか。それは、何よりじぶんの問題だが、社会的にはまた別の意味がある。だから時に必要以上に医者にたよったり、また病院を避けたりもする。安部も朝青龍も、病気としてはそれほど深刻なものではないのだろう。しかし、どちらにしても、仕事上の生命が失われたことは間違いない。

2007年9月17日月曜日

Patti Smith "twelve"

 

・パティ・スミスの新しいアルバム"twelve"には自作の歌がない。盛りこまれた12曲はどれもが彼女にとって意味のある大事な歌のようだ。収録曲は以下の通り。若いころに憧れた人、よく聴いた曲、同世代のミュージシャンの歌が選ばれていて、彼女より若いのはニルヴァーナだけである。

1.Are You Experienced? (Jimi Hendrix)
2.Everybody Wants To Rule The World (Tears for Fears)
3.Helpless (Neil Young)
4.Gimme Shelter (The Rolling Stones)
patti12.jpg5.Within You Without You (The Beatles)
6.White Rabbit (Jefferson Airplane)
7.Changing Of The Guards (Bob Dylan)
8.The Boy In The Bubble (Paul Simon)
9.Soul Kitchen (The Doors)
10. Smells Like Teen Spirit (Nirvana)
11. Midnight Rider (Allman Brothers)
12. Pastime Paradise (Steavie Wonder)

・ぼくはパティ・スミスをデビューからずっと聴いている。女では一番好きなミュージシャンだから、このコラムでもすでに何度もとりあげている。そんなに久しぶりだと思わなかったが"trampin'"からは3年もたっている。2002年にベストアルバム"Land"を出した。後ろをふりかえらないという彼女らしいこだわりがあって、このアルバムには「わたしは過去とはファックはしない」ということばが書かれていた。彼女らしいと思ったが、それは決していいわけではなく、「ふりかえるけどふりかえらない」といった矛盾した気持の表現なのだと思った。
・"twelve"は完全に過去をふりかえっている。ただし、ノスタルジーではなく、自分の歩いた軌跡を記録してとどめておくためである。とりあげた12曲についてのコメントがどれもおもしろい。ジェファーソン・エアプレーンのグレース・リックは少女時代の彼女にとって「ロックンロールの異端の女王」だったし、ボブ・ディランはピカソのように、芸術的にも人間的にも永遠に広がり続けるステージに引き出してくれた人である。ジミ・ヘンドリクスの"Are You Experienced?"は70年代の頃からレコードに入れたかったが、その資格はないと思いとどまったと書いてある。
・どの曲も聞き覚えがある有名なものだが、やっぱり、パティの歌になっていて、自分の曲のように聞こえてくる。だから、オリジナルのサウンドはどうだったか気になって、何曲も聞きくらべたりしてみた。一番原曲に近いのはローリングストーンズの"Gimme Shelter"で、彼女の歌に一番なりきっているのはジファーソン・エアプレーンの"White Rabbit"。ビートルズの歌がなぜ、"Within You Without You"なのかというと、彼女が一番親しかったのがジョージ・ハリリスンだったからのようだ。
・ディランの"Changing Of The Guards"は「ストリート・リーガル」の1曲目の歌だ。聞きくらべようと思って探すとCDがない。買ってないことにあらためて気づいたが、理由は宗教色が強く出たりして、ディランが一番つまらない時期だったからだ。レコードで聴くと例によって針飛びがする。で、買い直すことにした。彼女がこの曲を選んだ理由は、ニューヨークで落ちこんでいる時に、これを聴いて涙を流したからだという。難解でよくわからない歌詞だが、ディランにとっては一つの時代への訣別宣言のようでもある。16年とはディランのデビューから数えて、この歌が発表されるまでの時間である。ぼくにとっては、訳のわからないところに行き始めた、という印象が強かった。

16年
16年の旗が共同戦線を張った
ところは良き羊飼いがなげく野原
彼らの羽を落ち葉のしたにひろげた

平和は来る
焔の車輪に静寂と豪華をのせて
だが にせの偶像の没落以外には なんのむくいもなく
「護衛の交代」『ボブ・ディラン全詩302篇』晶文社

・今ある自分は、さまざまな人びとや出来事との出会いや交差、衝突の結果として存在する。得たもの、失ったもの、変わったところと変わらないところ。そのことをふりかえってみることは十分に意味がある。ぼくも最近、そんなふうにして、ふりかえることが多くなった。

