2011年10月17日月曜日

福島についての2冊の本

 

福島についての2冊の本

開沼博『「福島」論』(青土社)
佐藤栄佐久『福島原発の真実』 (平凡社新書)

・僕にとって福島は、縁のある土地だった。義母のいるいわき市には毎年のように夏休みに出かけたし、子どもと一緒に海水浴をしたり、ハイキングをした。その義母が亡くなって今年で七回忌になる。ほかに知りあいはいないので縁遠くなっていたが、大地震が原因の原発事故が起きた。だから、津波の被害はもちろん、放射能の汚染が引き起こした問題には、人ごとではない気がして、ずっと関心を持ちつづけている。

fukusima1.jpg・僕がよく訪れていた頃の福島県知事は佐藤栄佐久で、1988年から知事を務めて2006年に収賄容疑で逮捕されて辞職している。僕は誰が知事なのかも関心がなかったのだが、原発事故の後に、彼がトラブルを隠す東電を批判して、プルサーマル計画にずっと反対してきたことを知った。収賄容疑は二審でも有罪の判決が出たが、一体何が罪なのかわからない内容で、原発政策を勧める上で邪魔な知事を辞めさせるための策略だったことは明白のようだ。その点を含め、『福島原発の真実』 には、知事就任以来、原発に対してとってきた方針と政府や東電とのやりとりが詳細に語られている。

・佐藤知事は自民党の参議院議員からの転職で、最初は中央とのパイプを持った知事として仕事をした。原発についても、福島の経済を活性化させるために必要なものという姿勢をとってきた。それを反転させたのは2000年のことだ。それ以後知事は福島県のことだけではなく、原発をかかえる他県の知事をリードして、その危険性を訴え、トラブル隠しをする電力会社を批判し続けてきた。

fukusima2.jpg・福島県に原発ができたのには、ここがかつて常磐炭鉱という石炭の生産地をかかえていて、閉山後の経済の落ち込みからの脱却を願っていたことがある。あるいは、福島県には多くの水力発電所があるが、それらは20世紀の初頭から、主に東京への電力供給のために作られてきたこともある。そして、事故を起こした福島原発の地は、終戦直後に堤康次郎が広大な土地の払い下げを受けて塩田事業をした跡地に作られたものである。

・開沼博の『「フクシマ」論』は現役の大学院生が修士論文として書いたものである。そのメインテーマは副題にある「原子力村はなぜ生まれたのか」で、大地震と原発事故が起こる直前に書き上げられている。まるで事故の予言書であるかのようにして一時期話題になったが、内容はあくまで「原子力村」にある。それは一般的には政治家、官僚、電力会社、原発関連企業、マスメディア、そして大学研究者たちによって構成された閉じた組織のことを指すことばだが、この本ではむしろ、現実に原発のある地で暮らす人びとと県や市や町、そして村の政治家や役人、そして建設や土木工事などの地元企業が住人となる「村」に焦点が当てられている。

 

・中央にあって「世界有数の原子力技術の確立」を望み、その卓越性を誇示し、安全神話を作りあげてきた「ムラ」と、経済成長から取り残され、過疎化する地域の維持や発展のために原発の設置を容認した「ムラ」は、共に原子力に大きな「夢を見ていた」ことでは共通している。そして両者が抱いた「どちらの夢も幻想であったことが、時間の経過とともにますます明らかになってきた」。にもかかわらず、どちらも、その夢を捨てることができなかった。


・それは、一方では、地方の「反中央」であるゆえの自発的な服従の形成のなかから、他方では、貧しいムラの「都会」への欲望のなかから可能になった。その生産により、原子力ムラはaddictionalな自己の再生産をはじめることになった。そして、ちょうど同じ時期に、中央の原子力に関わる各アクターも閉鎖性・硬直性をもった<原子力ムラ>と呼べる集団を確立する。結果としてこの二つの原子力ムラが、原子力推進に抵抗する勢力もうまくからめとる形で、現在の「原子力推進体制」を確立する共鳴をはじめたのだった。(p.298)

