2021年2月22日月曜日

富士山がやっと白くなった

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photo90-2.jpg・この冬の富士山の雪は、いつになく少なかった。11月になってもほとんど白くはない、いつもと違う様子で、噴火の前触れで暖かくなって溶けてしまっているのでは、といった話がネットでも飛び交っていた。しかし、この秋はそもそも雨の日が少なくて、少し積もってもすぐ風で吹き飛ばされてしまったのである。積もった雪は西から東に飛ばされて、宝永山周辺に吹きだまるのだが、暖かかったから、その雪もすぐに溶けてしまっていた。だから、新幹線から見える富士に雪がないことが、話題になったりしたのである。

・1月、2月と何度か雪が降ったので、富士山一周のドライブに出かけた。近場しか出かけてなかったから、久しぶりの遠出だった。水が塚公園の駐車場から見る富士山は、下のように雪化粧していたが、例年に比べればやっぱり少なかった。週末だったから歩きに来た人もいて、僕等も少しだけ歩いた。雪の多い年は、そもそも道路が通行止めになっていただろうと思う。ぐるりと廻っておよそ100km、一度自転車でやりたいと思っているコースでもある。

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・ところでその時の山梨県側はというと、下のような様子で、真冬なのに農鳥が出ていた。風に吹き飛ばされた雪が宝永山に吹きだまっているのがよくわかった。で、その後久しぶりの雨になったのだが、その直前には、富士山に笠雲がかかった。この時期なら当然、我が家の周辺でも雪になるはずなのに、土砂降りの雨。しかしさすがに富士山にはたっぷりの雪が降った。翌日、久しぶりに裏山に登って撮ったのが、上の一枚である。それを拡大すると下のようになった。ついでに、いつもと違うところを下山すると、まるでニシキヘビのような蔓を見つけた。とぐろを巻いて木を締め殺しにしている様子は、何ともすごい光景だった。

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2021年2月15日月曜日

原木探しと薪作り

forest173-1.jpg・相変わらず、原木が手に入らない。次の冬用の薪を作っておかなければ、薪ストーブなしで寒さをしのがなければならない。それでは困るからと、付近の倒木探しを始めた。ほんとうは持ち主に断る必要があるのだろうが、持ち主が誰かはわからない。荒れ放題で、手を入れたことなどないから、いいだろうと思って、まだ腐食していない倒木をチェーンソーで切って、庭に運び込んで薪にした。道に置いた一輪車までは、転がしたり引っぱったり担いだりして動かさなければならない。それを一輪車に積んで運ぶのだが、一筋縄ではいかない重労働で、山歩きや自転車よりはるかにきつかった。

forest173-3.jpg・がんばったな、と思ったが、薪にして積むとほんのわずかで、これでは半月分にもならないという程度だった。そこで、少し腐食の始まったものや、松や檜なども集め始めた。しかしまだまだとても足りない。それならと、数年前から葉や花が少なくなって気になっていた、道から家への通路にある桜の木を2本伐採することにした。隣家に当たらないよう倒すにはどうしたらいいか。近くの木とロープで繋げ、倒す方向の部分を半分ほど切り、隙間を作って、反対側を切る。下手をするとチェーンソーが挟まって取れなくなってしまったり、思わぬ方向に倒れてしまったりしかねない。何度も確認しながら切って、幸い、狙い通りに倒れてくれて一安心。それにしても、木の存在感の薄さに改めてびっくりしてしまった。長年見慣れてきたはずの木なのに、なくなっても何の違和感もない。残っているのは切り株だけ。ログハウスができたときに前の持ち主が植えたものだから、樹齢30年といったところだった。さて新しい苗木を植えようかと思うが何にしようか。

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forest173-5.jpg・ここまでやって何とか南側の壁が埋まった。しかしこれでもまだ半分にもならない。原木が調達できましたという連絡を首を長くして待っているが、そんな電話は全くない。薪が調達できなければ、本業のストーブも売れないだろうから、困っているだろうなと思う。長年商売をしてきているのだから、何とかして欲しいのだが、催促の電話は我慢して控えている。無いものは無いのだから、仕方がないのである。
・こんなふうにして、正月以降、ほとんど毎日、木こり仕事に精出している。暮れから正月にかけては何度か寒波が来て寒い日があったが、温暖化傾向は今年も続いていて、昼間10度を超える日も少なくない。去年までは出かける時以外は薪ストーブを絶やさなかったが、今年はできるだけ昼間は燃やすのをやめて、薪の節約に努めている。来冬用に少しでも残しておきたいからだ。

