1997年7月22日火曜日

富田・岡田・高広他『ポケベル・ケータイ主義!!』(ジャスト・システム)

 

・ぼくが電話論を書いたのは10年前だった。正直なところ、もうそんなにたったのかと驚いてしまう。この10年の間に電話はずいぶん様変わりした。けれども、それについてぼくは、ほとんど何も発言していないし、携帯も PHSもポケベルも自動車電話もいっさい使っていない。要するに関心がないのだが、この10年の間に急に賑やかになったメディア論(議)にうんざりもしているのだ。だから最近出るメディア論の本は、ほとんど読む気にもならない。
・しかし、その電話論の本をいただいてしまった。5人の著者のうち3人と知り合いである。だから礼儀上も書評をしなければならない。正直困ったな、と思った。

・最近の電話については、経験的には嫌な印象ばかりが残っている。授業中になるチリチリのためにぼくは一体何度、思考を妨げられたことか?年のせいかよく度忘れをするようになったが、そのチリチリを気にしたとたんに、それまで話していたことを忘れてしまったりする。どういうわけかそのたびに無性に腹が立つ。

・腹が立つといえば、ドライバーの運転中の電話。これは車がどこか挙動不審だからすぐにわかる。何かおかしいなと感じると、たいがい片手運転をしているのだ。電車にはめったに乗らないから、近くで大声で話されたりするのもえらい迷惑だ。ポケベルやベル友などは勝手にしろという感じだ。

・こんな思いを持ちながら読み始めたら、たちどころにオジサンというレッテルを貼られてやっつけられてしまった。で、ますます読む気がなくなった。岡田君はともかく富田さんはぼくとあまり歳が違わないのに、ちょっと若い奴等に迎合しすぎていやしないか?自分の子どもが大きくなってきたせいか、高校生はもちろん、大学生にしても、ぼくにはやたら幼く思えてしまう。何で世の大人は、こんな連中をちやほやするのだろう?だから最近では、こわい、うるさい親父(オジサン)として接することを心がけている。たぶん彼らにとってはムカツク存在なのだ。

・で、この本だが、よくまあこれだけ、電話にまつわる話題を集めたものだと感心してしまった(けっして皮肉ばかりではありません)。内容は電話を通した若者論で、最近の若者に疎いオジサンとしては、ずいぶん参考になるところもあった。けれども、全体に明るいトーンで、神戸の酒鬼薔薇少年の世界を連想させるような記述(描写)がないのが物足りない感じがした。電話、パソコン、タマゴッチ、ビデオ、マンガ............。例によってくり返されるメディア・バッシング的な動きが気になる昨今、もっと影の部分について目を向けてもよかったのでは..............。

1997年7月15日火曜日

大学生とメール

 

  • 1年生のゼミの学生たちにメールの出し方を教えた。パソコンははじめてという学生もいて、「なぜ」「なぜ」とかなり初歩的で、かつ本質的な質問責めにあって困ってしまった。ローマ字で打ち込むと日本語になって画面上に現れる。ひらがなが自然に漢字に変換されていく。驚きはそこから始まる。実際、そんな学生が半分以上なのが現実だ。これは教える方としてはもちろん、おもしろい反応に感じられる。学生の目が輝くからだ。けれども、そんなことをいちいち説明している余裕はない。キーボードの意味と使い方を覚えさせたら、次にEメールの出し方に進む。とにかく1時間でぼくにメールを出すところまでやらせるつもりなのである。
  • 学生たちは大学でそれぞれ自分のアドレスを割り当てられている。それとパスワードを打ち込ませる。すると、「〜さん、あなたにはメールが〜件来ています」というコメントが出てくる。はじめてメール・ボックスを開いた学生は、ここでまた驚いてしまう。「先生メールが来ているやん!?」各自のボックスには、クラブへの勧誘などの同一のメールが届いていた。中には友だちや兄弟からのメールが入っている学生もいた。「わっ、東京のお兄ちゃんからや!!」「あっ、これダチやんか!!」先生なぜ?どうしたら読めるの?当然、ぼくはパソコン教室の中をあちこち忙しく動きまわることになる。考えてみれば、「先生」「先生」とこんなに頼りにされる機会は、他にはほとんど経験がない。
  • 時間はあっという間に過ぎた。わずか数行のメールをぼく宛に出すこと。もちろん全員ができたわけではなかった。「あとは空き時間に自習しなさい。ぼくに出せなかった人は必ず出しておくこと」。そういってとりあえず授業を終わりにした。大半の学生からメールが来た。で、「おもしろかったらもう一回やろうか?」と書いたら、数人からぜひやりたいという返事が戻ってきた。
     社会学科のカリキュラムには学生がパソコンを習う課目はない。しかし、3年生ぐらいになると半数以上はワープロを使い、その中の2割ぐらいがパソコンを持つようになる。ぼくはゼミ紹介をするときにワープロ・パソコンを使える者という条件を付けている。だから手書きのレジュメやレポートは許さない。それでも、パソコンを自分で持っている学生は半数に満たない。だから、ゼミの学生からメールが来ることはほとんどない。パソコンにあれほど目を輝かせた1年生も前期試験のためか、ぼくのところにほとんどメールを送っては来ない。来ても、「先生今日は」といった簡単なものでしかない。
  • 法政大学の平野さんはゼミをメールでやることにしたそうである。おかげで毎日学生とのメールのやりとりに忙殺される羽目になったようだ。かえって大変だが、ぼくも来年は4年生相手にこれをやってみようかと思う。実際4年生は夏休み前まで、就職試験で忙しくて、ゼミに顔を見せることが少ないのである。もっとも、自宅からメールが送れない学生は、大学に来なければならないから、そんなに多くはならないのかもしれない。
  • しかし、最近、卒業した学生からメールが来るようになった。人数は多くはないが、返事を書くとしばらくしてまたメールがやってくる。就職した会社でパソコンを使い、ぼくのホームページにアクセスしたり、自分のアドレスをもらったりしている人がほとんどだが、仕事のことや家族のことなどをわりと丁寧に書いてくる。研究室で顔を合わせているときとはまた違った距離感でつきあいを続けられるメディアができたように感じている。「ボーナスもらったら自分のパソコン買えよ!!」。たぶん、卒業してまでうるさい先生だと思っていることだろう。
  • 1997年7月8日火曜日

