2012年6月25日月曜日

父母が老人ホームに

・父と母が介護付き老人ホームに入居した。4月のはじめに母が脳出血で入院してから2ヶ月弱、すでに要介護1の認定を受けている父と、新たに要介護2になった母のこれからの生活の仕方については、ずいぶん考えさせられることが多かった。結論的に言えば、自立した生活ができなくなり、子供が同居して一緒に暮らすことが無理な状況では、介護付きの老人ホームに入居するのはベターな選択だったと思っている。ただし、そのことを納得してもらうのは、特に母については大変だった。

・母は庭に畑を作り、何種類もの野菜を栽培していたし、梅やレモンやゆずの実もなって、それらを保存食にすることもやっていた。そんなことが突然できなくなったとは言え、庭への愛着はそんなに簡単に捨てきれるものではない。あるいは、至れり尽くせりの介護付きとは言っても、今まで生活していた家の広さに比べれば、ホームの部屋はあまりにも狭すぎる。だから、月に一度ぐらいは迎えに行って数日家に帰って暮らすことぐらいはしてあげなければと考えた。

・ところが、脳出血の影響で、やることや考えること、そして何より記憶することに障害が出て、母は介護してもらわなければ生活に支障があることをつくづく感じ取ったようだった。特に、引っ越し作業を始めてからは、整理するつもりでかえってごちゃごちゃにしてしまったりして、もうここから逃げ出したいとまで言うようになった。

・倒れてからすでに2年近くなる父には、母が倒れた原因の多くが自分にあることがわかっている。口に出しては言わないが、子どもたちにも、これ以上の負担はかけさせたくないと思ったのかもしれない。引っ越したらすぐに、家は処分してもいいと言って、さっさと不動産やに連絡をしてしまった。そうなると、もう戻ってくることもなくなるわけで、それでもいいのか念を押したのだが、二人とも、いともあっさりと「いい」と答えた。

・もちろん、ホームに持って行けるものはごく限られていて、今まで使っていたものはほとんど処分しなければならない。その量の多さには改めて驚かされるが、ついこの間までは、どれも必要なものだったのはまちがいない。使っていた食器や衣類はもちろん、冷蔵庫には食べ物が残されている。庭の梅の木には実がいくつもなっていて、畑には茗荷ができている。

・二人にとってこの家は、終の棲家になるはずだった。しかし、そうはならず、老人ホームに入り、家は処分することになった。僕がこの家に住んだのは10年ほどで、すでに建て直されているから、ほとんど愛着はない。あるいは、両親と違って何度も引っ越しをして来ているから、住む場所が変わることにも、それほどの感慨を持たずに来た。しかし、二人にとって、本当のところはどうなのだろうか。そんなことを考えると、きれいに片づけて、売れる前にもう一度帰れるようにしておこうか、などという気にもなってくる。

2012年6月18日月曜日

入笠山と上高地

 

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・春になって山歩きにいい季節になっても、いろいろ忙しくて、出かけられなかった。朝大学へ出かける際に、湖にかかった霧の向こうに御坂山塊が見えたりすると、山が呼んでるなーと、思わずため息をついたりもした。ところが、山に行こうと思うと、天気が悪かったから、行きたい気持ちばかりが募って、いささか欲求不満状態になっていた。で、時間にもちょっと余裕ができ、天気の日が続くようになって、そろそろ行けそうかとなったところで、ぎっくり腰になった。

・今年の山歩きもやっぱり富士山から。一昨年の春に富士宮口の五合目から宝永山まで歩き、続いて須走口から幻の滝や小富士を訪ねたから、今年はその間の御殿場口から宝永山の近くの双子山まで登ってみた。太郎坊から森林限界ぎりぎりのところにある道を幕岩まで歩き、そこから双子山まで登って引き返した。雲が激しく流れる中、時折頂上も見えたし、途中で鹿にも出会った。登山道は砂走りの崩落で通行禁止になっていた。富士山の噴火だけでなく、大崩落の危険性が報じられていて、ちょうどこのあたりか、と思いながら下山した。

