1997年7月8日火曜日

Neil Young "Broken Arrow""Dead Man"

 

・ニール・ヤングが元気だ。昨年イギリスでやったライブを Wowowで見たが、少し禿げて腹が出たとはいえ、帰依状態になるようなエネルギッシュなパフォーマンスは相変わらずという印象だった。そしてCDも次々と出している。70年代のはじめの"After the Goldrush"や"Harvest"から、ぼくは彼のファンだが、大柄な体格とは裏腹の繊細な心の持ち主で、いつ消えていなくなっても不思議でないという感じを持ち続けてきた。それが30年近く過ぎても健在で、すでに30枚を越えるアルバムを出している。ディランの30周年記念のコンサートでは、ディラン以上にはりきっていたし、MTVの"Unplugged"もすごくよかった。

友だち(a friend of mine)のことについて話そう
金鉱(gold mine)について話そう
ぼくの中の(inside me)敵について話そう
君とぼく(you and me)のことを話そう
今でもぼくは夢の中で暮らしていて、それはまだ終わっていない
Big Time in "Broken Arrow"(1996)


・"Dead Man"はジム・ジャームシュの同名の映画のサントラ盤である。長年のヤング・ファンだったジム・ジャームシュは"Dead Man"の脚本を書いているときも、ニール・ヤングを聴き続けていたそうだ。映画の音楽をヤングに任せたいと思っていたらしい。だから、映画のカットを見てヤングが引き受けたときには有頂天になった。CDのライナーノートにはそんな風に書かれている。
・ぼくはまだこの映画を見ていない。ジムはこれが「若者の旅、肉体的、精神的になじみのない世界に入り込む物語だ」と言っている。19世紀後半の開拓期アメリカ西部。ある若い白人とネイティブ・アメリカンたちとの出会い。そんな話のようだ。そういえば、"broken Arrow"もジャケットにはテントがモノクロの絵として描かれている。何か関係があるのかもしれないが、CDを聴いている限りではよくわからない。(1997.07.08)

1997年7月5日土曜日

リービング・ラスベガス』マイク・フィッギス(監)ニコラス・ケイジ(主)

  • アル中で会社を首になった男がいる。なぜそうなったのかはわからない。とにかく、彼にはアルコールをやめる気などさらさらない。もらった退職金でラスベガスに。死ぬまで飲み続ける気なのだ。ラスベガスのメイン・ストリートを酔っぱらい運転していて、若い女をひきそうになる。「赤信号は止まるのよ!」と文句を言われた返答に、「ぼくのモーテルに来ないか」と誘う。
  • 彼女はラトビアからアメリカに来た。男と一緒だった。で、ラスベガスでヒモつきの娼婦になった。泥酔した男はセックスはいいから話をしようと言う。「毎日200ドル払うから、金がなくなるまで来てくれ」と頼む。けれども、女は次の日、現れなかった。ひかれる自分に気づいたから、女は男を避けたのである。
  • 男は女をさがしだす。食事をし、もちろん酒もしこたま飲む。モーテルへ誘うと、女が「私の家に来ない?」と言う。ヒモは何かの理由で殺されたようだった。そこから二人の共同生活が始まる。女は男のアルコールづけを責めないし、男ももちろん女が娼婦であることを気にしない。ほしいのは、二人でいることでたがいの心が癒される、その時間だけである。
  • けれども、お互いの距離が近くなれば、それぞれかけがえのない存在になっていく。アルコールをやめさせるために医者に行かせたいと思うようになった女と、夜になると客を捜しに行くのをとめたい男。互いの現実を認めるところから始まった関係は、そのままでは先が開けない。けれども、現実を変えようとすれば、そもそもの出会いの意味が失われてしまうし、互いに相手を束縛することにもなってしまう。ある夜彼女が帰ると、部屋で男と娼婦がいちゃついていた。で、男は彼女の家を出る。
  • 少年たちに殴られ、輪姦され、家の大家からも出ていくように言われた女は、たまらなく会いたくなって、男をさがす。しかし、居場所は分からない。そのままでいいから、死ぬまで一緒にいたい。そう願う女のところに電話がかかってくる。安宿でベッドから起きあがることすらできなくなっている男からだった。ほとんど声も出ないが、それでも、酒だけは飲んでいる。女は男のところへ急いだ。寝てる男はシーツを払いのけようとする。ペニスを立たせてくれと言うのだ。女は男の上に馬乗りになる。はじめてのセックス。で、その晩、男が死んだ。
  • 何とも切ない映画だ。救いも何もない地獄にような世界といってもいい。けれども、そんな関係のなかに、ある種のあこがれを感じさせる何かがある。絶対そんなことはできない、やってはいけないし、やりたくもない。そんなふうに思えば思うほど、心の片隅にはっきり姿を現してくる得体の知れない破滅への衝動。
  • 1997年7月1日火曜日

    ガンバレ野茂!!