2007年9月10日月曜日

ディジタルとアナログ

 

journal1-112-1.jpg・ipodは便利に使っている。イヤホンでというよりは、家でステレオにつなげて聴いている。もちろん、車に乗るときにも欠かせない必需品だ。とにかく、無精者にはもってこいの道具で、CDを差しかえることが面倒になってしまった。そのipodについて、スティーブン・レヴィの本を見つけたので読んでみた。
・ウォークマンの歴史が長い日本では、好きな音楽を持ち歩いて聴く行動は、特に目新いしものではない。しかしアメリカではちょっと違うようだ。耳をふさいで街中を歩く。そのコミュニケーション拒絶のポーズが、いろいろ批判されて話題になったようだ。手前味噌のようだが、そのことはすでに、 20年近く前に『メディアのミクロ社会学』(筑摩書房)で指摘したことがある。
・だったらipodには新しいものはないかというと、そんなことはない。音楽のディジタル化はレコードをCDに変えたが、ipodはCDやケースといったモノを不要にして、音楽をMP3という形式の情報だけにした。iTunesストアで1曲99セントでダウンロードして売るようになった。不正コピーに頭を悩ましてきたレコード産業には、新しいビジネス・スタイルの発見だが、それは必ずしも喜ばしいことではない。


・CD自体が消えてしまうというのに、CD型のパッケージ商品という幻影を守る意味がどこにあるのだろう?ロックバンドも交響楽団も、特定のレーベルと契約を結んだりせずに直接iTunesストアや他のオンラインストアで曲を売れる時代になったら、音楽レーベルはどうやってアーティストを繋ぎ止めておくつもりなのだろう?その頃、レコード会社はどんな地位にいるのだろうか?(p.206)

・ipod の登場によって、音楽産業の情勢が激変する。そうなったらおもしろいと思うが、実際にはどうだろうか。世界中の音楽がわずか数社の巨大な多国籍企業に支配されている状態が長いことつづいている。それが果たして崩されるのかどうか。一時の流行ではなく、まさしく「メジャー」を頼らない「インディーズ」の時代になったら、音楽そのものがかわっていくのだろうか?

journal1-112-2.jpg・とはいえ、ディジタルとアナログの関係はもっと深く広いものだから、それを音楽に限定してしまうのは、事の本質をひどく矮小化してしまうことになる。スティーブン・レヴィには『ハッカー』(工学社)という、パソコン誕生前からコンピュータに夢中になった連中についてのルポがあって、以降もコンピュータに関連する労作を何冊も書いている。その中の1冊、『人工生命』(朝日新聞社)も、この夏あらためて読んでみた。
・コンピュータ開発の初期段階、あるいはそもそもの発想段階からあった目的の一つに、「人の手で命を創り出せないか」という野望があった。命あるものは何より物体として存在する。コンピュータによって産み出されるものはディジタル情報だから、物質化させることはできない。しかし、命あるものはかならず物体として存在しなければいけないのか。そんな疑問は、種の保存を司るのがDNAといった遺伝子情報であることに注目することによって乗り越えられる。コンピュータ内に生命が誕生し、進化するための環境を作れば、やがて単細胞の命が生まれ、それが勝手に進化を遂げていく。レヴィーの『人工生命』は、そんな野心に夢中になった人たちの物語である。

journal1-112-3.jpg ・人は何より身体として存在する。そして身体を制御する司令室は脳にあって、ここには「私」というじぶん自身を意識する働きもある。ジョン・C.リリーは『意識の中心』(平河出版社)で、その脳をコンピュータとして理解している。そのバイオコンピュータにはプログラムが組みこまれ、プログラムを管理するメタ・プログラムが置かれている。リリーによれば「心はプログラムとメタプログラムの総体、すなわち人間コンピュータのソフトウエアなのである。」
・たとえば、新しい環境に馴染む、新しい仕事や技術を覚え、習熟する。それを一つのプログラムの生成と精密化として考えれば、この発想には合点がいくことが多い。そのプログラムを自覚的に管理するのは「意識」というメタプログラム(プログラムのためのプログラム)で、それらの総体が「心」になる。
・おもしろいのは、ジョン・C.リリーがこのような発想に気づき、確信したのはLSDを自ら使って試みた実験だったということだ。彼の『バイオコンピュータとLSD』(リブロポート)によれば、それはドラッグ文化がにぎやかになる60年代の対抗文化以前に行われている。彼はLSD体験によって、自分の心が自分の身体を離れ、空間はもちろん時間的にも無限の旅をすることになる。もちろん、彼は科学者だから、その心を「霊」や「魂」といった宗教的な言説に直結したりしないし、ファッション化したドラッグ文化にも批判的である。

