1997年5月25日日曜日

「矢谷さんと中嶋さん」

・矢谷さんと中嶋さんは職場の同僚だが、最近二人から、それぞれ、本をプレゼントされた。矢谷滋國『賢治とエンデ、宇宙と大地からの癒し』(近代文芸社)、鈴木・中道編『高度成長の社会学』(世界思想社)。いただいたものは読まなければいけないし、それなりの感想を述べなければならない。そうは思うのだが、実はこれがなかなかできない。読まなければいけない本、読みたいと思って買った本が山積みなのである。二人は同世代だが、矢谷さんは大阪、中嶋さんは福井の出身である。
熟読したとは言えないが、しかし、一応がんばって読んだ。日頃から話として聞いたり議論している内容で、正直言って目新しさは少ないが、だからといってどうでもいいテーマだというわけではない。そこで、書評というよりは、感想を少し書くことにした。
矢谷さんは現代の社会や生活の特徴を、自然のモノ化ととらえている。それが「作る人を賃金労働者に、作られたモノを商品に、使用する人を消費者に変形することによって、豊かないのちのつながりを分断してしまい、生命的な関わりを貧困化してしまった」と言う。彼は大学の近くに土地を借りて、学生と米や麦を作っている。あるいは学生を連れて山奥でキャンプをする。それは彼によれば、豊かないのちのつながりや生命的な関わりの再発見の試みである。
中嶋さんは、矢谷さんとは違って近代化を肯定する。「貧しいことよりも豊かであることの方がより望ましいことは確かである。........一定の経済的豊かさのなかで、人はそれなりの選択肢を持つことができる。」農家の貧しさや仕事のつらさを知っている彼には、自然や農業に対する思い入れはない。
中嶋さんは無類のパチンコ好きだが、矢谷さんから見れば、それは「日常生活の現実を一次的に忘れる」ものにすぎず、真の成長や変革をわれわれにもたらすものではない。しかし、そういう彼もしょっちゅう飲んだくれていて「日常生活の現実」を頻繁に忘れているように見えるし、中嶋さんから見れば、米づくりやキャンプとて、道楽の一つにしか映らないだろう。ちなみに矢谷さんは西宮のマンションに住んでいて、中嶋さんは奈良県の榛原である。山間に不似合いな新興住宅地だが、こちらの方が自然には恵まれている。
こんなふうに書くと、二人のちぐはぐさを並べておもしろがっているみたいだが、しかし、そんなちぐはぐさは、多かれ少なかれ現代人が共有するものである。
矢谷さんは現代の豊かさを捨てて昔に戻りたがっているが、中嶋さんはその意見には説得力を感じない。けれども、彼もまた、この豊かさにインチキ臭さを感じている。しかも、豊かさの追求は、今、アジアや中南米、そしてアフリカの人びとが抱く最大の関心事になり始めている。
一体人間は、これからどこへ行こうとしているのか。地球はどうなるのか。そんなことを考えると、底知れない不安に襲われそうになる。けれども、いったん手にしたものを捨てる気になど、とうていなりそうもない。いいじゃないか、とことん行くところまで行って、それで人間が消滅すれば、それはそれでしかたないじゃないか。ぼくは基本的には、そう思っている。願わくば、その時にもし立ち会うことになったら、自分一人でも生き延びたいなどと、悪あがきはしたくない。と思うのだが、ちぐはぐな日常に半ば無自覚に適応しているぼくとすれば、最後の最後まで悪あがきをするのでは、という心配がないでもない。


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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。