    Neil Young "Broken Arrow""Dead Man"

     

    ・ニール・ヤングが元気だ。昨年イギリスでやったライブを Wowowで見たが、少し禿げて腹が出たとはいえ、帰依状態になるようなエネルギッシュなパフォーマンスは相変わらずという印象だった。そしてCDも次々と出している。70年代のはじめの"After the Goldrush"や"Harvest"から、ぼくは彼のファンだが、大柄な体格とは裏腹の繊細な心の持ち主で、いつ消えていなくなっても不思議でないという感じを持ち続けてきた。それが30年近く過ぎても健在で、すでに30枚を越えるアルバムを出している。ディランの30周年記念のコンサートでは、ディラン以上にはりきっていたし、MTVの"Unplugged"もすごくよかった。

    友だち(a friend of mine)のことについて話そう
    金鉱(gold mine)について話そう
    ぼくの中の(inside me)敵について話そう
    君とぼく(you and me)のことを話そう
    今でもぼくは夢の中で暮らしていて、それはまだ終わっていない
    Big Time in "Broken Arrow"(1996)


    ・"Dead Man"はジム・ジャームシュの同名の映画のサントラ盤である。長年のヤング・ファンだったジム・ジャームシュは"Dead Man"の脚本を書いているときも、ニール・ヤングを聴き続けていたそうだ。映画の音楽をヤングに任せたいと思っていたらしい。だから、映画のカットを見てヤングが引き受けたときには有頂天になった。CDのライナーノートにはそんな風に書かれている。
    ・ぼくはまだこの映画を見ていない。ジムはこれが「若者の旅、肉体的、精神的になじみのない世界に入り込む物語だ」と言っている。19世紀後半の開拓期アメリカ西部。ある若い白人とネイティブ・アメリカンたちとの出会い。そんな話のようだ。そういえば、"broken Arrow"もジャケットにはテントがモノクロの絵として描かれている。何か関係があるのかもしれないが、CDを聴いている限りではよくわからない。(1997.07.08)

    1997年7月5日土曜日

    リービング・ラスベガス』マイク・フィッギス(監)ニコラス・ケイジ(主)