・ディジタル化とは実体あるものを01の数字に置きかえて代替することだ。しかし、実体ととして存在する生命が、ディジタル情報によって生成され管理されているのだとすれば、生命の本質にあるのはアナログではなくてディジタルだということになる。そんな発想を理解したら、ノーバート・ウィナーのサイバネティックスが気になり始めた。彼の『人間機械論』(みすず書房)には、サイバネティックスは「有機体(organism)を通信文 (message)とみなす比喩」として発想された研究視点だという説明がある。有機体の根源にあるのはメッセージ。だから実体には形や質量がなくてもいい。そんな発想が、今、いろいろな形で現実化して、身の回りに目立ち始めている。ipodがその端的な一例であることはいうまでもない。

2007年9月3日月曜日

富士吉田の火祭り

 

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・富士吉田の火祭りは富士山の山じまいの祭りである。富士吉田駅近くの金鳥居から富士浅間神社までの通りが大松明や木組みの火で埋めつくされる。同時に富士山の山小屋でも火がたかれる。もともとは富士山の鎮火を願って始まったもので、400年の歴史がある。友人が来ていたので、出かけてみた。


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・祭りは久しぶりで、屋台の品揃えが珍しかった。腹ぺこだったので、横須賀風のお好み焼きとトルコのケバブで腹ごしらえをした。イベントにもあたらしい工夫があって、富士山火焔太鼓のパフォーマンスははじめてお目にかかった。中央でたたいているのは外国人で、国際色も強調している。

・炎の勢いが強くなると、歩いていても熱さを感じる。火の粉がかかり、大松明から火のついた木片が落ちてくるから、ぼんやりしてはいられない。パートナーと友人は大松明の下で、行者から無病息災の熱い祈りを背中に施された。彼女たちは、浅間神社で御神酒を手酌でおかわりもしたから、さぞかし御利益があることだと思う。


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photo42-10.jpg・帰りに富士吉田駅のホームにはいると、東京方面に帰る電車がすし詰め状態でびっくりした。河口湖駅行きは東京からの直通電車。中央線で時々見かけるやつだ。それがハイランド駅に着くと、また、どっと乗り込んでくる。しかも若い女の子たちばかり。ハイランドで一日遊んで宿に帰るのか、あるいは始発駅に戻って東京に座って帰ろうというのか。湖畔に止めた車まで歩いていくと遊覧船がライトアップしている。
・女の子の大群が気になってネットで調べると、ハイランドで "L'Arc〜en〜Ciel"のコンサートがあったようだ。8月最後の日曜日。登山客、釣りやボートで過ごした人、キャンプやバーベキューを楽しんだ人。そして火祭りに出かけた人。それにコンサートだから、当然、人、人、人の大洪水。高速道路はもちろん、深夜まで大渋滞だが、そんな季節ももうすぐ終わる。やれやれ………。

2007年8月27日月曜日

南アルプス・甲斐駒ヶ岳

 

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forest62-5.jpg・甲斐駒ヶ岳登山は春から計画を立てていた。以前から憧れていた山で、京都に住むSさんに話すと、即座に行きましょう、ということになった。彼女は大学時代からあちこち登り続けていて、南アルプスにも詳しいが、甲斐駒ヶ岳だけはまだだという。「じゃー、夏休みに」ということになった。
・甲斐駒ヶ岳は南アルプスの北端にある。八ヶ岳あたりに行くといつも、そのそびえ立つ姿に見とれて、いつか登ってみたいと思っていた。で、夏休み前に日程を決め、8月にはいると、少しずつ距離を伸ばして、歩き慣れておくことにした。しかし、である。
・数日、付近の山を歩いて自信もつきかけた頃に、癖になっているぎっくり腰をやってしまった。予定の日までは10日ほどあるが、非常にやばい。Sさんにお詫びして中止にしようかと思ったが、4,5日でなおることもあるからと、様子を見ることにした。