    ・三年目の野茂がもたついている。6月29日の試合に負けて7勝7敗、オールスター出場は今年もダメなようだ。話題も伊良部に集まっていて、新聞やテレビ゙のスポーツ・ニュースに取り上げられるのも地味になった。「どうした?」などと書かれることもない。何となく寂しい感じがしているが、本人にはかえって気楽になれるいい機会なのかもしれない。

    ・実は、ぼくは野茂がアメリカに行くと言ったときから、かなり強い関心を持ち続けている。できるかぎり生中継を見ているし、それがダメなら、再放送、ドジャーズのホームページには必ずアクセスしているし、ニフティのSNPBASE(スポニチ)から毎日の大リーグ情報も入手している。小学生からのスワローズ・ファンだが、日本のプロ野球にはほとんど関心がなくなってしまった。独走のせいもあるが、マスコミの清原イジメや阪神ファンの相変わらずのとらぬタヌキにはもううんざりといった思いなのだ。

    ・で、野茂の話だが、実は今年は特に調子が悪いというわけではない。去年も同じ時点では8勝7敗だった。もちろん野茂の防御率は年々落ちていて、三振の数もハデにとることが少なくなった。フォーク・ボールをむりやり強振しなくなって、じっくりボールを見極めるバッターが増えてきた。四球がからんで早い回から点を取られてしまう試合も少なくない。しかし、ダメなのはドジャーズ打線のふがいなさにある。とにかく先行する試合が少ないのだ。それがプレッシャーになって、のびのび投げられない。そんな感じがする。他の先発ピッチャーが好投しながら勝てないのに腹を立てて、野手陣、フロントとの間がギクシャクしているといったニュースがSNPBASEにはよく報じられている。ラソーダとラッセルの監督手腕の差なのかもしれない。

    ・ギクシャクした関係といえば伊良部と日本からの報道陣の間も相当のようだ。殴りかかったとか、ボールをぶつけるまねをしたとか、鼻クソを投げたと話題は尽きない(これもSNPBASE)。記者の方も相当カリカリして記事を書いている。対照的に長谷川にはきわめて好意的だ。インタビューでも、信じられないくらい流ちょうな英語で受け答えをしている。

    ・野茂の相変わらずのぶっきらぼうさをふくめて三人三様で、それはそれでおもしろいと思う。野茂はトンネルズのインタビューなどにはちょっと冗談もいれてキサクに話をする。たぶん伊良部だって相手次第ではもっと素直になれるに違いない。野茂にも伊良部にも日本の報道陣は大リーグへの道をふさぐ存在として立ちはだかった。で活躍し出すとやたらハデに持ち上げる。たぶん野茂はそんな姿勢にしらけているのだ。伊良部もちょっと大人げないところがあるが、反省すべきはまず、報道陣のほうだと思う。

    ・スポーツは最高のレベルでは、当然世界を相手にする。しかし、オリンピックで金メダルいくつといったことを除けば、日本人には、そのような意識はこれまで希薄だった。それが野茂や伊達(テニス)や岡本(ゴルフ)といったプロ・スポーツの世界で自覚されはじめている。ワールド・カップへの出場が果たせなければサッカーのJリーグの成功もない。そして、そんな意識から一番ずれているのが、日本のプロ野球と、それを支え、そこに寄生するスポーツ・ジャーナリズムなのだ。日本のプロ野球なんてマイナー・リーグの一つになってしまえばいい。そんな気がする。