2021年2月8日月曜日

改めて、CMについて思うこと

とにかくCMは邪魔だ、とずっと思ってきた。だから民放は見る気がしなかったが、番組自体がどうしようもなくつまらないから、夕飯時のニュースぐらいしか見なくなった。と言ってもNHKだって地上波は、見たいものがほとんどない。だからBSで興味を引くものがなければ、テレビはほとんど見なくなった。その代わりに見ているのはネットでやるテレビ番組やYouTubeだが、途中で挟まるCMが何ともうっとうしい。

CMとはコマーシャル(commercial)の略だが、これは形容詞で後にメッセージ(commercial message)をつけるのが本来の名称だ。ただし、このことば自体が和製英語で、欧米ではアドバタイジングが普通だと指摘する辞書もある。いずれにしても「視聴するならCMを見ろ!」という形式が、現在では当たり前のものになっている。放送を広告収入で成立させるというやり方はラジオから始まっていて、既に百年の歴史がある。利用者を特定して利用料を徴収できる有線の電話と、広告収入を財源にして不特定多数に一方的に放送するラジオに分けて発展した。

CMは売りたい商品を視聴者に知らせ、欲しいと思わせるために作られ、流されている。注目されれば、商品自体もヒットするから、企業にとっては有力な宣伝手段であることは間違いない。有名人や人気タレントを使い、有能なコピーライターによって作られたCMには、記憶に残るものも少なくない。何よりそこに費やされる製作費が番組自体より高額だったりもしたのだ。しかし最近では、そんなCMも少なくなったようだ。

とは言え、基本的には、番組自体を中断させる邪魔な存在であることに変わりはない。だからCMの度にチャンネルを変えたり音声を消したりする。そんな扱いを受けても、高額なお金を払ってCMを流す意味があるのだろうかと思う。その際たるものはマラソンや駅伝の中継で、レースを寸断するたびに、「そんなもの買うか!」とつぶやきたくなってしまう。そう言えば、年齢層の高いBS番組では健康食品や健康器具などのCMがやたらに多い。「大きなお世話!」「嘘をつけ!」などと言いながら、チャンネルを代えることが多いが、つられて買ってしまう人がどれほどいるのかと思う。

YouTubeでは、内容の流れに関係なく、突然CMが入ってくる。数秒後にCMをスキップできるが、これも何とも邪魔なものだ。音楽が途中で寸断されたりもするから腹も立つが、お金を払ってCMなしにしようとも思わない。Googleをこれ以上儲けさせたくないと思うからだ。もっとも、ユーチューバ-が得る収入もCMからだから、面白いもの、がんばっているものにそれなりの報酬が払われるのは悪いことではないとも思う。

ユーチューバ-には年収が億単位になる人もいるようだ。再生回数に応じて払われていて、一再生当たり0.1円とすると、10万円稼ぐのには100万回の再生が必要になることになる。なかなか大変だと思う。しかし、たとえば僕がよく見ている、カナダのオンタリア州の森にほとんど一人でログハウスなどを建てている人は、200万人以上の登録者がいて、ほぼ毎日アップロードされるものが数十万回再生されている。オリジナルの衣服や道具やアクセサリーなども売っているから、森の暮らし自体がビジネスになっているのである。

こういう例はほかにもたくさんある。しかし、それに比べて政治や経済などについて発言するチャンネルに人を集めるのは、なかなか難しいのが現状だ。たとえば「デモクラシータイムズ」は、独自の放送をしている「デモクラTV」から分離して、YouTubeで活動しているチャンネルで、発言者の数も、アップロード数も多いが、登録者は7万人ほどで再生回数も数万回といったところだ。番組中にCMが入らないから、そういう契約なのだろうと思う。その代わりに会費や課金ではなく、カンパを求めている。忖度ばかりで腰抜けの大手メディアに対抗できる場になって欲しいから、こういうチャンネルこそは支えたいと思う。


2021年2月1日月曜日

感染より世間が怖い

 年々減り続けていた自殺者数が、昨年は増加に転じました。今までは比較的少なかった若い女性の数が増えているのが、大きな特徴のようです。原因はやはりコロナ禍で、もともと女性はパートなどの低賃金で働く割合が多かったのに、仕事を減らされたり首を切られたりして困窮してしまっているのです。東京新聞によれば、全国では推計で90万人がそんな状況にあるようです。