・鋭い指摘だと思う。しかし、一見新しいもの、先端的なことに関わることが、前近代的なムラ組織によって支えられるという構造は、たとえば新聞とテレビが一体となった電波村にもあてはまるし、企業や学校、そして地域といったさまざまな集団の中にも容易に見ることができる、きわめて日本的な特徴である。ここまで危険性が露呈された原発をストップさせることがなぜできないのか、という当たり前の疑問に対する答えは、たぶん「ムラ」のなかにある。このような仕組みをあらためるのは、放射能に汚染された土地を除染するのと同じぐらい難しいことなのかもしれないと思う。
 

2011年10月10日月曜日

マックとの出会い

 

・アップル創業者のスティーブ・ジョブズが死んだ。iMac、iPod、iPhone、そしてiPadと立て続けに大ヒット作を出して、まさに絶頂期でのおさらばだ。新商品はほぼ出尽くした感があるから、アップルはこれから厳しい時代を迎えることになるのでは、と思う。そのことは、ジョブズが元気でいたとしても変わらないことかもしれない。

・ぼくはアップルの製品をiPhone以外すべて持っている。iPadはテレビを見る気をなくしたほどにおもしろいし、iPodは車の運転に欠かせない。そしてもちろん、マッキントッシュは仕事の必需品で、家と研究室に一台ずつと、持ち運び用に一台使っている。講義も2年前からKeynoteでやるようになった。

macse30.jpg・あらためて、今まで何台買ったか思い出してみたがよくわからない。おそらく10台は越えているだろうと思う。最初の一台はマッキントッシュSE30で、購入したのは1989年だった。まだ日本では販売されていなくて、大阪の日本橋にあるマッキントッシュを並行輸入する店で手に入れた。本体だけで90万円もして、その他に日本語のフォント、EGワードやページメーカーといったソフト、それにスキャナーとプリンターを合わせると150万円近くの出費になった。新車を買うのと同じほどのお金を投じて、一体何をやろうとするのか。そう思われても仕方のない投資だったが、その後の僕の時間の過ごし方は一変した。

・文章を書くのではなくワープロでタイプしはじめたのはその4,5年前からで、日本ではパソコンよりはワープロ専用機が家電メーカーからそれぞれ販売されていた。手書きからタイプ入力への変化は文章を書く際にはもちろん、読書ノートをつけることや、それをカードで整理することなど、さまざまに渡っていて、知的作業の一大変革がやってきたことを実感させたが、AppleのMacintoshについて書かれた記事を読んだときには、その製品以上に、それが生まれる歴史に驚かされた。

・スティーブ・ジョブズは社名のアップルをビートルズにちなんでつけている。パソコンを誕生させたアメリカのコンピュータ文化は、対抗文化が沈静化した後にサンフランシスコの郊外で生まれている。国や大企業が独占する大型コンピュータに対抗して、個人が自由な表現活動や情報のやりとりに使う道具を作る。パーソナルなコンピュータとは、まさにそんな意味でつけられた名前だった。

・現在のパソコンの原型となったのは1977年に登場したApple IIである。しかし、その後のコンピュータ社会の発展をリードしたのは、1981年にIBMが出し、マイクロソフトのMS-DOSをOSにしたPCだった。Apple社が1984年に発売したマッキントッシュには、オフィスワークの道具として位置づけられたPCを批判した60年代の対抗文化の気風が取りこまれた。僕が魅了されたのは何よりそこにあったが、その魅力はまた、パソコンとしては多くても一割程度のシェアしか持てない限界にもなった。