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・5月の末に諏訪の入笠山に登った。中央高速を走っていて東に見える山脈で、スキー場があるところだ。スキーの終わった季節でもロープウエイは山歩きの人たちを乗せるために動いている。平日なのに駐車場にテントがたくさん並んでいて、自転車に乗る人がたくさんいた。モトクロスの大会が週末にあって、その準備や練習をしていたのだ。ロープウエイの下を猛烈なスピードで駆け下りるライダーたち。
・入笠山の頂上からは八ヶ岳が間近に見え、眼下には諏訪の街が広がっていた。首切り清水という怖い場所から湿原まで歩いた。
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・6月に入って出かけたのは上高地で、今まであまりにも有名で避けてきたところだ。しかし、来てみればやっぱりすばらしい。南の焼岳から穂高まで360度のパノラマで険しい山が迫ってくる。梓川沿いの道を四時間ほど歩いた。ここまでくると、やっぱり上まで登ってみたいという誘惑に駆られてしまう。
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2012年6月11日月曜日

絶望と幸福

古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』

・長年大学生とつきあってきて、最近特に強く感じるようになったのは、「彼や彼女たちは、これからちゃんと生きていけるのだろうか?」という心配だ。それとは対照的に、日本の現状はますます暗く、将来的な見通しも立たないような状況だから、「もっと真剣に考えたほうがいいんじゃないの」と、ついついけしかけたりもしてしまう。しかし、反発してくれば、それなりに議論にもなるのだが、黙ってしまって何の反応もなかったりするから、僕の不安が募るだけになってしまう。

journal1-152-1.jpg・『絶望の国の幸福な若者たち』はまだ20代の若い博士課程在学の学生によって書かれている。新聞などの書評でも話題になって、その題名にも惹かれたから、買って読んでみた。この絶望の国で、若者たちはなぜ、幸福な意識を持って生きていけてるのだろうか。結論を先に言えば、「確かにそうかも」と納得できる内容で、重い内容を軽い文体で分析するスタンスの取り方にも、新鮮な印象を持った。

・著者によれば、今若者たちが幸せだと感じるのは、衣食は足りているし、日々の生活を彩るものはたくさんあって、お金が十分ではなくても、工夫次第で、それなりに楽しく暮らせるからだと言う。それは調査においても実証されていて、内閣府によれば、2010年の時点で20代の若者の70.5%が現在の生活に「満足」と答えていて、それは過去40年間で最高の数値になっているようだ。確かに、モノは豊富にあるし、近くにコンビニもあって便利だし、スマートフォンのような情報端末も使えるようになった。日本が世界最高の居心地のいい暮らしを提供してくれる社会であることは間違いないのだろうと思う。

・しかし、その幸福感には、現状についても未来についても、大きな不安感がつきまとっている。僕が学生たちにもっと自覚的になってほしいと思うのは、まさにそこのところなのだが、著者の解釈は、若者たちは無自覚なのではなく、どうしようもないとわかっていて、マクロではなくミクロなところで、自分なりに個人的な方法で対処する道を探っているというものだ。

・確かに、上の世代が日本の現状や将来について心配するのは、国が抱える借金や経済的な衰退、政治的な、そして防衛的な力の弱さであり、少子高齢化に伴う社会保険制度の崩壊といったマクロな問題ばかりである。しかも、このどう改革しても難しい問題に対して、政治家や官僚、そして財界のトップたちは、既得権や目先の利益にこだわり、これまでの政策に縛られて、ますます泥沼にはまってしまっている。

・それに対する現在の若者たちの姿勢は、正面切っての批判や大人たちに変わって改革をといったものではなく、消極的な拒絶や自分なりの個人的な逃げ道の模索といったものだ。彼や彼女たちは、今を幸福だと感じる反面で、社会に対して満足していないし、未来に対する希望も持てないと感じている。あるいは、日本に生まれてよかったと思う反面で、国を愛する気持ちは薄く、国のために戦う気持ちは他国はもちろん、上の世代と比べても低い数値のようである。