「自助・共助・公助」を相変わらず言い続けている首相は、そう言った休業補償のない人たちへの援助については「生活保護」があるからそれを使えと言いました。しかし、この制度を使うのには、大きな壁があるようです。まず、自力で生活してきた人には、コロナ禍がなければ縁のない制度だったという点です。次に申請をすれば、親族に対して援助ができるかどうかを確認する「扶養照会」が送られることにあります。

「生活保護」を受けること自体が自尊心を傷つける要因になるでしょうし、親や子どもに知られたのでは、その気持ちはますます大きくなってしまいます。それなら死んだほうがましと考えたとしても、不思議ではない気がします。要するに「生活保護」は 生活できなければ国が恵んでやるから、そのつもりで申し出ろという態度の制度なのです。

コロナ禍での特別支援を渋る国は、自殺まで考え、実行してしまう人が急増していることに、何の責任も感じていないかのようです。生活が困窮した時に国や自治体の支援を受けるのは、憲法に定められた国民が人間として生きるための権利です。しかし恥を忍んでお恵みを頂戴するという仕組みになっていることを、政治家はもちろん、世間一般にも常識化されてしまっている気がします。

コロナ禍で感じる不安について朝日新聞が行った調査では、「感染したら、健康不安より近所や職場など世間の目の方が心配」と答えた人が7割近くあったという記事がありました。感染したら後ろ指を指される、ネットに晒され自警団にひどい目に遭う。そんな恐怖の方が、感染して苦しむよりも辛いというのです。感染者は日ごろの行動が悪いせい、ウィルスをまき散らす迷惑な奴。そんな意識の蔓延が「世間」という形でのさばっているのです。

政府は感染者の入院拒否に罰金と懲役を科す法律を提案しました。国会で懲役の部分は削除されましたが、ひどい政権だとつくづく思いました。施行されたら、積極的にPCR 検査を受けようと思う人は少なくなるでしょう。そもそも、陽性だと判定されても、多くの人は入院できずに、自宅で療養するしかないのです。

自宅や施設、あるいは路上で容体が悪化して死んだ人が12月以降急増しています。その半数以上は、死後に陽性であることがわかった人たちでした。自覚症状があってもなかなか検査が受けられないことが未だにあるようです。けれども、感染していることを恐れて検査を受けようとしない人が増えているとしたら、コロナ禍は、それこそ「世間」の中に沈み込んで、やがて大爆発ということにもなりかねないのです。

2021年1月25日月曜日

露骨な情報操作

 YouTubeで知人の講演会を見つけた。天笠啓祐さんの「感染症利権と新型コロナワクチンの危険性」である。彼は環境問題などを中心に活動するフリーのジャーナリストだが、もう半世紀近く前に『技術と人間』という雑誌の編集者をしていて、僕はその雑誌で「ミニコミ時評」を担当していた。その時評を1981年に『生きるためのメディア図鑑』としてまとめたが、時評をやめた後は年賀状のやり取りぐらいのつきあいしかなかった。ただし、彼は反原発や遺伝子組み換えの危険性を訴えて多数の本を出していて、気になる人ではあった。

この講演は2時間にもなるもので、多くの問題が指摘されているが、そこで目から鱗と感じたのは、新型コロナワクチンが遺伝子操作によって作られたものであるから、それを身体に注入すれば、体内で遺伝子組み換えが行われてしまうという指摘だった。遺伝子組み換えの食品は危険性があるから食べないよう気をつけているが、ワクチンを注入したら、自分自身の遺伝子が組み換えられてしまう。それを聞いたら、もう絶対ワクチンは拒否しよう。そんな気になった。

もっとも人間の遺伝子の4割がウィルス由来だとする指摘もある。だから新コロナの遺伝子を入れてもいいではないかという意見もあるだろう。しかし、自然に感染するのと人工的に行うのとでは、やっぱり違うだろうと思う。そもそも、この講演を見るまでは、そんな問題は全く指摘されていなかった。アメリカとは違って日本では、遺伝子組み換え食品に対してはかなり敏感に反応してきたのに、コロナのワクチンには無反応というのは、一体どうしてなのだろうか。感染を防ぐことを第一に考えて、国やメディアが情報操作をしているのではと疑いたくなった。