forest62-6.jpg・状態はなかなか改善しなかったが、散歩をすると、むしろ調子はよくなる。これなら、頂上までは無理でも、ちょっとなら歩けるかも、と思うようになった。で、決行!
・出発は夜中の3時。暗闇のなかを河口湖、西湖、本栖湖と抜けて、本栖道を下部へ下る。富士川を渡り、早川沿いに南アルプス街道を奈良田まで。1時間半の行程で、着いたときには夜が明け始めていた。ここからマイクロバスで広河原まで行き、バスを乗り換えて北沢峠まで、1時間半揺られたのだが、切り立った断崖の連続で、狭い道が所々陥没している。7月の豪雨のときには崖崩れもあったようだ。マイカー規制は当然で、とてもじぶんでは運転する気にならない道だった。途中幾つもの発電所がある。たぶんその工事のためにつくった道なのだろう。

forest62-7.jpg・バスが何台も増発され、北沢峠付近には幾つものテントが張られている。すでに明け方前から、登山ははじまっている。腰の不安をかかえながら、とりあえずは、少しずつ登る仙水峠まで。7時半。松や白樺、あるいはブナがはえる森を川沿いに登る。最初は寒かったが、すぐに汗が出はじめる。仙水小屋をすぎると一面の岩の瓦礫に遭遇する。氷河期にできたもののようだが、地震があったら間にも崩れてきそうだ。1時間ほどで仙水峠に着く。そうすると、目の前に甲斐駒ヶ岳と摩利支天。その姿に思わず「うわー、すげぇ」と言ったまましばし絶句!



forest62-8.jpg・最初はここまでと思っていたが、目の前の山を見ると、もっと先に行きたくなる。実は、膝の調子が悪くて行かないと言っていたパートナーも、花崗岩がむき出しの甲斐駒に興味をそそられて、一緒に来てしまったのだが、彼女ももう少し行ってみると言い出した。
・次のポイントは駒津峰だが、500Mをほぼ直線的に登るかなりきつい行程で、頂上をめざすSさんとは別にゆっくり登ることにした。しかし、きつい。たびたび休み、次々に抜かれるが、そのほとんどは中年で、なかにはぼくよりも高齢の人もいる。その健脚ブリに感心するばかりだが、こちらは腰や膝と相談して、無理はできない。
・ほんとうに長い登りで、頂上に着くまで2時間はたっぷりかかった。めげる気持を取りなおさせたのは、登るごとに見えてくる周囲の山々だった。鳳凰三山の一つ、地蔵ガ岳はまるで乳首のたった乳房のように見える。その右に富士山が顔を出したときにはまた感激の歓声。そして北岳。日本一と第2位の山が目の前にある。駒津峰に着くと南アルプスがはるか彼方まで見える。Sさんがいれば塩見岳や赤石岳もわかっただろうが、彼女はすでに甲斐駒に向けて歩いている。西には中央アルプス、木曽駒ヶ岳とその向こうに御嶽山。その北には北アルプス。文字どおり、何の障害もなく見渡せる360度のパノラマの世界だ。


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鳳凰三山・地蔵ガ岳
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富士山
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北岳・間の岳・農鳥岳
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木曽駒ヶ岳・御嶽山





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間の岳・農鳥岳
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仙丈ヶ岳
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塩見岳・赤石岳
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地蔵岳



・登山は登りがきついけど、下りもきつい。特につま先が痛くなってくると、やっかいだ。今回は腰痛もあって、そっと足をおろすといった感じで降りたから、下りもかなり時間がかかった。北沢峠に着いたのが2時過ぎで、しばらくすると甲斐駒まで行ってきたSさんも戻ってきた。いやいやすごい。
・とはいえ、甲斐駒まで行けなくて残念とは全然思わなかった。山を征服するという気はさらさらないから、景色や植物、あるいは石や地層などが楽しめれば、途中までで十分。そう思うと、今度は北岳に行きたくなった。Sさんは赤石岳もいいという。日頃の鍛錬をしなければ………。