・経済が衰退したっていいじゃないか、人口が減っても、社会保険制度が破綻しても仕方がないじゃないか。そうなったらそうなったで、生き方や暮らし方に自分なりの道を探せばいい。もし、多くの若者たちが、そんな自覚を持って現在や未来を見ているのなら、僕はそれは大いに結構なことだと思う。それは未来に対する絶望ではなく、新たな希望にもなるだろう。しかし、学生とつきあっていて、なかなかそんなふうには思えないのが正直なところだ。彼や彼女たちは、豊かで便利な現実を自然視している反面で、将来に対する不安も感じていて、二つの間にある大きな断層の前で為すすべもなく立ち尽くしているように見えるからだ。

・経済成長一辺倒で来た国が、そうではない方向に舵を切るのは難しい。著者が指摘するのは、その反面で、民主主義の浸透が犠牲にされてきていて、若者たちにその埋め合わせというつけが突きつけられているという現状だ。それをどう解決するかはマクロではなくミクロの問題として個々人が何とかすればいい。この本に書かれているのはそんな結論だが、であればこそ、為すすべもなく立ち尽くしているように見える若者たちが気になってしまう。

・この本には3.11以後「世界が変わった」とする言説に対する批判もある。納得できる点もあるけれども、原発やエネルギーの問題について、まったくふれられていない点に強い疑問を持った。若い人ほど影響がある放射能とどうつきあうのか。これは、ミクロのみならずマクロな問題として、誰もが直面している問題のはずである。

2012年6月4日月曜日

原発再稼働なんて、とんでもない

・原発がすべて停止してから一月が過ぎた。安全性について徹底的な検証が行われたわけではないのに、政府や関電は再稼働を強行しようとしている。表向きはこの夏の関西地域の電力不足が理由で、再稼働できなければ、計画停電もやむなしといった脅し文句が繰り返されている。しかし、他方で、節電や他電力会社からの供給、あるいは民間からの電気の買い上げ等の策を徹底すれば、決して不足することはないと主張する人もいる。

・夏の電力不足が心配されるのは猛暑になった場合の数日間で、日中の数時間に過ぎない。だから、その時間をどうしのぐかが問題なのだが、関電は電気の工面ではなく、企業の経営ばかりを優先させようとしているし、政府は原発村と財界の意向ばかりに耳を傾けている。野田首相は「日本の経済、社会全体の安定と発展のために、原発は引き続き重要で、安全が確保された原発は、再起動させる必要がある」と言っているが、日本の社会にとって原発がもっとも危険な不安定要素であることや、大飯原発の安全が確保されてなどいない点については、何の説明もしていない。

・考えていること、やろうとしていることを明言せず、うやむやのままに断行する。そんな野田政権の手法はまるでペテン師だが、野田批判の声は強まらない。自民党は対決姿勢を声高に叫ぶが、菅降ろしの時のような勢いはない。消費税にしても、原発存続にしても、自民党の体勢が野田首相と同じだから、反対の声が上げられないのである。

・国会の福島原発事故調査委員会に呼ばれた菅前総理が、原子力村について、異論分子を排除する戦前の軍部と同じような組織で、事故後も全く同じように、原発の存続という方向性を死守しようとしているといった発言をし、その解体がやるべき第一のことだと言った。その報道は小出裕章のコメントをつけて評価的な記事を書いた東京新聞から、「『人災の元凶』に反省なし(産経)」「反省なき菅前首相の脱原発論(読売社説)」までさまざまで、前総理の発言以前に、各新聞社の姿勢がはっきりわかるものだった。