  • アル中で会社を首になった男がいる。なぜそうなったのかはわからない。とにかく、彼にはアルコールをやめる気などさらさらない。もらった退職金でラスベガスに。死ぬまで飲み続ける気なのだ。ラスベガスのメイン・ストリートを酔っぱらい運転していて、若い女をひきそうになる。「赤信号は止まるのよ!」と文句を言われた返答に、「ぼくのモーテルに来ないか」と誘う。
  • 彼女はラトビアからアメリカに来た。男と一緒だった。で、ラスベガスでヒモつきの娼婦になった。泥酔した男はセックスはいいから話をしようと言う。「毎日200ドル払うから、金がなくなるまで来てくれ」と頼む。けれども、女は次の日、現れなかった。ひかれる自分に気づいたから、女は男を避けたのである。
  • 男は女をさがしだす。食事をし、もちろん酒もしこたま飲む。モーテルへ誘うと、女が「私の家に来ない?」と言う。ヒモは何かの理由で殺されたようだった。そこから二人の共同生活が始まる。女は男のアルコールづけを責めないし、男ももちろん女が娼婦であることを気にしない。ほしいのは、二人でいることでたがいの心が癒される、その時間だけである。
  • けれども、お互いの距離が近くなれば、それぞれかけがえのない存在になっていく。アルコールをやめさせるために医者に行かせたいと思うようになった女と、夜になると客を捜しに行くのをとめたい男。互いの現実を認めるところから始まった関係は、そのままでは先が開けない。けれども、現実を変えようとすれば、そもそもの出会いの意味が失われてしまうし、互いに相手を束縛することにもなってしまう。ある夜彼女が帰ると、部屋で男と娼婦がいちゃついていた。で、男は彼女の家を出る。
  • 少年たちに殴られ、輪姦され、家の大家からも出ていくように言われた女は、たまらなく会いたくなって、男をさがす。しかし、居場所は分からない。そのままでいいから、死ぬまで一緒にいたい。そう願う女のところに電話がかかってくる。安宿でベッドから起きあがることすらできなくなっている男からだった。ほとんど声も出ないが、それでも、酒だけは飲んでいる。女は男のところへ急いだ。寝てる男はシーツを払いのけようとする。ペニスを立たせてくれと言うのだ。女は男の上に馬乗りになる。はじめてのセックス。で、その晩、男が死んだ。
  • 何とも切ない映画だ。救いも何もない地獄にような世界といってもいい。けれども、そんな関係のなかに、ある種のあこがれを感じさせる何かがある。絶対そんなことはできない、やってはいけないし、やりたくもない。そんなふうに思えば思うほど、心の片隅にはっきり姿を現してくる得体の知れない破滅への衝動。
  • 1997年7月1日火曜日

    ガンバレ野茂!!


    ・三年目の野茂がもたついている。6月29日の試合に負けて7勝7敗、オールスター出場は今年もダメなようだ。話題も伊良部に集まっていて、新聞やテレビ゙のスポーツ・ニュースに取り上げられるのも地味になった。「どうした?」などと書かれることもない。何となく寂しい感じがしているが、本人にはかえって気楽になれるいい機会なのかもしれない。

    ・実は、ぼくは野茂がアメリカに行くと言ったときから、かなり強い関心を持ち続けている。できるかぎり生中継を見ているし、それがダメなら、再放送、ドジャーズのホームページには必ずアクセスしているし、ニフティのSNPBASE(スポニチ)から毎日の大リーグ情報も入手している。小学生からのスワローズ・ファンだが、日本のプロ野球にはほとんど関心がなくなってしまった。独走のせいもあるが、マスコミの清原イジメや阪神ファンの相変わらずのとらぬタヌキにはもううんざりといった思いなのだ。

    ・で、野茂の話だが、実は今年は特に調子が悪いというわけではない。去年も同じ時点では8勝7敗だった。もちろん野茂の防御率は年々落ちていて、三振の数もハデにとることが少なくなった。フォーク・ボールをむりやり強振しなくなって、じっくりボールを見極めるバッターが増えてきた。四球がからんで早い回から点を取られてしまう試合も少なくない。しかし、ダメなのはドジャーズ打線のふがいなさにある。とにかく先行する試合が少ないのだ。それがプレッシャーになって、のびのび投げられない。そんな感じがする。他の先発ピッチャーが好投しながら勝てないのに腹を立てて、野手陣、フロントとの間がギクシャクしているといったニュースがSNPBASEにはよく報じられている。ラソーダとラッセルの監督手腕の差なのかもしれない。

    ・ギクシャクした関係といえば伊良部と日本からの報道陣の間も相当のようだ。殴りかかったとか、ボールをぶつけるまねをしたとか、鼻クソを投げたと話題は尽きない(これもSNPBASE)。記者の方も相当カリカリして記事を書いている。対照的に長谷川にはきわめて好意的だ。インタビューでも、信じられないくらい流ちょうな英語で受け答えをしている。

    ・野茂の相変わらずのぶっきらぼうさをふくめて三人三様で、それはそれでおもしろいと思う。野茂はトンネルズのインタビューなどにはちょっと冗談もいれてキサクに話をする。たぶん伊良部だって相手次第ではもっと素直になれるに違いない。野茂にも伊良部にも日本の報道陣は大リーグへの道をふさぐ存在として立ちはだかった。で活躍し出すとやたらハデに持ち上げる。たぶん野茂はそんな姿勢にしらけているのだ。伊良部もちょっと大人げないところがあるが、反省すべきはまず、報道陣のほうだと思う。

