1999年3月2日火曜日

石田佐恵子『有名性という文化装置』勁草書房

 

・テレビの時代が英雄を有名人にかえ、旅を観光に変容させることをいちはやく指摘したのはD・J・ブーアスティンだった。彼は、それを「疑似イベント化」とよび、人物や場所、あるいは出来事はもちろん、思想や宗教など、ありとあらゆるものにおよぶ現象として批判的に論じた。そのブーアスティンの指摘から40年近くがすぎて、「疑似イベント化」の様相は、それがあたかも「自然」であるかのようになってしまっている。本書はその変容を「有名性」をキイワードにして読みとこうとする意欲作である。
・「有名」であることは、必ずしもそれを裏づける根拠を必要としない。ブーアスティンはそれを「有名人は有名であるから有名なのだ」というトートロジーでしか定義できないものとした。テレビはまさにそのような実態をもたない「有名性」を生産するあたらしい「文化装置」として登場したのだが、そのブーアスティンの時代からいったいなにがどのようにかわったのだろうか。
・テレビはますます肥大化し、人びとの日常生活の必需品となった。本屋の店頭にならぶ雑誌の種類の多さはもちろん、情報入手やコミュニケーションにつかうメディアも多様化して、携帯電話をもちパソコンでインターネットをすることがあたりまえになった。都市の変容、地縁・血縁関係の希薄化や崩壊、さらには直接的なコミュニケーションが苦手で、すぐに「むかつき」「きれる」世代の登場………。かつての人間関係のもち方の衰退や機能不全と、それにかわるあたらしいネットワークの興隆。そして「アイデンティティ」の変容。メディアの問題がひろく社会や文化、そして個人といったテーマと連動させて論じなければならないテーマになったことはまちがいない。
・そのような状況変化をどうとらえたらいいのか。著者は「メディアによる共同体」ということばをつかい、そこで人びとをたばねる役割をするものとして〈有名性〉を位置づけている。私たちは日々の大きなニュースや生活情報はもちろん、流行やゴシップ、さらには雑学的な知識の大半を、テレビや雑誌や新聞からえているが、その価値を、情報や知識それ自体よりは「みんな」と今を共有しているという実感にもとめがちある。それはまるで、直接的に経験できる世界での共同体感覚にたよれない代償に、「メディアの共同体」を存在基盤として感じているかのようである。テレビのワイドショーは直接つきあう人びととの間で確実に共有できる話題である以上に、近隣のうわさ話そのものなのである。
・本書では、このような視点から、「ワイドショー」のほかに、情報誌と都市空間の関係が「〈有名性〉にあふれる場所」としてあつかわれているし、青年(若者)の外見へのこだわりが、身体の記号化とメディア体験の共有の関係として分析されている。そして、後者についてはさらに、それが、「アイデンティティ」の問題ともふかくかかわりあっていることが指摘されている。「〈有名性〉をめぐる欲望がメディア崇拝に転化している時代において、特定の個人や集団のアイデンティティが語られるとき、それを語るのが当事者であろうとなかろうと、その社会の中に既に大量に蓄積されている〈有名性〉とかかわることなくそれを行うのは、きわめて困難なことになっている。」ぼくもまったくそのとおりだとおもう。
・本書は、その後半で、著者が依拠する「カルチュラル・スタディーズ(CS)」についても論じている。内容はCSの紹介と日本の大衆文化研究との比較といったものだ。CSはアカデミズムの中での最近のはやりであり、著者は、その流れを代表する一人である。したがって〈有名性〉についての分析がCSを土台にしたものであることはいうまでもないのだが、CSの理論紹介が中心であるぶんだけ、前半との間にずれを感じさせてしまっている気がした。
・そのような不満は当然、〈有名性〉にもっとこだわった章が後半でも展開されていたらといった注文につながる。「アイデンティティ論」はほんの序の口のようであるし、情報誌論も表層的な印象を受けた。あるいは、すべてが〈有名性〉によって認識され評価される時代の到来を受けいれたとしても、やはり、そのような傾向に批判的な目を向けることが必要だが、そのような視点の希薄さも気になった。「文化装置」の商魂たくましさや、それにとらわれることへの批判、あるいはメディアにたよりながら、〈有名性〉にとらわれない生き方やアイデンティティの模索………。
・〈有名性〉を共通の知識にすれば、多様性や広がりを可能にするどんなメディアも、同質性にしがみつく自閉的な回路になってしまう。たとえば、世界中に無数に存在するホームページは新しい情報誌だし、衛星放送やケーブルテレビの普及によって多チャンネル化してきたテレビは、その見方によってまったくことなるメディアになる可能性をもっている。ぼくはその取捨選択に、〈有名性〉によって一元化されるものとはちがう「アイデンティティ」や「メディアの共同体」を夢想したくなるのだが、ここでも〈有名性〉は異質なものとのコミュニケーションを妨げる壁になりはじめている。ぼくはそのことにかなりいらついているのだが、著者はいったいどう考えているのだろうか。(図書新聞書評)

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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。