1997年12月8日月曜日

テレビ批評はいかにしたら可能か?

 

  • インターネットでビデオ・リサーチのホーム・ページにアクセスして、視聴率の資料を入手した。これは便利なページで近いところでは先々週のデータから始まって去年一年間のベスト50、あるいは調査が始まって以来のベスト100なんてのもある。ホームページは資料やデータの集め方を劇的に変える。こんなページがあると、そんなことばが誇張ではなく感じられる。
  • さっそく講義で資料として学生に渡して使ってみた。「先々週、あなた達はどんなテレビを見たか?」結構見ている人(4時間/日)も全然見ていない人もいたが、平均すると2時間強といったところ。ぼくもたぶんそのくらいは見ている。学生からの回答は予想通り、「音楽」「ドラマ」それに「バラエティ」に偏っていて、高視聴率のものをよく見ていた。ぼくはというと「音楽」「ドラマ」「バラエティ」はまったく見ていないし、見たものでジャンルごとのベスト10に入ったものもなかった。
  • 当然、なぜこんなに違うのかな、という疑問が生じる。だから「どこがおもしろい?」と聞いたのだが、はっきりした答えは返ってこなかった。「ただ何となく」「友だちとの会話についていけなくなるから」。朝から一日中よく見続けるという学生がいて、あまりのくだらなさに腹が立つんだけど、決してスイッチを切ろうとはしない、そんな自分にも腹を立てながら、毎日見ている、というのがあった。ぼくにもそんな生活をした時期があって、わからないではないのだが、教師としてはついつい「もっと自覚的にテレビを見ようよ!」などといってしまう。
  • それでは、ぼくは先々週、一体何を見たんだろう。と考えたけど、ほとんど思い出さない。食事時にニュースを見て、その後は大体、TV大阪の食べ物や温泉を紹介する番組を見ている。この局は毎日必ずこんな番組をやっているから徹底している。たぶん低予算で視聴率をある程度稼げるためだ。そのほかに見るのは映画とスポーツ、それにドキュメントだろう。ただ、この種の番組を見ていると、CMに邪魔されるのが気になってくる。だからリモコンを手から離さず、あちこち変えまくるザッピングが習い性になってしまった。
  • J.フィスクは『テレビジョン・カルチャー』(梓出版社)のなかでCMで中断するテクストと視聴者が手にしたリモコンがテレビを日常そのものにしたこと、完成されたテクストを作り出すのはむずかしいが、送り手側に操られてしまう危険性も少ないメディアになったことを指摘している。確かにそうだと思うが、「豊かさ=浪費」の象徴のようにも思えてしまう。
  • テレビは惰性で見る。ぼくも基本的にはそんな風にしてテレビとつきあってきた。ただ最近チャンネル数が増えて、積極的に見ようとする番組も見つけやすくなってきたようだ。しかも、最近増えたチャンネルはほとんどがコマーシャルのない番組で構成されている。NHKはあまり好きではないが、BSにはいい番組が少なくない。こまめにチェックをしていくとかなりおもしろい内容に出会えるし、資料として残しておく価値のあるものも多い。
  • 最近テレビの見方が変わったことを実感しはじめている。仕事がらかもしれないが、それ以上に選択できるチャンネル数の増加が原因のような気がする。来年には、見られるチャンネル数は数百にもなるそうだ。もちろん淘汰されるとは思うが、自分の関心や好みに合うチャンネルや番組が増えたらいいな、と思う。そうなってはじめて、テレビにも、フィスクの言うような、視聴者がその見方によって独自に再構成する世界が作り出される可能性が生まれる。それはまた、テレビ批評が可能になるときであるのかもしれない。
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。