・問題の根本はもちろん、この夏の電力をどうするかといった短期的な所にあるのではない。福島第一原発の危険性は少しも減っていないし、全国各地にある停止した原発には、使用済み核燃料がほぼ満杯状態で保管されている。プルトニウムに再処理して核燃料サイクルを実現させるという計画はとっくに破綻していて、使用済み核燃料の最終処分の仕方もわからないままなのである。そこを不問にして、経済や社会の安定を理由に再稼働をしようとするのは、出かけなければいけないからとブレーキのない自動車に乗るようなもので、それこそ自殺行為としか言いようがないだろう。

・福島第一原発事故について、未だに誰もどこも責任をとっていない。本当なら警察が刑事事件として立件すべきなのだが、警察には、そんな動きは全く見られない。こんな無責任社会の中で、大飯原発の再稼働については、政府の責任で判断すると言っても、そこには何の重みも説得力もない。大飯原発の再稼働に対し孤軍奮闘して反対をしている飯田哲也は野田政権を「再稼働暴走内閣」と名づけている。野田を降ろしてもう一回菅に総理をやらしてほしい。そんな声が「つぶやき」ではなく「さえずり」として大きなものにならないものかと思う。

・再稼働の方針が表明された後、6月1日に首相官邸前で抗議の集会があった。しかし、テレビはそのことを大きく報じていないし、NHKは取材にもこなかったようだ。ブレーキ役を自覚しないメディアに存在価値などないから、受信料を払う必要などないのである。

2012年5月28日月曜日

スカイツリーとAKB48

 

・東京タワーがあって、既に昨年の夏に地デジ化への移行が済んでいるのだから、新しい電波塔はもう必要がない。そんな無用の長物でしかないスカイツリーの開場を、テレビや新聞がお祭り騒ぎのように囃し立てている。その脳天気さには呆れてしまう。けれども、そんな姿勢には、原発事故以降の報道に共通した無批判さが露骨だから、もう悪意のように思えてくる。

・そもそも、テレビ放送のデジタル化は、BS衛星やケーブルテレビで十分に対応できたはずなのに、巨額の費用を使ってわざわざ地デジ化した理由は、地方のテレビ局の存続が第一の理由だった。だから総務省とテレビと地方自治体は「電波村」を作っていて、それは原発の存続に固執する経産省と電力会社等がつくる「原発村」と双子のようにそっくりなのである。日本のマスメディアは新聞とテレビ、そしてラジオが一体(クロス・オーナーシップ)だから、相互に批判しあうということがほとんどない。電力の発送分離を強く主張しない(できない)理由は、何より批判の矛先が我が身にも向かってしまう点にあるのである。

・もっとも、何によらずお祭り騒ぎをしたがるのは、最近のテレビに見られる新しい現象というわけではない。昨年度に大学院で、「戦前期日本のオリンピック」というタイトルで博士論文を書いた学生がいた。それを読んで認識を新たにしたのは、当時の新聞が、オリンピックの存在と日本選手の活躍を積極的に報道して、政府以上に国威発揚の旗振り役をしたことだった。それはちょうど、日本が大陸に進出して朝鮮半島から中国の満州までを占領した次期に重なっていて、軍部や右翼の圧力によって批判ができなかったことが新聞社や研究者によって指摘されている。しかしオリンピック報道に対する姿勢を見ると、新聞はむしろ、当時の日本の侵略政策に積極的に荷担をしたことがはっきりわかってくる。

・だから、原発報道が「大本営発表」だと言って批判するのは、メディアの無責任さの片方だけを指摘しているにすぎないのだ。人々の関心をスカイツリーに向け、東京の新しいシンボルや下町の活性化をうたって囃し立てるのは、東京はもちろん、東日本や日本全体が抱える深刻で難しい問題を意識の外に押しやり、忘れさせる力として働いてしまう。メディアはそのことに無自覚なのか、あるいは自覚的なのか。僕は後者の方だと、最近ますます強く感じるようになった。もちろんここには、それを望む、いやなこと、不安なことは忘れてしまいたいという、私たちの心理的な特性がある。