2007年8月20日月曜日

BSと地デジ

 

・NHKBSのアナログ・ハイビジョンが9月末で終了する。独自開発もデジタルに負けてとうとう消滅というわけだ。デジタル・チューナーがあるから不都合はないが、アナログの画面の良さを感じていたから、ちょっと残念だ。ぼくは、デジタルののっぺりした画面は好きではない。ハイビジョンでもアナログは、近づいて見ると細かな画素の集合であることがよくわかる。ディジタルはその情報を省略するから、一見きれいに見えても、深みがない。両方を見比べていると、そのちがいがよくわかる。だから、液晶大画面のテレビなどは、できれば買いたくないものだと思っている。
・現在見ているハイビジョン・テレビを買ったのは98年だ。もう10年近くなるが、その時の印象をこの欄でも書いている。NHKと民放が共同で実験放送をやっていて、まだまだ手探りの番組づくりの段階だったことがよくわかる。BSのデジタル放送が始まった 2001年にBSチューナーを買った。各民放が放送を開始したからだ。山間部の難視聴地域にあるわが家では、地上波はざらざらで色なしといった画面で、見るものがあまりなかった。この欄には、その時の様子も残されている。
・BS放送については、それ以降も何度か取り上げているが、放送内容もずいぶん充実してきているし、地上波の番組も放送しているので、最近では地上波は民放のニュースぐらいしか見なくなった。どうせバラエティ番組ばかりで何の不満もなかったのだが、肝心のBSチューナーが壊れてしまった。で、仕方ないから電気屋に行くと、地デジとBS、そしてCSも見られるものがあった。というよりは、それしかなかったといった方が正確だろう。

・デジタル化は地上波でも進んでいて、4年後の2011年にはアナログ放送が廃止されるようだ。大画面の液晶テレビが一般的になってきたが、普及は予想ほどではないらしい。古いテレビでもチューナーを買えば見ることができるとか、そのチューナーを格安で売るような行政指導があったとか、いろいろ話題になっている。地デジはもちろん、ケイタイでもカーナビでも見ることができるから、地上波がますます身近なものになるのかもしれない。
・ところが、わが家はやっぱり地デジでも視聴できない地域ということになっている。いずれにしてもアンテナをつけ替える必要があるし、CS も今のBSアンテナではダメなようで、用のないものが多いとは思ったが、BSが見られなければ不便なので、チューナーを買いかえることにした。
・例によってテレビやビデオとの接続は煩雑で、反応がない、音しかでないといったことがあって、イライラしながらあれこれつなぎ直して、やっと見ることができると、CSもちゃんと見える。へエーと思ったが、ほとんどが有料で、しかも特に見たいものはない。MTVは昔ほどおもしろくないし、 MLBを全中継といったって、野茂がいなければ、どうしても見なければということもない。映画はWowowでさえ、最近は何日も見なかったりもする。

・NHKは受信料の不払いや、チャンネル数の削減要請などがあって、BS放送にかなりの力を入れている。実際、わが家ではほとんどの時間、NHKBSに繋がっている。ここのところは、見逃した番組の再放送が多いし、意欲的な番組も目につく。
・たとえば小田実の追悼番組として、彼がベルリンを訪れた『世界・わが心の旅「ベルリン 生と死の推積」』。先週のコラムにも書いたように、『何でも見てやろう』を読みなおしていたので、いっそう興味深く見た。ナチの収容所ではベルリン陥落の直前まで処刑がおこなわれ、しかも、処刑をするとその家族に処刑費の請求が行われていたそうだ。唖然とする話で、彼はそのことを涙ぐみながら話した。
The Chieftansのコンサートで紹介した"Santiago"をなぞるような番組もあった。毎回楽しみに見ている「世界ふれあい街歩き」が地中海に近いフランスのモンペリエ、ピレネー山脈の東にあるトゥールーズ、スペイン北部の古都レオン、そしてサンティアーゴと続けて放送した。数百キロから千キロを超える道のりを歩いて、ヨーロッパ中からさまざまな人びとがやってくる。出会った人たちの話を聞いていると、宗教的というよりは、じぶんを見つめ直す旅という意味合いが強かった。
・旅番組を見ていると、たまらなく、じぶんも出かけたくなる。しかし、次はどこに行こうかでは夢中になれても、いつ?になると困ってしまう。2週間ほどの休みがとれるのは夏休み以外には難しいし、夏休みは飛行機もホテルも高すぎるからだ。