    ・スポーツは最高のレベルでは、当然世界を相手にする。しかし、オリンピックで金メダルいくつといったことを除けば、日本人には、そのような意識はこれまで希薄だった。それが野茂や伊達(テニス)や岡本(ゴルフ)といったプロ・スポーツの世界で自覚されはじめている。ワールド・カップへの出場が果たせなければサッカーのJリーグの成功もない。そして、そんな意識から一番ずれているのが、日本のプロ野球と、それを支え、そこに寄生するスポーツ・ジャーナリズムなのだ。日本のプロ野球なんてマイナー・リーグの一つになってしまえばいい。そんな気がする。

    1997年6月23日月曜日

    『ブルー・イン・ザ・フェイス』 ポール・オースター、ウェイン・ウォン


  • ニューヨークのブルックリンにあるタバコ屋。雇われマスターとタバコ屋にたむろする常連客。この映画は『スモーク』の続編、というか番外編である。舞台は二つの映画ともまったく同じで、主演もともにハーベイ・カイテルである。
  • 『スモーク』はP.オースターがシナリオを書き、ウェイン・ウォンが監督をした。テーマは「嘘」というか「フィクション」。それがかろうじて人びとの現実を支えさせている。カイテルが万引き少年の落とした財布を家に届ける。出てきた黒人の老女は「わかってたんだよ、おまえがクリスマスの日にエセル祖母ちゃんを忘れるわけないもの」といってカイテルを抱きしめる。彼女は目が見えない。彼はためらいながら、彼女を抱き抱える。で、ふたりでクリスマス・ディナー。
  • ぼくはこの映画を見る前にシナリオの方を先に読んでいた。で次のようなやりとりが気にいっていた。「物質世界なんて幻影だよ。ものがそこにあるかどうかなんて問題ないさ。世界はおれの頭の中にあるんだよ。」「だけど肉体は世界の中にあるだろうが。(間)誰かが泊めてやるって言ったら、君、かならずしも拒まんだろう?」「(間。考える)そんなことしてくれる他人なんかいないよ。ここはニューヨークだぜ。」
  • 残念ながら映画にはこのセリフがなかったが、映画を見た印象は、やっぱりこのセリフに象徴されるようなものだった。フィクションをかぶせなければ、とても現実を受け入れることなんかできないし、自分の存在を実感することもできない。そう、そんな風に感じるのは、ニューヨークに生きている人たちに限ることではないはずである。
  • 『ブルー・イン・ザ・フェイス』のアイデアはこの映画を撮っている最中に生まれた。参加した役者やミュージシャンたちと意気投合して、ほとんどアドリブで作ったようである。ルー・リードのニューヨークについての話。ジム・ジャーミシュがタバコ屋に最後のタバコを吸いに来るシーン。マドンナの歌って踊る電報配達人。マイケル・J.フォックスが店先で奇妙なアンケート調査をする。「トイレでしたあと、出たモノを見るか?」
  • こちらのテーマはたぶん、ニューヨーク、というよりはブルックリン礼賛だろう。嫌煙ムードが強まる一方のニューヨークでは、ブルックリンだけが、あるいはこのタバコ屋だけが気分良く吸える唯一の場所。しかし、そんなブルックリンを、ドジャースはとっくの昔に捨ててロサンジェルスに去った。今は黒人が半分でユダヤ人とプエルトリコ人がその残りを二等分している街。犯罪、街の老朽化、失業..............。ノスタルジアとしてのブルックリン、そしてタバコ。
  • ブルックリンに一番近いのは、大阪の下町かもしれない。そう、新世界のあたり。そういえば、ここでもホークスが難波を離れて、福岡のドームに本拠を移した。「ネイバーフッドの息づかい」。ぼくももうずいぶん長いこと忘れていた情感。それが映画の世界となって、説得力をもってよみがえってきた。もっとも、東京の郊外育ちのぼくには、そんな世界がノスタルジックに思えるはずはないのだが.........。
  • 1997年6月16日月曜日

    津野海太郎『本はどのように消えてゆくのか』(晶文社),中西秀彦『印刷はどこへ行くのか』(晶文社)

     