東京オリンピックがいよいよ中止という方向に動きはじめた。菅首相は方針演説で相変わらず、コロナに打ち勝った証として開催するといったことを寝言のように繰り返しているが、面と向かって批判するメディアは現れなかった。世論調査で8割が中止や延期と言っているにもかかわらずである。それが海外のメディアが中止と言いはじめてやっと、話題にしはじめた。そもそも、協賛すれば批判しにくくなるのはわかっていたはずなのに、新聞やテレビのメディアはなぜ、こぞってオリンピックの協賛団体になったのか。その理由が、利権や横並び、あるいは忖度であるのは明らかだろう。

首相や官房長官などの記者会見の質問が、一人一問に制限されている。だからまともに答えなくても、追加の質問ができないから、突っ込んだやり取りがまるでない。そもそも質問は事前に伝えることになっているから、どう答えるかはわかっている。政治家と記者が共謀して下手な芝居をしているのである。そんなふうにして隠された情報がどれだけあるのか。時折週刊誌が暴露記事を書くが、多くの新聞が無視をし、検察も動かないから、いつの間にかうやむやになってしまう。

世の中で起きていることのなかで、ニュースにならないものが一体どれほどあるのか。もちろん、うさんくさいものが一杯だが、ネットで大事なものをキャッチすることをますます必要に感じている。

2021年1月18日月曜日

斉藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)他

 「人新世」は「じんしんせい」と読む。"Anthropocene"の訳で、地球に人類が登場し、地質や生態系、そして大気などに影響を及ぼし始めた以後の時代の呼び名である。古くは農耕革命以降をさすが、産業革命以後や、20世紀の後半以降をさす場合もある。地球環境の劇的変動は20世紀後半以後のことだから、ここに注目して取りざたされることが多いことばであるようだ。

saito1.jpg 『人新世の「資本論」』は、この20世紀の後半から深刻になりはじめた環境問題、とりわけ二酸化炭素による温暖化を食い止める策として、資本主義そのものを捨てることを主張し、その理論的根拠としてマルクスの資本論を読み直したものである。著者の斉藤幸平はまだ若い研究者だが、一読して、優れた人がでてきたものだと感心した。

資本主義はイギリスにおける「囲い込み運動」に端を発し、産業革命によって本格化した経済の仕組みである。つまり、羊を飼う農場を作るために地主に追い出された小作農が、都市に移り住んで工場などの労働者になったところから出発したものである。そこには本質的に、労働力を安価なものにすることで、資本を蓄積するという仕組みがあった。マルクスの資本論は、その資本家による労働者からの搾取を批判し、労働者の抵抗や運動のバイブルになった。ソ連や中国などのマルクス主義に基づく国が生まれたし、労働者の権利や福祉を重視する国もできた。

20世紀の後半は、先進国では貧富の格差が縮まることを政策的な目標にして、経済的、物質的な豊かさと福祉制度が行き渡ることをめざした。しかし、国家の財政がうまくいかなくなり、グローバリズムや新自由主義的な考えが幅を利かすようになると、資本主義は、一部の資本家を際限なく豊かにし、莫大な数の貧民を作るようになった。また大量のモノの生産と廃棄、資源の浪費、人やモノの移動、海や大気の汚染、そして排出されたCO2がもたらす温暖化等々ももたらした。このままではそう遠くない未来に、地球は人間をはじめ、生物が生きにくい世界になることが明らかになった。この本で説かれる現状分析は、決して新しいものではないが、うまく整理されていて説得力がある。

斉藤は、この危機を乗り越える方策は、マルクスに帰って資本主義を捨てることしかないと言う。資本主義は本質的に人を強欲にして、資本を独り占めにさせようとするものだから、いくら成長しても、すべての人が豊かで幸福な人生を過ごすことなどできないシステムである。21世紀になって、その本性が露骨に現れてきた。しかも、成長し続けなけれ生き残れない資本主義には、地球環境の危機を乗り越える術も、姿勢もないのである。著者が主張するこの危機を乗り越えるための方策は、「コモン」から新しい「コミュニズム」へという道である。

saito2.jpg 『未来への大分岐』は、著者と考えを共有する人たち三人との対談をまとめたものである。アントニオ・ネグリとの共著『帝国』(以文社)で知られるマイケル・ハートは、社会的富を民主的に共有して管理する「コモン」から出発して新しい「コミュニズム」に至る道を提唱する。『なぜ世界は存在しないのか』(講談社)の著者であるマルクス・ガブリエルは、「ポスト真実」や「フェイク」で混乱する世界に「新実在論」を掲げて注目されている哲学者である。そしてポール・メイソンは、『ポストキャピタリズム』(東洋経済新報社)で、デジタル技術が資本主義を凋落させて、より自由で平等な社会をもたらす可能性がある反面、デジタル封建主義を作り出す危険性を指摘する。