・同じような危惧は「AKB48」の人気にもあるのではないだろうか。僕はAKB48が何なのかを未だにほとんど知らない。秋元康が「夕焼けニャンニャン」以来に新たに仕掛けたアイドル商品で、つんくの「モーニング娘。」とあわせて、僕は魅力どころか嫌悪感をもって忌避してきた。先日やった研究会では、「AKB48」を「学校文化」との共通性でとらえたり、アメノウズメ以来一貫して、日本人が夢中になる特徴を備えていて、一種の宗教現象なのだと分析する報告があった。腑に落ちる説明で、あーなるほどと納得できる気がした。

・とは言え、世の中のことには無関係のままでいたいという「退行現象」にしても、天災を沈める集団的な祈祷にしても、それで現実が打開できるわけではないから、そんなことにうつつを抜かしている暇はないのだという思いに何ら変わりはない。

2012年5月21日月曜日

ライ・クーダーのアンソロジー

 

"The UFO Has Landed"
"Down At The Field - The 1974 Broadcast"
”The Slide Area" ”Chicken Skin Music”

ry-4..jpg・ライ・クーダーのアルバムはかなりもっているが、初めてのアンソロジーだというので"The UFO Has Landed"を買った。二枚組で1970年のデビューから2008年まで34曲が納められている。もちろんもっているもの、聴いたことがあるものが多いが、通して聴いてまず思ったのは、40年近い時間の経過が全く感じられないことだった。確かに、声も最初からしわがれていて老けた感じだったし、ギターのうまさもデビュー当時から頭抜けていた。しかし、改めて思うのは彼の音楽が一貫して変わっていないという点だ。もちろん、それはワンパターンとはちがう、音楽に対する彼の姿勢からくるものだ。

・彼はもちろん、自分でも歌を作る。しかし、彼の仕事で評価されているのは、何より、アメリカはもちろん世界中の埋もれた音楽を発掘して、紹介し続けていることにある。このアルバムもジョニー・キャッシュの「ゲット・リズム」で始まり、カントリー、フォーク、ブルースと多様だが、彼の聴覚や嗅覚はもっと敏感で、彼が見つけて自分の作品にしてきたのは、ヨーロッパからアメリカにやってきた移民たち、アフリカから奴隷として連行されてきた黒人たちが持ち寄った楽器や歌が、地域によって微妙に異なる発展をした音楽だった。

ry-2..jpg・たとえば、テキサスに住むメキシコ人の音楽は「テックス・メックス」と呼ばれるが、ドイツ系移民の音楽が混じって、アコーディオンが使われることがある。メキシコからは北の音楽と呼ばれて区別されている。そんな音楽に興味を持って紹介したのは1976年に発表された"Chciken Skin Music"(鳥肌の立つ音楽?)で、このアルバムでは他に、ハワイの音楽も取り上げられていた。キューバの市井のミュージシャンたちを取り上げて作った「ブエナ・ビスタ・ソーシャル・クラブ」は1996年の作だったから、彼の関心が、ワールド・ミュージックなどという流行とは無関係だったことがよくわかる。2010年に発表されたアイルランドのチーフタンズとの合作「サン・パトリシオ」はメキシコがアメリカと戦争をした時(1846)に、メキシコ政府に雇われたアイルランド人が残した音楽を集めたものだった。そのアイリッシュともメキシカンとも決めがたい音楽はチーフタンズにとっても新鮮な発見だったようだ。

ry-1..jpg・アンソロジーの最後から二曲目に"Going back to Okinawa"という曲が入っている。この歌には「沖縄では俺は王様扱いだから、もう二度と帰らない」といった歌詞がある。さらには「砂浜にはかわいいママが寝そべっていて、彼女は男の扱いをご存じだ」と続くから、沖縄に駐留した米兵を想像してしまう。彼は喜納昌吉のアルバムにも参加していて、僕はその1980年に発売された"Blood Line" で初めて、ライ・クーダーというミュージシャンを知った。沖縄の音楽にも早くから関心を持っていて、その音楽のできかたがアメリカの占領政策と基地に深く関連していることも熟知しているはずだから、この底抜けに明るい"Going back to Okinawa"には彼の強いメッセージが感じられる。