・スティーブ・ジョブズはマッキントッシュが発売された翌年にApple社をやめている。Apple社としての独自性を維持することとIBMPCに対抗する機能を備えること。マッキントッシュには、そんな二面性が課せられたが、ワープロと表計算が使えれば十分という風潮に風穴を開けたのは、ジョブズがApple社に復帰した後に発売したiMac(1988)だった。ジョブズは続けて、iPod、iPhoneと大ヒット作を連発したが、それを可能にしたのは、1995年から本格化したインターネットの急速な発展と映像や音のデジタル化が、多くの人に表現や通信の手段としての道具に関心を向けさせたことにある。

・そんな意味で、ジョブズが実現させた世界は、60年代の対抗文化の日常化だったと言えなくもない。しかしそれはまた、モノについても時間についても新たな浪費を生みだし、それに囚われてしまう生活の現実化でもある。マッキントッシュと出会って、できることがたくさん生まれた。しかし反面で、何もしないで過ごすことに充実感を持たせることがきわめて難しくなったことも間違いない。もうこれ以上の道具は必要ないという気になっているから、僕にはジョブズの死を惜しむ気持ちは起こらない。

2011年10月3日月曜日

愛車に感謝、そして別れ

 

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forest95-2.jpg・12年間乗ってきたレガシー・ランカスターが27万キロを超えた。この間、ほぼ無事故で違反も少々、免許を取って40年を過ぎて、はじめてゴールドにもなった。元気に走ってくれていて、まだまだ大丈夫と思うが、ここ数年は点検のたびにいろいろ部品を交換して、かなりの費用がかかるようになっていた。で、一大決心をして、乗り換えることにした。長いつきあいで、僕にとっては人格をもっているかのように感じることもあるのだが、いつ壊れてもおかしくない距離になってからは、信頼と同時に不安感ももってきた。

・この車については、これまでも何度か話題にしてきた。20万キロを超えたときに書いた「20万キロ越えに感謝」には、東北に3度でかけ、佐渡島にも行ったことが記されている。そう言えば、大震災の時に思い出したのは、津波に襲われた三陸のリアス式海岸の道が上り下りが連続する曲がりくねった道だったことだった。あるいは下北半島の恐山に行く途中に見かけた原発や六ヶ所村、そして立ち並ぶ風車の景色も頭をよぎった。義母が住んでいた福島県のいわきにも何度も行ったし、義兄が別荘を持っている磐梯山や那須にも頻繁に出かけた。

・富士山周辺の地域の自動車ナンバーが「富士山」になったのは、車がちょうど20万キロを超えた直後だった。まだしばらく乗り続けようと決めた時で、新しいナンバーに興味があったから、陸運局に出かけたが、この時のことも「富士山ナンバーに変えた」に書いた。この後、他府県に出かけた際に「こんなナンバーあるんですか?」と聞かれたことが何度もあった。中には「いいな」とか「かっこいい」と言った人もいて、何となく鼻が高い気になったこともあった。

forest95-3.jpg・ランカスターは車高が高いから未舗装の山道でも平気で走ってくれる。だから、富士山周辺の林道をずいぶん走ったし、富士山の道も行けなくなるところまで何本も登って見た。たくさんの荷物が積めるから、数日間の旅行やキャンプにも出かけたし、パートナーが京都で開く個展にも、作品を一杯乗せてお供した。あるいは、ストーブに使うために見つけた伐採した木を運ぶのにも大きな力を発揮してくれた。そして何より、冬の雪道や凍結路を安心して走るのにはタイヤ以上に4駆やABSが役立つことを実感させてくれた。

・もちろん、はじめからこんなに長いこと乗り続けるつもりでいたわけではなかった。特にガソリンが値上がりしはじめた頃からハイブリッドに乗り換えることも考えたが、スバルがヨーロッパでディーゼルを販売したニュースを聞いてからは、それが日本で発売されるまではがんばってもらおうと思ってきた。しかし、発売時期は当初2010年と言っていたのに次々延期されて、現在では一体いつになるのか、そもそも日本で発売する予定があるのかどうかさえわからない状況になってきた。

