・映画に音があるというのは当たり前だが、しかし、初期の頃の映画に音がなかったのもまた事実だ。『戦艦ポチョムキン』のビデオにはピアノの伴奏がついているが、これがいかにもとってつけたようで、ボリュームを絞って見たほうがずっと自然な感じがする。もっとも、映画の上映は初期の頃から、伴奏つきというのが一般的だったようだ。
・映画と音、これは考えてみれば、ずいぶんおもしろいテーマだが、そんなテーマを真面目に考えている本を見つけた。もっとも新刊本ではない。ミッシェル・シオンの『映画にとって音とは何か』は1985年に書かれていて、翻訳されたのは93年だ。
・この本を読んで「へー」と思った所がいくつかある。一つは、映画に音がなぜ必要だったかという疑問。シネマトグラフがはじまったとき、音楽はすでにそこにあった。それは映写機の騒音がうるさかったからだという説があるそうだ。音を消すために別の音を必要とした。ありそうなことである。しかし、もっとそれらしい理由は他にある。音のない世界では人びとが不安にかられたからである。それはちょうど暗闇にいると口笛が吹きたくなる心境に似ているという。
・サイレントがトーキーになると、音はあらかじめ作品の一部として組み込まれるようになる。しかし、一体音はどこから聞こえるのだろうか?もちろんスピーカーからだが、映画製作者の狙いはそうではない。音はスクリーンの特定の場所から聞こえてくる。例えば、声はスクリーンにいる人の口からだし、音楽は映っている楽器からだ。そして観客もそのように聞くことにすぐ慣れた。
・ドルビーのマルチサウンドでは音は四方八方からやってくる。宇宙船の音が後ろからして、やがてスクリーンに腹の部分が大写しされはじめる。そして彼方に飛び去っていく。音はそれに合わせて、スクリーンの背後に消えていく。ハイパーリアルなサウンドというわけだが、そんなことができない時代でも、観客はそのように聞いていた。ちょうど芝居のちゃちなセットや小道具を、あたかも本物であるかのように了解してくれるように。シオンは宇宙船のリアリティといっても、真空の宇宙では、実際には音はしないはずだという。映画は最初から、本当のことではなく、本当らしいと人びとが感じることを再現してくれるメディアだった。
・シオンは映画館で聞かれる音には三つの世界があるという。一つはスクリーンに映っている世界からの音。それから、スクリーンのフレームの中にはないが、その外にあると想像できる世界からの音。例えば誰かの声がして、やがてその人物がスクリーンに現れるといったような場合。音はもちろん、このフレームの内と外を自由に行き来して、それがかえってスクリーンの世界に奥行きを与えることにもなる。三つ目はスクリーンのフレームの内にも外にも存在しないはずの音。それは自然には存在しないが、スクリーンには不可欠の音楽である。状況や人物の感情などを代弁し、あるいは強調させる音。シオンはそれを、聞こえていても聴かれてはならない音楽であると言う。自然の世界に音楽はない、しかし映画には、意識されることはないが聞こえてくる音楽がある。不自然な話だが、そうであってはじめて自然になる。考えてみれば、映画は不思議な世界である。
・シオンはしかし、音楽がより深い意味を持つのは、それが場面や登場人物に対して無関心である場合だという。例えば、空に輝く星を見て、人はそこにロマンチックな思いを抱くが、星にとってはそんなことはどうでもいい。けれども、たとえそうだとしても、人は、やっぱり星を自分とのつながりや関係のなかでみたいと思うし、実際そのように考え、感じとる。この、星のような音楽こそが、映画音楽の真髄なのだというのである。確かにそんな気もする。映画の世界はあくまで、人間の目や耳や観念を通して描かれ、認識される世界なのである。
・けれども、そうでもないぞ、と思う映画もある。最近の映画にはロック音楽がよく使われる。それは星のように、こちらから思いを馳せるものではなく、向こうからやってきて、否応なしに耳から侵入して鼓膜をふるわせ、頭蓋骨を振動させる。例えば「トレインスポッティング」、あるいは「ブルー・イン・ザ・フェイス」(どちらもレビューで紹介済み)。ジム・ジャーミシュやヴィム・ヴェンダースの映画にもこの種の音楽がよく使われる。よく聞こえてきて、聴かれることをあからさまに主張する音楽。しかも、この音楽がなければ、映画に描かれる世界自体が成立しにくくなってしまう。一体この音は何なのだろうか?それは、この本には書かれていない、新しい疑問である。
0 件のコメント:
コメントを投稿
unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。