・ひきつづき、メディアとスポーツ関連の本について、というわけでもないんだけれど、今週もまた似たような話題です。
・ラジオの実況中継がスポーツを大きく変えたことは、すでによく言われている。しかしこれまで、具体的な話も、理論的な展開についても、ラジオについてはそれほど豊富ではなかった。学生に聞いても、ラジオはほとんど聴かないと言う。聴いているのはお年寄りばかり。テレビその他の新しいメディアに押されて、ラジオはほとんど忘れられようとしている。そんな気がしないでもなかった。
・ラジオが話してと聞き手との間に直接的なコミュニケーションの世界を作りだすこと、それがしばしばきわめて親密に感じられることを指摘したのはM.マクルーハンである。彼はそのような世界の特徴を「部族的連帯」と呼んだ。このような特徴をうまく使ったのは、一方ではA.ヒトラーやF. ルーズベルトで、ラジオというメディアが情報操作に弱いことを示す好例としてよく紹介される。けれども他方では、ラジオはロックンロールやロック(FM)の登場には欠かせないメディアになったし、アメリカのプロスポーツ、特にメジャー・リーグを国民的なスポーツにするのにも大きな役割を果たした。日本では、何より大相撲、そして、オリンピック。
・ラジオが人びとに新しい世界を一つ提供したことはまちがいない。すぐ目の前でしゃべっているかのように感じられるアナウンサーの声が伝えてくる世界は、聴き手が想像力を働かせてはじめて再現できるものである。その現実とも空想ともつかぬ不思議な世界に対する驚き、それによってもたらされるきわめて強い興奮。これはテレビを知ってしまった者にはわからない感覚である。
・志村正順は昭和11年にNHKに入りスポーツ放送の主流がテレビになる東京オリンピックの頃まで、大相撲、東京六大学野球、あるいはプロ野球やオリンピックの中継で第一線の人気アナとして活躍した。スポーツ中継はあくまでジャーナリズムであるから、ニュースと同じように正確に、偏りなく、冷静に伝えなければならない。これがNHKの基本方針だが、ラジオによるスポーツ中継はけっしてそうではなかったようだ。誇張や脚色、あるいは全くの作り事が、時に聴いている者に、強い迫真力をもたらす。彼の語りの特徴はまずそんなところにあった。
・沢木耕太郎の『オリンピア』はベルリン・オリンピックの記録映画『民族の祭典』とその作者であるレニ・リーフェンシュタールとのやりとりから始まる。この映画の中には、実写ではない部分、わざとネガを反転させた箇所がずいぶんある。すでに90歳をすぎた作者の記憶は定かではないが、沢木はそれを、リアルに見せるための工夫だったと判断する。リアル、あるいは迫真力とは何か?たとえばベルリンで有名なのは例の「前畑がんばれ!前畑勝った!」の実況中継だが、ここにはいくつかのことばの連呼以外に何の描写もないにもかかわらず、聴いていた日本人を興奮の渦に巻き込んだという事実がある。
・映画『ラジオの時間』が暴いていたように、ラジオにはそれらしく聞こえさえすればいいという特徴がある。口だけ、音だけでどうにでもなる世界。今さらながらに、おもしろくて、怖いメディアだと思うが、そのような世界に浸りきるナイーブさを、残念ながら僕たちはもう持ち合わせてはいない。ここに紹介した2冊は、まさにそんな古き良き時代に思いを馳せるノスタルジックな本という感じで読んだが、ラジオのメディア的な特質は、もっともっと考えられていいテーマだとも思った。