・レガシーはランカスターの後継車は「アウトバック」という名に変わっている。車のデザインも現行モデルは大きく変わってしまった。そして僕は現在売られている車が好きではない。ずっと乗り続けてきた理由は何よりそこにあるのだが、元気に走っているとは言え、いつ故障してもおかしくない状態になっている。で、ずいぶん前から中古車のチェックもして、旧モデルで色も同じ車を探してきた。自分で見に出かけられるところは東京と山梨に限られるから、なかなか気に入ったものがなかったのだが、ちょっと前にいいのを見つけて、買うことにした。色も同じでデザインも似ているから、乗り換えたことに気づく人は少ないかもしれない。

・だから12年乗ってきた愛車とはあと半月でお別れで、乗るたびに「ご苦労さんでした」とつぶやいている。廃車にしてもスクラップではなく、オークションにかけて、外国に輸出される可能性が高いようだ。ロシアかインドか、あるいはアフリカでまだまだ走り続けることになるのかもしれない。そう思うと、かわいそうな気もするし、車冥利に尽きる幸せな奴だとも言いたくもなる。

2011年9月26日月曜日

Brandi Carlile

 

"Brandi Carlile""The Story"
"Give up the ghost "

brandi1.jpg・Youtubeで原発関連のビデオばかり見ていたが、ふとカントリーが聴きたいと思って、エミルー・ハリスを検索して何本か見ていると、若いミュージシャンと一緒に歌っているものを見つけて、今度はそのミュージシャンを聴いた。Brandi Carlile。もちろん、はじめて聞いた名前で、シェリル・クロウやジョン・プラインと一緒のライブもあった。なかなかいい。そう思って、すぐにAmazonに3枚注文をした。何しろ、ipadをwifiで使っていると、このプロセスは瞬時のうちにすんでしまうから、うっかりすると次々買ってしまいそうだ。それにしても、円高のせいかCDが安い。どれも1000円前後の定価がついている。

brandi2.jpg・彼女はもちろん、最近デビューした新人というわけではない。最初のアルバムは2005年に出されている。シアトルの田舎の出身で、レズビアンであることを公言し、"The Looking Out Foundation"という名の環境問題に関わるNPOを立ちあげている。テレビドラマ「グレイズ・アナトミー」で使われた"the story" がヒットしてブレイクしたようだ。確かに手にい入れた3枚のうちでは"The story" が一番聴きやすい。ドラマは見たことがないが、聴いたことのある曲がいくつかあった。しかし、僕が一番気に入ったのは音が一番シンプルなデビュー・アルバムの"Brandi Carlile"の方だった。

brandi3.jpg・彼女も意識をしているようだが、シェリル・クロウのデビューの頃を彷彿とさせる。元気がいい、ちょっと突っ張った感じの女の子で、声も太くてハスキーなところがよく似ている。Youtubeで見たステージでの格好も、垢抜けないところはそっくりだ。
・彼女を見出したのはデイヴ・マシューズらしい。ジョン・プライン同様、Youtubeにも競演しているライブが載っているが、二人とも、アメリカではポピュラーな実力派で、娘と楽しく歌っているような感じがなかなかいいと思った。


橋が燃え落ちていないところを見つけるために
いくつの法律を破り
いくつの嘘をつき
いくつの道を変えるのだろうか
"What can I say"

2011年9月19日月曜日

韓流ドラマ批判よりずっと大事なこと

 ・フジテレビが韓流ドラマばかり放映しているという理由で批判され、お台場でデモまで行われたそうである。地上波を見ないのでわからないが、BSではどのチャンネルでも韓国のドラマをたくさん放映している。僕はほとんど見ないが、番組が多いということは見る人がたくさんいるわけで、それ自体を理由にテレビ局に対してデモをする理由が僕にはよくわからない。批判するのなら、韓流ドラマにかなわない日本のテレビドラマの貧困や、バラエティで埋めるしか脳のない番組編成の方にあって、それはしかも、文化批判として行われるべきもののように思った。