    ・ワープロからパソコンに乗り換えたのは、DTP(卓上印刷)が理由だった。ガリ切りから始まって新聞やチラシ、ミニコミを何種類も作ってきたぼくには、印刷を手作りするというのは、長年の念願だった。で、やっとスムーズに日本語が使えるようになったマックに飛びついたが、プリンタ、スキャナ、それにフォント(字体)などを買うと、お金が150万円を軽く超えた。もう9 年も前の話だ。現在のマックは5台目で、ポストスクリプトのレーザー・プリンターが自宅と研究室に一台づつ、学科の共同研究室にはカラーのレーザー・プリンターも入った。お金はもちろん、時間もエネルギーも、ずいぶんな浪費をしたが、おかげで今のぼくには、印刷屋さんに頼まなければならないことは何もない、とかなり自信をもって言えるようになった。

    ・津野海太郎は晶文社の編集長を長年やってきた。本作りのプロだが、一方でDTPを使ったミニコミ作りもしてきた。『小さなメディアの必要性』(晶文社)『歩く書物』(リブロポート)『本とコンピュータ』(晶文社)『コンピュータ文化の使い方』(思想の科学社)、そして『本はどのように消えてゆくのか』。彼が書いてきた本を読むと、文化としての本、つまり内容だけではなく、装丁や編集、印刷技術といったものに対する愛着心と、コンピュータを使った新しい印刷文化に対する好奇心が伝わってくる。まさに同感、というか、ほぼ同じ時期から、ほとんど同じことに関心を持ち、時間とエネルギーとお金を注いできたことに妙な親近感さえ感じてしまう。

    ・中西秀彦は京都の印刷屋さんの二代目である。そして、印刷業界のコンピュータ化に積極的に関わり、なおかつその印刷文化との関係を考え続けてきている。『印刷はどこへ行くのか』(晶文社)は前作『活字が消えた日』(晶文社)に続く、彼の2作目の本で、この二冊を読むと、印刷というか文字文化とコンピュータの間に折り合いをつけることの難しさにあらためて驚かされてしまう。

    ・先代、つまり彼の父親は、世界中の文字(活字)を集めることに熱中した人だった。だから1969年のカンボジア、タイ、香港からはじまって、死ぬ前年(1994年)のブルキナフォソ、ガンビアまで、文字(活字)を求めて訪れた国は軽く百ヶ国を越えている。京都には大学がたくさんあって、中西印刷にくる注文も大学や研究者からのものが多いようだ。当然、さまざまな言語の文字や豊富な書体の漢字が必要になる。だからこそ、どんな文字の注文にも応えられることが先代の誇りだった。中西秀彦はそのような父親の意志を受け継ぎながら、なおかつ、文字のデジタル化、つまり活字の放棄を決断する。

    ・ DTPを使って作れるものは新聞、雑誌、書籍、パンフ、チラシ、名刺と多様である。けれども、いろいろなホームページにアクセスし、また自前のものを作るようになってから、DTPが過渡的な方法だったのでは、という疑問をもちはじめた。DTPが活字を不要にし、レイアウトや切り貼りの作業をデジタル化したとは言え、最後はやっぱり、紙に印刷する。つまり、できあがったものは何世紀も前から作られていたものと変わらない。モニター上で作ったものを、紙に印刷して完成というのは、何かおかしくないか?そんな疑問を改めて、感じはじめたのである。ホームページに慣れるにつれ、モニタ上で読むことが、あまり苦痛でなくなってきたのである。この感覚の変化は、たぶん重要だ。

    ・津野も中西も、それぞれの本の中で同じような発言をしている。「印刷革命が最後までたどりついたと思ったのは、紙の上というごく狭い範囲の印刷でしかない。このあと印刷と出版は紙という呪縛から解き放たれる。」(中西)「この三年間は、私のうちでDTPへの関心がうすれ、それに反比例して、デジタル化されたテキストをDTPではないしかたで利用する方法への関心がつよまってゆく過程だったらしい。」(津野)

    ・辞書や事典などCD-ROMが充実してきた。膨大な情報量の中から一部分を検索するという作業はパソコンにとってもっとも得意なところである。紙に印刷された文章を1ページから順に読んでいくという作業がなくなるとは、もちろん思わない。けれども、そうやって読まなければならない印刷物は、実際には今でもすでに多数派ではない。ぼくは英語の本をかなり買うが、テキストの方がキイ・タームを検索しながら能率的に読めるのにと思うことがよくある。翻訳ソフトがもっと賢くなれば、一気に日本語に変換させて読むといったことだってできるはずだ。いずれにせよ、読書の質が変わっていくことは間違いないから、紙に印刷といった形態が主流でいられる時代がいつまでも続く保証はどこにもないはずである。せっかくDTPをわがものにしたぼくにはちょっと寂しいことだが、同時に、ホームページにもっともっと時間とエネルギーを割いてみたいという気もしている。