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名神高速道路京都南インターチェンジ
北陸道分岐点から伊吹山 駒ケ根SAから駒ケ岳を望む↑ 駒ケ岳と中央アルプス↓ |
♪〜根室の空を飛んだり |
八ケ岳↑ 甲斐駒ケ岳方面↓ |
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愛車、河口湖、そして富士山 |
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愛車、河口湖、そして富士山 |
・ぼくはもう10年を越えるマック・ユーザーで、ウィンドウズなどはいまだに使いたくないと思っている。使い慣れていることが一番だが、こだわるのは、情報操作の巨大な装置だと考えられていたコンピュータを、個人が自己表現やコミュニケーションに使う道具としてつくりかえたのが「アップル」だったことにある。その発想の中に、60年代のカウンター・カルチャーの思想が感じられたのが、ぼくが飛びついた最大の理由だったからだ。その「目から鱗」といった衝撃の体験が忘れられない。
・パソコンの形を作った「AppleII」から最近の「i
Mac」に至るまで、アップル社にはさまざまな出来事が起こり、作られた製品にも出来不出来があった。熱心なファンの一人として、ぼくは時にユーザーであることを鼻高々に吹聴し、また胃に潰瘍ができるほどイライラさせられた。その10年間のつきあいを、ぼくはきわめて貴重なものとして感じている。実際「Macintosh」と出会わなければ、この10年は、まったく違ったものになっていただろうと思う。
・ジム・カールトンの『アップル』は、アップル社の創業者でマックの生みの親であるスティーブ・ジョブズが解任される前後、つまり80年代の後半から、現在に至るパソコン界の動向をアップルを軸に追ったきわめて面白いレポートである。アップル社にずいぶん厳しく、ビル・ゲイツに好意的だという不満はあるが、アップル社やパソコンのもつ意味について、ずいぶん貴重な示唆を与えてくれる本だと思った。
・パソコン市場を自覚させたのが「AppleII」だったとすれば、現在のような操作方法を方向づけたのは「Mac」だった。「Mac」は、さらに、コンピュータが文字入力や計算ばかりでなく、映像や音声、あるいは出版編集に有効なことを実現させた。その「Mac」がなぜ、パソコンの標準機になれなかったのか。著者によれば、それは何よりも歴代の経営陣がとった戦略の失敗にあったという。
・たとえば、ビル・ゲイツは「Windows」開発前後に、「MacOS」のライセンス公開をジョン・スカーリーに申し出ている。それに応じていれば、「Windows95」などは登場しなかったか、あるいは「MacOS」を大幅に取りこんだものになっていたかもしれなかった。そうなればもちろん、ハードもDos機と同様に、さまざまなメーカーが生産していただろう。あるいは、ウィンドウズ3.1が市場で受け入れられたことに危機感を持ったアップル経営陣が、インテルのCPUでも動くMacOSを独自開発したそうだ。「スターウォーズ計画」という名だったが、完成目前で中止されている。
・このような話が『アップル』には次々と出てくる。日本の家電メーカーとの提携、IBMとの合併話、あるいはサン・マイクロシステムズの買収やその逆のケースなどなど。そのすべてが成立直前まで行って頓挫した。その間に馬鹿にする対象でしかなかった「Windows」に追いつかれ、小型軽量の「PowerBook」は開発できず、インターネットで出遅れることになる。企業経営や市場競争のゲームという点から見れば、ジム・カールトンが描き出したように、アップル社は、最高の技術を最低の経営戦略でだめにした驚くべき会社ということになるだろう。けれども、ぼくはこの本を読みながら、それがまたアップルの宿命だったのではと思った。
・アップルの歴代の経営者がこだわったのは、何よりアップルやマックのアイデンティティである。ヒッピー青年だったジョブズとウォズニアクが自宅のガレージで作った道具。その手作り的で自由、つまり反管理を精神にした創造的な機械。アップルやマックの魅力の核心を保ちながら、パソコン市場を支配する。しかし、この本来相容れない目標を両立させるのは不可能である。ビル・ゲイツはMsDosの開発からウィンドウズやインターネット・エクスプローラーに至るまで、すべてを買収やパクリで手に入れ、経営戦略と法廷闘争の巧みさで業界標準に仕立て上げた。それはまさに、思想の違いというほかはないものだが、その両立という使命に、アップル社の歴代経営者は呪縛され続けてきた。
・そのアップルの生みの親であるスティーブ・ジョブズが戻ってきて「i
Mac」を作り、落ち続けたシェアが回復しはじめた。彼の戦略は、全機種を青や赤のスケルトンにしたかわいらしいマックで巻き返しをはかるというもののようだ。かわいらしくて使うのに恥ずかしさを感じるぼくとしては「ちょっと待ってくれよ」という気がするが、おもしろくなったことはまちがいない。ぼくは、ジョブズが作ったんだから彼が最後につぶしたっていいではないかと思う。けれども、できれば、マイノリティではあっても、独創的な道具を生みだす企業としてずっと元気でいてほしいと願っている。たぶんそのことはビル・ゲイツだって望んでいるはずだ。独禁法もあるが、彼には漁夫の利を得るセカンド・ランナーという役割しかできないのだから。