2007年8月13日月曜日

追悼!小田実

 

『何でも見てやろう』講談社文庫

oda1.jpg・小田実が死んだ。ぼくは彼を個人的に知っているわけではないが、その報に接して思いだすことがいろいろあった。彼はベトナム戦争に異議申し立てをした「ベ平連」のリーダーで作家だが、ぼくにとっては、まず、『何でも見てやろう』との出会いが強烈だった。読んだのは高校生の時だったと思う。もう40年も前の話だ。
・世界中を貧乏旅行をして回る若者たちは、今ではさほど珍しい存在ではない。そのためのガイドブックや旅行記がいくつも出ているし、ネットという情報ルートもある。けれども、ぼくが『何でも見てやろう』を読んだ時代には、外国へ行くこと自体が特別の出来事だった。しかも、ぼくが読んだのは、この本が書かれてから10年近くたった時だったから、出版時の衝撃は、もっと強いものだっただろうと思う。当然、ベストセラーになった。

・彼が死んだことを聞いて、その『何でも見てやろう』をあらためて読みなおしてみた。その行動力やタフネスさには今さらながらに驚くが、一人の若者の目を通して眺められ、体験された第2次大戦後10年ほどたった世界の状況がきわめて新鮮なものとして感じられた。
・アメリカの50年代は戦後の好景気に沸き、豊かな暮らしが大衆レベルにまで行き渡るようになった時代である。ぼくはそのことをD.ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』で認識したが、同様の様子が、日本人の目を通して見えてくることに興味を覚えた。彼がとまどい、考えるのは、たとえば黒人の公民権運動そのものよりも、それに対する日本人の立場の曖昧さといった点だ。つまり日本人は、白か黒かにはっきりと区別されたトイレやホテルやレストランのどちらにはいるのか迷ってしまったということだ。しかし、彼はその二重性を逆手にとって、旅をいっそう豊かなものにもしている。白人が行けない場所に行き、また、黒人が行けない場所にも行く。小田が経験したアメリカ社会は、肌の色ではっきりと区別された二つの世界を自由に往還することによって、きわめてユニークなものになっている。
・同様のことは、ニューヨークのグリニッジヴィレッジで出会うビート族にもいえる。50年代はアメリカ人の多くがおなじような家に住み、おなじようなしごとをし、おなじようなものを食べ、おなじような遊びをするようになった時代だが、ビート族はその「画一主義」を拒絶して、貧乏生活に興じて、自前の快楽を模索した。小田は、ビート族の若者と大勢知り合いになる。しかし、彼はそのような行動に共感よりは違和感をもち、彼や彼女らを「さびしい逃亡者」といい、「甘えん坊のトッチャン小僧」と批判する。日本人である彼にとってはアメリカの豊かさは、反感よりは驚きであり、憧れのようにも感じられたからである。
・フルブライト留学生として渡米した小田は帰国の際にヨーロッパからアジアを貧乏旅行している。その各国の様子も、今とはずいぶん違っていておもしろい。しかも、徹底した貧乏旅行だから、どこに行っても、その最底辺の生活を覗いているし、インテリだから、中流の知識人とも沢山出会っている。

・ぼくは浪人中に代ゼミで小田実の授業を受けている。とはいえ、彼が出てくることはめったになく、いつも旅行中で、小中陽太郎が代講していた。たまに授業があるとベトナムの話で、ぼくは受験勉強そっちのけで彼の『義務としての旅』などを読み、そのほか、政治や思想や哲学の本を読むようになった。
・小田実は、その後も精力的に行動し、本を書いたけれども、ぼくは『世直しの倫理と論理』以外には読んでいない。そういう意味では、彼の考えや行動にそれほど強い影響を受けたとはいえないかもしれない。けれども、『何でも見てやろう』を読みなおすと、そこには、ぼくが今でもかわらずに持ちつづけている関心が随所にちりばめられていて、ぼくの出発点にいた重要な人物の一人であったことが、あらためて実感される。もちろん、今、若い人たちが読んでも、十分に新鮮で教えられることが多い本だと思う。