・このアルバムを聴いて、若い頃のライブ盤を聴きたくなって"Down At The Field - The 1974 Broadcast"も買った。ジャケットの写真は声やギターのうまさとは対照的に、まだ少年の面影が残っているものだ。僕より二つだけ年上だから、同世代では一番好きな、信頼できるミュージシャンだと言える。

2012年5月14日月曜日

Do it yourself !

 

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・面倒くさがりに田舎暮らしはできない。もちろん、10年以上田舎で暮らした自らの経験から言えることだが、周囲を見渡しても、面倒なことにあえて挑戦する人が少なくない。畑を借りて野菜作りに励む人、冬を除いて花の絶えない庭を造る人、もちろん僕も、家のペンキ塗りやベランダの補修、そしてストーブの薪割など、年間を通してやらなければならないことにせっせと励んでいる。しかし、上には上がいるものだと感心する人が隣にやってきた。

・我が家は20年以上前のバブルの絶頂期に造成された別荘地にある。ログや煉瓦など思い思いに造られた家が並んでいるが、造成されずにそのままに放置され続けている場所も少なくない。我が家の隣地も二区画ほど手つかずのままだったから、窓からは鬱蒼とした林を眺めることができた。その隣地の一つおいた区画の木が突然伐採されたのは一昨年の暮れのことだった。森の生活もこれで終わりかと思うほどがっかりしたが、しょせんは他人の土地なのだから仕方がないと納得した。

・どんな家を建てるつもりなのか、土地の持ち主に話を聞くと、ログハウスの組み立てキットを買って、自分一人で建てるつもりなのだという。定年退職して近くに家を買ったのだが、孫たちが遊びに来たときのために小さな家を作るということだった。話を聞いたときは、「へー、おもしろそー」と思っただけだったのだが、整地から基礎作り、そしてキットを一つ一つ組み立てながら作っていく様子を眺めていて、その面倒でしんどい作業を少しずつやっていく様子には、ただただ感心するばかりだった。

・現在の高度な消費社会では、自分ではできないこと、面倒を省きたいことの多くが、お金を払うことで代行してもらえるようになっている。食事を自分では全く作らなくても、掃除や洗濯をしなくても、生活する上で困ることは何もない。一方で、そんな世界が実現しているのだが、他方で、人には頼らず自分でやりたいことについても、それを可能にしてくれるよう、多様なものが商品化されている。目の前で組み立てられていくログハウスのキットは、その最たるものだと、改めて納得した。

・高齢の両親がいよいよ二人では生活が難しくなって、都内の介護付き老人ホームを探し始めている。見学して改めて思ったのは、お金さえ払えば、人生の最後は生活の面倒をすべて引き受けてくれるところで過ごすことができるのだという実感だった。核家族化が進んで、子どもや孫と同居する老人の数はどんどん減っている。だから、終の棲家となるはずだった我が家を処分して、最後は老人ホームのお世話になる。そんな人たちが暮らす老人ホームは、今どんどん作られていて、しかも互いにサービスを競うような状況になっている。

・僕はできることは何でも自分でやってみたいと思って、現在の場所に引っ越してきた。ツリーハウスを作ってみたいとか、書庫と作業場にする簡単なガレージを作りたいとか思っているが、反対に、いつまで薪を割ることができるのか、大工仕事やペンキ塗り、そして車の運転はいつまでできるのだろうか、といったことも、最近身近なこととして考えるようになった。で、最後は老人ホームということになるのなら、ここではなくて、もっと別な場所でもいいのでは、などと妙に将来のことを考えるようになった。