・夏に韓国を旅行して、明らかに韓流ドラマの影響と思われる日本人旅行者を見かけることがあったし、観光地での案内で、「日本でも見られている〜のドラマで登場した」などと、風景や建物などを説明することも多かった。僕はそう言われてもほとんどわからなかったが、それを見たり、体験したりすることを目的に来る日本人旅行者がかなりたくさんいることはよくわかった。

・韓流ドラマの人気やテレビ局の依存体制は、言ってみればそんな程度のことに過ぎない。ただし、お台場でのデモが千人規模の大きなものだったのに、フジテレビはもちろん、他のテレビ局もまったく報道しなかったのは、おかしなことと思った。原発事故以来、テレビや新聞の報道がいかに作為的なものであるかがあからさまになった。しかし、マス・メディアはそのことをあらためるどころか、一層露骨に続けるようになった。その好例は反原発のデモだろう。9.11には新宿で15000人集まって、警察の規制が厳しくて逮捕者も出たようだが、テレビのニュースはほとんど無視で、新聞でも大半がごく小さく扱われたに過ぎなかった。

一方で、政治家の発言に過剰なほどに反応して辞職に追い込むケースが続いている。所属を名乗らずに大臣を罵声する記者の存在にはあきれるが、問題になった大臣の発言の文脈もわからないし、どの記者に対してなのかもわからない。「放射能をつける」は明らかにオフレコで大臣と記者との間のプライベートなやりとりのはずで、そんなことが記事になること自体がおかしな話なのだから、問われるべきは一斉に報道して問題視したメディアの方なのである。

・「死の街」発言も、何が問題なのかよくわからない。どのような文脈の中で出てきたものかがはっきりしなければならないのに、ただ「死」と言ったことが悪いとされている。本当の理由は辞任した大臣が脱原発を推し進めたり、経産省の人事の刷新を考えていたところにある。こんな裏情報に接すると、メディアに対する批判を強め、そのことを理由にテレビ局や新聞社にデモを仕掛けなければいけないという思いを強くしてしまう。

・それにしても、新聞もテレビも、もうどうしようもないほどダメなところに来てしまっている。それは、政治家(政党)、官僚、そして電力業界のひどさと同レベルで、個々の出来事や人間を非難してすむようなものではなく、制度の根幹に原因があることが自明になっている。誰もがどこもが、保身にしか意識が向かなくて、既得権の確保にばかり精を出している。目を向けるべきものは、けっして韓流ドラマなどではなく、この国が陥っている現実そのものなのである。

2011年9月12日月曜日

韓国旅行

 

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光州博物館で見た仏像。お地蔵さんのよな柔和な顔。


11日間の韓国旅行が終わって、撮った写真の整理をした。時差もなく、仕事もしているから、国外に旅行したという感覚は薄いのだが、辛くて甘くてしょっぱい食べ物の影響がいまだに体に残っている。焼き肉もキムチも好きだが、毎食、辛くて味が濃いものしか選択肢がないのには閉口した。
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ソウルは東京みたいで、釜山は神戸や横浜より大きな港町だった。地下鉄、高速道路、KTX。一昔前の日本のように成長経済が目に見えるようだった。対照的なのが慶州。京都や奈良と比較される古都だが、観光に力を入れているようにも見えなかった。若者たちのファッションは、日本と変わらない。チマチョゴリを見る機会はほとんどなかった。
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のんびりできたのは済州島。石像のトルハルバンは蒙古に支配されていた頃の名残とか。元寇の頃だから鎌倉時代だ。東にある対馬は日本にとって最果ての過疎の島だが、済州島は韓国唯一の南国リゾート地で、漢拏(ハルラ)山と城山日出峰は絶景だ。
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2011年9月5日月曜日

