1998年1月19日月曜日

『ザ・ファン』(1996) 監督:トニー・スコット、主演:ロバート・デ・ニーロ 、ピーター・エイブラハムズ(原作)早川書房

  • 最近はすっかり、映画をテレビ、それも衛星放送で見る習慣がついてしまった。だから新しい映画は、大体1年遅れで見ることになる。ビデオをレンタルする気にもならないのは不精の極みのような気もする。が、それでも不都合はないのだから、便利になったことを感謝すべきだろう。映画レビューが時期はずれになるのはちょっと気がかりだが、別に最新の映画情報のつもりではないから、さして問題だとも思わない。
  • とは言え『ザ・ファン』はずっと気になっていた。テーマである「ファン」に関心があったからだ。で、原作はちょっと前に読んだ。原作と映画の違いはよく議論されるところだが、デ・ニーロを想像しながら読んだせいか、映画を見てほとんど違和感を感じることはなかった。ただ、舞台がシカゴからサンフランシスコに変わり、チームが「ホワイト・ソックス」から「ジャイアンツ」に変わっただけのことである。原作でも、自分勝手の「ファン」の恐ろしさは感じられた。しかし、映画でのデ・ニーロの演技は、それ以上だった。彼は時に演技が過剰になりすぎて、食傷気味になる(最近では『フランケンシュタイン』)が、今回は彼以外にはできない役のように感じられた。
  • 他球団から超高額の年俸でスラッガーがひいきチームにやってきた。しかもその選手は地元の出身である。主人公のギルは今年こそ、おもしろい試合が見られると期待する。彼は妻とも離婚して、息子ともめったに会うことができない。ナイフの会社のセールスをやっているが、成績が悪く、父が創業者であるにもかかわらず、解雇寸前のところにいる。で、目下の関心は野球だけ。ところが、その期待したレイバーンは極度の不振。つけるべき背番号11をチーム・メートのプリモがゆずらない。原因はそこにあるのかもしれない。しかもそのプリモは絶好調。ギルは背番号の交渉に自分が一役買おうと考える。
  • ギルはプリモを殺し、レイバーンの調子は戻る。ギルはレイバーンに感謝してもらいたいと思う。しかし、レイバーンはファンなんて勝手なヤツはクソくらえだという。ギルは許せないと思う。そしてレイバーンの息子を誘拐。映画としてはぞっとするほどおもしろかった。けれども、ファンのイメージがこんなふうにして強調されるのは危ないな、とも思った。
  • ファンについては、社会学でも、最近よく研究されるようになった。学生の関心も高くて、例えばぼくのゼミでは去年、バレーボールの追っかけ、ロックのグルーピーをテーマに論文を書いた学生がいたし、今年は宝塚ファンをテーマにした論文があった。あるいは小説やマンガや映画とその作者をテーマにする場合も多い。そのすべてに共通しているのは、自分自身がファンだという自覚である。好きな対象、自分自身がそうであるファンについて考えるから、当然批判めいたことが書かれないという不満はあるが、何かのファンになること、ファンであることの積極的な意味を力説するという点ではどれも説得力があった。
  • ファンについての社会学的研究も、かつてのような病理現象的な扱いから、ごく普通の人にとってのアイデンティティ形成の一要素、というものに変わってきている。例えば、有名なのはマドンナとそのファンがもつ「ウォナビー」(私もなりたい)という意識だろう。これは、もちろん、自分もスターになりたいといったものではない。むしろマドンナのように男に従うことなく積極的にいきる女になりたいという意識である。
  • ファンとはけっして、スターを盲目的に愛し、同一化し、あげくは自分とスターとの違いを見失なってしまうといった存在ばかりではない。自分が自分である、あるいは自分らしい自分を捜す。そのために誰かのファンになる。そんな傾向の方が、現実的には圧倒的に多数派を占めているはずである。『ザ・ファン』は「ストーカー」といった話題とともに、そんな現実を不必要に歪ませる結果をもたらしかねない。この映画に夢中になりながら、一方では、そんなこわさも感じてしまった。
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。