・テレビの時代が英雄を有名人にかえ、旅を観光に変容させることをいちはやく指摘したのはD・J・ブーアスティンだった。彼は、それを「疑似イベント化」とよび、人物や場所、あるいは出来事はもちろん、思想や宗教など、ありとあらゆるものにおよぶ現象として批判的に論じた。そのブーアスティンの指摘から40年近くがすぎて、「疑似イベント化」の様相は、それがあたかも「自然」であるかのようになってしまっている。本書はその変容を「有名性」をキイワードにして読みとこうとする意欲作である。
・「有名」であることは、必ずしもそれを裏づける根拠を必要としない。ブーアスティンはそれを「有名人は有名であるから有名なのだ」というトートロジーでしか定義できないものとした。テレビはまさにそのような実態をもたない「有名性」を生産するあたらしい「文化装置」として登場したのだが、そのブーアスティンの時代からいったいなにがどのようにかわったのだろうか。
・テレビはますます肥大化し、人びとの日常生活の必需品となった。本屋の店頭にならぶ雑誌の種類の多さはもちろん、情報入手やコミュニケーションにつかうメディアも多様化して、携帯電話をもちパソコンでインターネットをすることがあたりまえになった。都市の変容、地縁・血縁関係の希薄化や崩壊、さらには直接的なコミュニケーションが苦手で、すぐに「むかつき」「きれる」世代の登場………。かつての人間関係のもち方の衰退や機能不全と、それにかわるあたらしいネットワークの興隆。そして「アイデンティティ」の変容。メディアの問題がひろく社会や文化、そして個人といったテーマと連動させて論じなければならないテーマになったことはまちがいない。
・そのような状況変化をどうとらえたらいいのか。著者は「メディアによる共同体」ということばをつかい、そこで人びとをたばねる役割をするものとして〈有名性〉を位置づけている。私たちは日々の大きなニュースや生活情報はもちろん、流行やゴシップ、さらには雑学的な知識の大半を、テレビや雑誌や新聞からえているが、その価値を、情報や知識それ自体よりは「みんな」と今を共有しているという実感にもとめがちある。それはまるで、直接的に経験できる世界での共同体感覚にたよれない代償に、「メディアの共同体」を存在基盤として感じているかのようである。テレビのワイドショーは直接つきあう人びととの間で確実に共有できる話題である以上に、近隣のうわさ話そのものなのである。
・本書では、このような視点から、「ワイドショー」のほかに、情報誌と都市空間の関係が「〈有名性〉にあふれる場所」としてあつかわれているし、青年(若者)の外見へのこだわりが、身体の記号化とメディア体験の共有の関係として分析されている。そして、後者についてはさらに、それが、「アイデンティティ」の問題ともふかくかかわりあっていることが指摘されている。「〈有名性〉をめぐる欲望がメディア崇拝に転化している時代において、特定の個人や集団のアイデンティティが語られるとき、それを語るのが当事者であろうとなかろうと、その社会の中に既に大量に蓄積されている〈有名性〉とかかわることなくそれを行うのは、きわめて困難なことになっている。」ぼくもまったくそのとおりだとおもう。
・本書は、その後半で、著者が依拠する「カルチュラル・スタディーズ(CS)」についても論じている。内容はCSの紹介と日本の大衆文化研究との比較といったものだ。CSはアカデミズムの中での最近のはやりであり、著者は、その流れを代表する一人である。したがって〈有名性〉についての分析がCSを土台にしたものであることはいうまでもないのだが、CSの理論紹介が中心であるぶんだけ、前半との間にずれを感じさせてしまっている気がした。
・そのような不満は当然、〈有名性〉にもっとこだわった章が後半でも展開されていたらといった注文につながる。「アイデンティティ論」はほんの序の口のようであるし、情報誌論も表層的な印象を受けた。あるいは、すべてが〈有名性〉によって認識され評価される時代の到来を受けいれたとしても、やはり、そのような傾向に批判的な目を向けることが必要だが、そのような視点の希薄さも気になった。「文化装置」の商魂たくましさや、それにとらわれることへの批判、あるいはメディアにたよりながら、〈有名性〉にとらわれない生き方やアイデンティティの模索………。
・〈有名性〉を共通の知識にすれば、多様性や広がりを可能にするどんなメディアも、同質性にしがみつく自閉的な回路になってしまう。たとえば、世界中に無数に存在するホームページは新しい情報誌だし、衛星放送やケーブルテレビの普及によって多チャンネル化してきたテレビは、その見方によってまったくことなるメディアになる可能性をもっている。ぼくはその取捨選択に、〈有名性〉によって一元化されるものとはちがう「アイデンティティ」や「メディアの共同体」を夢想したくなるのだが、ここでも〈有名性〉は異質なものとのコミュニケーションを妨げる壁になりはじめている。ぼくはそのことにかなりいらついているのだが、著者はいったいどう考えているのだろうか。(図書新聞書評)