初めての韓国

・ぼくにとって韓国は沖縄同様、近くて遠い国だった。歴史や政治問題に関心を持てば、観光気分で行くことは躊躇してしまう。だから、韓国や沖縄が手軽な旅行地になってからは、余計に行く気になれなかった。その沖縄に3月に観光旅行に出かけ、そしてこの夏、韓国に出かけることにした。きっかけは、息子が宮古島で結婚式をしたことにあった。それに、アメリカの友人が日本に来て韓国に行くという予定を伝えてきた。都合で行けなくなったのだが、それでは代わりに行ってやろうか、という気になったのである。

koria1-2.jpg・ソウルは羽田から2時間ちょっとしかかからない。空港についてもほとんど日本人と変わらない顔つきや体つきをしているから、国内旅行をしているような気にもなる。けれども、耳に聞こえてくることばの違いやハングル表記の看板や表示板などを見ると、やっぱり外国に来たことを実感してしまう。韓国は中国や日本と並んで漢字文化圏にあったはずなのに、漢字をきれいさっぱり払拭してしまったようである。このハングルを出かける前に少しでも理解しておこうと思ったのだが、勉強し始めてすぐに諦めてしまった。単純な表音文字を合成させて、漢字一字文の音を一つの文字として表記する仕方の複雑さは、にわか勉強ではとてもマスターできるものではないのである。

koria1-1.jpg・飛行機がソウルの金浦空港に降り立つときに目についたのは、林立する高層住宅だった。その細くて高い形が日本で見慣れた高層住宅とどこか違う気がしたのだが、その後歩いているときに、どの建物にもベランダがないことに気がついた、ベランダがなかったら閉塞感を持ってしまうだろうにどうしてなのだろうか。そう言えば、ソウルや光州の地下鉄駅のホームはどこにもシールドがあって、電車が止まったときだけドアが開くものだった。思い過ごしかもしれないが、自殺予防?という理由がすぐに浮かんできた。

koria1-3.jpg・韓国と言えば焼き肉とキムチ。毎日ではかなわないが、数日なら食べ続けてもいい。そんなふうに思っていたのだが、最初の晩に食べたキムチの辛さにまいってしまった。焼き肉にかぎらず、どんな店に入って何を注文しても、キムチはもちろん、漬け物や煮物の入った小鉢がテーブルをいっぱいにするほど並べられる。辛さもしょっぱさも甘さも強いのだが、それとは別に味噌がつき、生のニンニクや生の唐辛子がついてくる。だから早くも二日目にホテルの日本食レストランで松花堂弁当を食べたのだが、三日目に思い直して焼き肉を食べた。骨付きカルビをハサミで切って金属の箸で食べるのだが、ここでもやっぱりいくつも小鉢が並べられ、食べたことのない葉野菜に肉と一緒に包んで食べた。

koria1-4.jpg ・若い人たちのファッションはどこに行っても同じようなものだ。そのことはソウルや光州でも再確認したのだが、光州の地下鉄や中心地の文化殿堂で見かけて気づいたのは、40 歳ぐらいを境目にして、今昔の違いがはっきりわかるということだった。韓国が軍事政権から民主化したのは90年代で、経済成長もそれ以降のことである。だから豊かな社会を生まれながらに享受しているのは20代で、民主化を勝ち取った40代以下と50代以上の人たちの間には世代間の大きな断絶がある。日本からは20年遅れてやってきた現象だ。そんなことを勝手に考えたが、それが当たっているかどうかはわからない。

・もうひとつ、アメリカやヨーロッパではよく見かけたのに、韓国では日本の自動車はほとんど走っていない。もともとは日本と提携して成長したメーカーがいくつもあるが、よく見るのは現代自動車だ。反対に日本で韓国の自動車を見かけることもほとんどない。アメリカでは仲良く並んで走っていたり、駐車してあったりするのにどうしてなのか。これも近くて遠い国の一例だろう。ちなみに運転の仕方も怖くなるくらいに荒っぽかった。