    1997年6月23日月曜日

    『ブルー・イン・ザ・フェイス』 ポール・オースター、ウェイン・ウォン


  • ニューヨークのブルックリンにあるタバコ屋。雇われマスターとタバコ屋にたむろする常連客。この映画は『スモーク』の続編、というか番外編である。舞台は二つの映画ともまったく同じで、主演もともにハーベイ・カイテルである。
  • 『スモーク』はP.オースターがシナリオを書き、ウェイン・ウォンが監督をした。テーマは「嘘」というか「フィクション」。それがかろうじて人びとの現実を支えさせている。カイテルが万引き少年の落とした財布を家に届ける。出てきた黒人の老女は「わかってたんだよ、おまえがクリスマスの日にエセル祖母ちゃんを忘れるわけないもの」といってカイテルを抱きしめる。彼女は目が見えない。彼はためらいながら、彼女を抱き抱える。で、ふたりでクリスマス・ディナー。
  • ぼくはこの映画を見る前にシナリオの方を先に読んでいた。で次のようなやりとりが気にいっていた。「物質世界なんて幻影だよ。ものがそこにあるかどうかなんて問題ないさ。世界はおれの頭の中にあるんだよ。」「だけど肉体は世界の中にあるだろうが。(間)誰かが泊めてやるって言ったら、君、かならずしも拒まんだろう?」「(間。考える)そんなことしてくれる他人なんかいないよ。ここはニューヨークだぜ。」
  • 残念ながら映画にはこのセリフがなかったが、映画を見た印象は、やっぱりこのセリフに象徴されるようなものだった。フィクションをかぶせなければ、とても現実を受け入れることなんかできないし、自分の存在を実感することもできない。そう、そんな風に感じるのは、ニューヨークに生きている人たちに限ることではないはずである。
  • 『ブルー・イン・ザ・フェイス』のアイデアはこの映画を撮っている最中に生まれた。参加した役者やミュージシャンたちと意気投合して、ほとんどアドリブで作ったようである。ルー・リードのニューヨークについての話。ジム・ジャーミシュがタバコ屋に最後のタバコを吸いに来るシーン。マドンナの歌って踊る電報配達人。マイケル・J.フォックスが店先で奇妙なアンケート調査をする。「トイレでしたあと、出たモノを見るか?」
  • こちらのテーマはたぶん、ニューヨーク、というよりはブルックリン礼賛だろう。嫌煙ムードが強まる一方のニューヨークでは、ブルックリンだけが、あるいはこのタバコ屋だけが気分良く吸える唯一の場所。しかし、そんなブルックリンを、ドジャースはとっくの昔に捨ててロサンジェルスに去った。今は黒人が半分でユダヤ人とプエルトリコ人がその残りを二等分している街。犯罪、街の老朽化、失業..............。ノスタルジアとしてのブルックリン、そしてタバコ。
  • ブルックリンに一番近いのは、大阪の下町かもしれない。そう、新世界のあたり。そういえば、ここでもホークスが難波を離れて、福岡のドームに本拠を移した。「ネイバーフッドの息づかい」。ぼくももうずいぶん長いこと忘れていた情感。それが映画の世界となって、説得力をもってよみがえってきた。もっとも、東京の郊外育ちのぼくには、そんな世界がノスタルジックに思えるはずはないのだが.........。
  • 1997年6月16日月曜日

    津野海太郎『本はどのように消えてゆくのか』(晶文社),中西秀彦『印刷はどこへ行くのか』(晶文社)

     

    ・ワープロからパソコンに乗り換えたのは、DTP(卓上印刷)が理由だった。ガリ切りから始まって新聞やチラシ、ミニコミを何種類も作ってきたぼくには、印刷を手作りするというのは、長年の念願だった。で、やっとスムーズに日本語が使えるようになったマックに飛びついたが、プリンタ、スキャナ、それにフォント(字体)などを買うと、お金が150万円を軽く超えた。もう9 年も前の話だ。現在のマックは5台目で、ポストスクリプトのレーザー・プリンターが自宅と研究室に一台づつ、学科の共同研究室にはカラーのレーザー・プリンターも入った。お金はもちろん、時間もエネルギーも、ずいぶんな浪費をしたが、おかげで今のぼくには、印刷屋さんに頼まなければならないことは何もない、とかなり自信をもって言えるようになった。

    ・津野海太郎は晶文社の編集長を長年やってきた。本作りのプロだが、一方でDTPを使ったミニコミ作りもしてきた。『小さなメディアの必要性』(晶文社)『歩く書物』(リブロポート)『本とコンピュータ』(晶文社)『コンピュータ文化の使い方』(思想の科学社)、そして『本はどのように消えてゆくのか』。彼が書いてきた本を読むと、文化としての本、つまり内容だけではなく、装丁や編集、印刷技術といったものに対する愛着心と、コンピュータを使った新しい印刷文化に対する好奇心が伝わってくる。まさに同感、というか、ほぼ同じ時期から、ほとんど同じことに関心を持ち、時間とエネルギーとお金を注いできたことに妙な親近感さえ感じてしまう。

