1997年5月20日火曜日

『デカローグ1-10』クシシュトフ・キェシロフスキ

 

  • 『トリコロール』三部作で知られるK.キェシロフスキはポーランド出身の映画監督だが、去年54歳で死んだ。『トリコロール』の三部作や『二人のベロニカ』を見た印象は、愛をテーマにして、人間関係を微細に、しかも自然に描くのがうまい人というものだった。彼が1987年にテレビ・ドラマとして制作した『デカローグ』の十話は、そんな印象をより鮮明にさせるような作品だった。十の話には、それぞれ「ある〜に関する話」という簡単なタイトルがついていて、〜には「運命」「選択」「クリスマス・イヴ」「父と娘」「殺人」「愛」「告白」「過去」「孤独」「希望」が入る。
  • 病気で生死の淵をさまよう夫のいるドロタの身体には、別の男性との間にできた子どもがいる。その子を産むべきかどうか、夫に告げるべきかどうかで彼女は悩む。それは同時にどちらの男を「選択」するかという決断を含む。十の話の中には男女の愛を描いた作品が他にもいくつかある。インポテンツになった男が、その妻に対して罪の意識を抱くが、同時に妻の浮気を疑う。尾行、盗聴をしながら、なおかつ彼はそんな自分を責める。「孤独」と苦悩。「クリスマス・イヴ」の一夜を描いた話には別れた男女が登場する。再婚して子どももいる男の家の前に女がいる。彼女は帰宅した男に、現在一緒にいる男が夜になっても帰ってこないことを告げる。交通事故か、あるいは何かの事件に巻き込まれたのか。家でクリスマス・パーティをするつもりだった男は彼女と一緒に街に探しに出かける。そして夜が明ける頃に、彼女は男とはすでに別れていること、寂しくて一人ではイヴの夜を過ごせなかったことを話す。男が家に戻ると、妻が寝ずに待っている。
  • あるいは親子について。父と二人で暮らす娘アンカには、父親を男としても愛しているという気持ちがある。それは父親にもあるが、しかし、彼はいつでも自制心を強くして、「父と娘」という関係の一線を越えまいとする。突き放す父と反抗する娘は、またどうしようもなくひかれあう。「告白」は16歳で子どもを産んだ娘と母の話である。学校の校長先生をする母は厳しく、娘はその母の期待には応えられなかった。母は孫を子どもとして育て、その子に生きがいを見いだす。けれども、娘も、産んだ子どもが必要だと感じるようになる。彼女は妹を連れだし、恋人だった男の家で、妹に自分の娘であることを「告白」する。生きがいとアイデンティティの確認をめぐって少女を奪い合う母と娘。
  • どれもこれも、愛や憎しみ、エゴイズムや自罰意識に囚われた地獄のような世界だが、しかし、描き方は淡々としていてストーリーはシンプルだ。すべての話がワルシャワにある同じ集合住宅を舞台にしているし、俳優も地味だ。話には必ず、かすかな救いが残されている。だからだろうか、見ながら、とんでもない状況に入り込んだ特別な人たちの話ではなく、自分の中にもある感情を自覚させられる思いがした。一歩間違えば、それは誰にでも訪れそうな世界。いや、実際にはすぐそこにあるのに、自分はそうではないと否定したり、気づかないふりをしているにすぎない世界。そんな感想を、どの話にも持った。
  • しかし、それにしても、テレビ・ドラマのシリーズをこんな作品として作ってしまうキェシロフスキはすごい。他の映画がまるで紙芝居のように感じられてしまった。けれども、キェシロフスキはもういない。人びとの生きる世界は多様だが、それを自然に描き出せる人は多くはない。
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。