この本を読むと、現在が未来に作り出される世界の分岐点にいることがよくわかる。そこでさまざまな可能性に触れ、そこに向かう動きが既に起きていることも指摘されている。ちょっと安心したくなる気にもなるが、しかし、そうなるにはまた、大きな障害が無数に存在していることにも気づいてしまう。マルクスの有名な「大洪水よ、我が亡き後に来たれ」は、現在の「今だけ、金だけ、自分だけ」という風潮を予見するものだが、また人間の本質に根ざした変わらない特徴のようにも思われる。だからこその「脱資本主義」だが、一体どこから、どんなふうにして、その動きが起こるのだろうか。何より日本では、他の先進国で若者たちを中心に動きはじめた格差や人種差別や温暖化などについて、あまりに無関心すぎるのである。

2021年1月11日月曜日

Jackson Browne, "Downhill from Everywhere"

 それにしても、興味のある新しいCDが見つからない。何度も書いているが、新しいミュージシャンを見つけるアンテナがないせいである。だからどうしても、おなじみの人たちのニュー・アルバムを探すことになるが、それも極めて少ないのだ。当然、このコラムを書く材料探しに苦労している。もちろん、コロナ禍のせいでもあるだろう。実際にジョン・プラインが亡くなっているし、感染したミュージシャンもいる。僕と同世代以上の人たちは高齢者だから、今は家に閉じこもって密かにしているのだろうか。だとすると、コロナ禍がおさまったら、ニュー・アルバムの続出が期待できるのかもしれない。いずれにしても、亡くなったりしないようにと願うばかりである。

jacksonbrowne2.jpg で、探していたらジャクソン・ブラウンの新しいCDを見つけた。しかし、アルバムだと勝手に思い込んで注文したら、たった2曲のシングル盤だった。それにしては高いな、と思ったが、これしかないから紹介することにした。リリースされたのは4月で、その時に彼自身がコロナに感染したことも明らかにした。予定では10月に出すアルバムの先行トラックだったようだが、新しいアルバムはまだ出ていない。なぜ2曲だけ先行したかについて、「ローリングストーン誌」で、「コロナ禍で先行きが不透明で見通しが立たない今だからこそ、公開したのだ」と言っている。

"Downhill from Everywhere"は海に流れ込む、プラスチックその他の人間が捨てたゴミを歌ったものである。ゴミは学校から、病院から、ショッピングモールから等々、あらゆるところから流れ下る。歌詞の大半はその「~から」を列挙したものになっている。引力に従って行き着く先である海を、私たちはどこまで自分のこととして考えているのだろうか。私たちが生きていくのに、海がいかに大切かということを。プラスチックは海に流れ下ることで細かく粉砕される。それを魚が食べて、また人間に返ってくる。この歌はドキュメンタリーの"The Story of Plastic"でも使われている。

もう一曲の"A Little Soon To Say"は、今の状況に対する自分の戸惑いを歌っている。地平線の向こうが見えない、明かりに照らされた道の向こうが見たいんだけど、とつぶやき、すぐに決断しなければならないのに、情報があまりに少なすぎる、とつづく。今の病を乗り越える道を照らしたいし、できると思いたいが、そう言うにはまだ早すぎる。

ジャクソン・ブラウン自身が感染したコロナ禍は、この曲が発表された後も猛威を振るっていて、なおこれからも拡大し続けるだろう。アメリカではトランプ大統領が敗北したが、分断の大きさはますます深刻なものになっている。そのことを憂い、悩み、希望を見つけ出したいと考える。そんな彼の姿勢は極めて明快だ。新しいアルバムが楽しみだが、リリースはいつになるのだろうか。

このコラムではボブ・ディラン、ブルース・スプリング・スティーンと続けて取り上げてきた。ジャケットの顔写真を見る限り、もうすっかり老け込んで、じいさんになったなと思う。けれども、歌っている姿勢や、そこに込められたメッセージには、若い頃から一貫した態度と、確かな視線がある。僕ももちろん、彼ら同様に老け込んで、ジジイになっているが、心の老け込みはしないよう、心がけたいと思っている。