    ・中西秀彦は京都の印刷屋さんの二代目である。そして、印刷業界のコンピュータ化に積極的に関わり、なおかつその印刷文化との関係を考え続けてきている。『印刷はどこへ行くのか』(晶文社)は前作『活字が消えた日』(晶文社)に続く、彼の2作目の本で、この二冊を読むと、印刷というか文字文化とコンピュータの間に折り合いをつけることの難しさにあらためて驚かされてしまう。

    ・先代、つまり彼の父親は、世界中の文字(活字)を集めることに熱中した人だった。だから1969年のカンボジア、タイ、香港からはじまって、死ぬ前年(1994年)のブルキナフォソ、ガンビアまで、文字(活字)を求めて訪れた国は軽く百ヶ国を越えている。京都には大学がたくさんあって、中西印刷にくる注文も大学や研究者からのものが多いようだ。当然、さまざまな言語の文字や豊富な書体の漢字が必要になる。だからこそ、どんな文字の注文にも応えられることが先代の誇りだった。中西秀彦はそのような父親の意志を受け継ぎながら、なおかつ、文字のデジタル化、つまり活字の放棄を決断する。

    ・ DTPを使って作れるものは新聞、雑誌、書籍、パンフ、チラシ、名刺と多様である。けれども、いろいろなホームページにアクセスし、また自前のものを作るようになってから、DTPが過渡的な方法だったのでは、という疑問をもちはじめた。DTPが活字を不要にし、レイアウトや切り貼りの作業をデジタル化したとは言え、最後はやっぱり、紙に印刷する。つまり、できあがったものは何世紀も前から作られていたものと変わらない。モニター上で作ったものを、紙に印刷して完成というのは、何かおかしくないか?そんな疑問を改めて、感じはじめたのである。ホームページに慣れるにつれ、モニタ上で読むことが、あまり苦痛でなくなってきたのである。この感覚の変化は、たぶん重要だ。

    ・津野も中西も、それぞれの本の中で同じような発言をしている。「印刷革命が最後までたどりついたと思ったのは、紙の上というごく狭い範囲の印刷でしかない。このあと印刷と出版は紙という呪縛から解き放たれる。」(中西)「この三年間は、私のうちでDTPへの関心がうすれ、それに反比例して、デジタル化されたテキストをDTPではないしかたで利用する方法への関心がつよまってゆく過程だったらしい。」(津野)

    ・辞書や事典などCD-ROMが充実してきた。膨大な情報量の中から一部分を検索するという作業はパソコンにとってもっとも得意なところである。紙に印刷された文章を1ページから順に読んでいくという作業がなくなるとは、もちろん思わない。けれども、そうやって読まなければならない印刷物は、実際には今でもすでに多数派ではない。ぼくは英語の本をかなり買うが、テキストの方がキイ・タームを検索しながら能率的に読めるのにと思うことがよくある。翻訳ソフトがもっと賢くなれば、一気に日本語に変換させて読むといったことだってできるはずだ。いずれにせよ、読書の質が変わっていくことは間違いないから、紙に印刷といった形態が主流でいられる時代がいつまでも続く保証はどこにもないはずである。せっかくDTPをわがものにしたぼくにはちょっと寂しいことだが、同時に、ホームページにもっともっと時間とエネルギーを割いてみたいという気もしている。

    1997年6月10日火曜日

    学生の論文が読みたい!!

     

  • このホームページには一日平均10名ほどの人がアクセスしているようだ。多くないような気がするが、しかし1年間にしたら4000名弱になる。これはけっして小さな数字ではない。その中から、メールを送ってくる人は、週に一人といったところだ。これも1年にしたら50名ほどになるから、かなりの数になる。けれどもこの程度なら、返事を出し、注文に応えることは苦にならない。
  • メールの中で一番多いのは、何といっても学生の卒論についてである。特定の論文を指定したメールが、これまでに9通来た。しかし、すぐには送らない。誰が、どんな目的でその論文を読みたいと思っているのか?そこを確認してから、送るようにしている。単なる冷やかしで請求されたらかなわないし、ちゃっかり借用して、自分の論文として提出してしまおう、などというヤカラがいないとも限らない。
  • で、最初に来たのは、九州の女子大学に勤務する新米の先生からだった。メールには「大学で教えはじめたところでゼミの運営の仕方も論文の指導法もわからず困っています。」と書いてあった。考えてみれば、小中高の先生になるためには教職課程の授業があるし、教育実習もあるのに、大学の先生にはない。冗談ではなく、教え方や学生とのつきあい方を習う機会がまったくないのである。大学の先生の授業がおもしろくないはずだと、あらためて考えてしまった。最近の学生には、指示待ち人間が多いから、ほっておけば何とかするというわけにもいかない。ぼくはさっそく、卒論集のバックナンバーを郵送した。同じようなメールが他に1通あった
  • 学生からの注文は、基本的に断ることにしている。かわりに、テーマについての文献をわかる範囲で紹介する。これが4通ほど。しかし、以前に書いたミネソタ大学の学生からの依頼の時には、例外的に論文を送った。
  • 残りの3通は、最近の若い人の考えていることを知りたいというものだった。これについては、簡単な自己紹介をしてもらった上で、注文に応えることにした。その際、是非感想をお寄せくださいと書いたのだが、今のところ、こちらの希望に応えていただいたのは一人だけである。彼女が希望したのは『鴻上尚史論』である。
  • 実はこの論文は、けっしていいできとは言えない。どうも、できのよくないものにばかり注文が来る傾向があって、困っている。けれども、おもしろがって読んでくれる人があることには、感謝しなければならない。メールはもちろん、今のゼミ学生にも伝えているが、「よし、はりきろう」というよりは、「やばいゼミに入ってしまったな」という反応の方が多くて、ちょっと拍子抜けしてしまう。

  • ところで私は、現在、J女子大学に在学しております。一度社会に出ておりますので、年齢は、いわゆる新人類後期世代にあたるかと思います。
  • 私もかつて演劇をやっていたことがあります。そして、鴻上尚史を敬愛しておりました。今年、2月に5年ぶりの「第三舞台」の代表作、「朝日のような夕日をつれて」の再演があり、楽しみにしておりました。(私は85'の「朝日………」から「第三舞台」の作品は欠かさず見ております)が、私としては、鴻上が変わっていてくれなければもう「第三舞台」からは、卒業かもしれない、とおもっていました。それだけ、時代は変わっていると言うか、自分も変わっているからです。
  • あんのじょう予想どうりでした。それでは、若い「第三舞台」支持者はどう思っているのだろう、と思いました。そこで、この論文を読んでみたいとおもったのです。
  • 論文を読むと、今の若い子も、自分が若かったときと同じような気持ちで、「第三舞台」を見ているのだということがわかりました。きっと、今のような不透明な時代がつづくかぎり、鴻上の作品は、若者たちにとって普遍的なテーマとして生きつづけるのでしょう。
  • 卒業と言いながら、やっぱり鴻上は気になります。今度、国からの要請で、イギリスに留学するそうです。帰ってきてからの新作に期待したいと思っています。(H.K.)
  • 1997年6月7日土曜日

    『恋人までの距離』Before Sunrise 、『Picture Bride』

  • 続けておもしろい恋愛映画を見た。まず『ピクチャー・ブライド』。明治のはじめに横浜で両親と暮らしていた娘は、両親が肺病で死んだことで、もう日本には住めないと聞かされる。叔母は代わりにハワイ行きを勧める。お互いが交換するのは一通の手紙と一枚の写真だけである。で、彼女が花婿に会うと、案の定、写真は20年も前に撮ったものだった。「私のお父さんと変わらない歳の人」。彼女は日本に戻りたいと思う。
  • この映画は日系三世のカヨ・マタノ・ハッタが監督をしているが、ベースは彼女の家族の歴史、つまりおじいちゃんとおばあちゃんの話である。愛を前提としない結婚、サトウキビ畑での重労働、一旗揚げようという野心、そして日本人コミュニティ。少しづつ夫に心を開いていく主人公の心の変化を工藤夕貴がうまく演じていた。
  • もうひとつは『恋人までの距離』。ブタペストからパリに向かう列車の中でアメリカ人の青年とフランス人の女子大生が出会う。彼はウィーンから飛行機で帰国するのだが、意気投合した彼女は、途中下車して一晩つきあうことにする。列車の中から始まって、ウィーンの街、そのカフェやディスコ、公園を夜通し歩き回る。背景は変わるが、この映画の中心にあるのは最初から最後まで、二人の会話である。
  • 二人は当然、最初からお互い気に入っている。一目惚れである。けれども、そんなことは一言も言わない。「飛行機が出るまでの間。一緒に話をしよう」「えー。いいわ」という感じでできた距離感がなかなか変わらない。家族のこと、お互いの恋愛経験、彼の仕事と彼女の勉強の話..........。手相占いや街角の吟遊詩人の登場。レストランで電話ゲームをやるシーンがある。二人がそれぞれ帰ったときに最初にする電話を今してみようというのである。親指を耳、小指を口にあてて、それぞれの友だちに電話をする。で、架空の電話の話し相手に、会った瞬間に好きになったと打ち明ける。