2000年12月18日月曜日

井上俊『スポーツと芸術の社会学』( 世界思想社 )

  • 井上俊さんに出会ったのはぼくが大学院生の時だから、もう30年前になる。新進気鋭の社会学者の授業を受けるというので、興味津々で教室で待ち受けていたが、その若くて華奢な姿に驚いてしまった。そんな記憶が今でも鮮明に残っている。権威のかけらもない姿勢につられて、好き勝手な話ばかりした気がするが、一方で英語の文献をしっかり読む習慣もつけてもらった。大学の教師には教員免許が必要ではないし、教育実習もない。しかし、ぼくにとっては井上さんが学生と接する仕方のモデルになったことはまちがいない。
  • 手本にしたのはそれだけではない。ちょうど最初の著作である『死にがいの喪失』(筑摩書房)が出て、その一見平易な文体と緻密な論旨に感心して、それを自分のものにしたいとまねをした。当時は読む価値のある本は難しいものだという常識があって、その難しい中身をどれほど理解しているかが、良くできる学生のバロメーターであるかのような風潮があった。何度読んでもわからない本に自信を失うことも多かったから、井上さんの本には救われた気がした。
  • そんな井上さんが柔道をやっていると聞いたのは、それからしばらくたってのことで、およそかけ離れている気がして、黒帯姿などはとてもイメージできなかった。柔道は体育会系の中でもとびきりの単細胞で右翼チックな連中のやることと思っていたからだが、この本を読んで、高校生の時に有名な三船十段と知り合ったのがきっかけだと知って、何十年ぶりかで疑問が解決した。
  • 柔道について再認識した点をもう一つ。柔道は日本の伝統的なスポーツと考えられているが、実は極めて近代的なものであり、嘉納治五郎がつくった講道館柔道が柔術の近代化を意図してできたものということ。
    柔道は、単に近代にふさわしいマーシャル・アートであるにとどまらず、近代化にともなう社会の変動のなかでなおかつ変わらない日本人の民族的アイデンティティを象徴する身体文化としての性格もあわせもつことになった。その意味で、柔道は「近代の発明」であると同時に、E.ホブスボウムらのいう「伝統の発明」の一形態であったといえよう。(100-101頁)
  • そう、「伝統の発明」。たとえばブルースだって、フォークソングだって、伝統の中に埋もれていた音楽が再発見され、時代に合うよう作り直されたもので、新たな発明という要素がなければ、埋もれたままでしかなかったのである。嘉納治五郎が目指したのは、本書によれば、日本の近代化とその世界への認知。それは彼が日本のオリンピック参加の推進役になったことでも明らかである。近代国家としての日本を欧米に認識されるために重要な役割を果たしたのが柔道だったという指摘は、おもしろいと思う。柔道に日本的な精神主義が付加されたのは軍国主義以降のことだったのである。
  • 本書のテーマにはスポーツの他にもう一つ「芸術」がある。ただしここで問われている芸術は美術や音楽といった狭い範囲のものではなく、文学、あるいはスポーツをも含む広いものとして扱われている。そこでキイワードとなるのは「物語」である。日常の経験と物語は違う。しかし「人間の経験は物語の性質を持つ」。日常生活を意味づけ確かなものに感じさせるのは、古くは神話や伝説であったし、今では小説や映画、あるいはテレビドラマがある。そのようないわば「文化的な要素としての物語」は次に、私たちが自らを認識したり、他者に示して見せたり、また他者を理解したりするために必要な「相互作用としての物語」に影響する。私たちのなかには例外なく、自分をよりよいものとして他人に見せたいという欲求がある。「自己創出的な相互作用儀礼」。実人生のなかでも、人はドラマを演じるものなのである。
    まず人生があって、人生の物語があるのではない。私たちは、自分の人生をも、他人の人生をも、物語として理解し、構成し、意味づけ、自分自身と他者たちとにその物語を語る。あるいは語りながら理解し、構成し、意味づけていく……そのようにして構築され語られる物語こそが私たちの人生にほかならない。この意味で、私たちの人生は一種のディスコースであり、ディスコースとしての内的および社会的なコミュニケーションの過程を往来し、そのなかで確認され、あるいは変容され、あるいは再構成されていくのである。(163頁)
  • 現代はしっかりとした神話や伝説が失われた反面、様々な物語が氾濫する世界。自己を縛る古くさい慣習からは解き放たれたが、それに代わる自分なりのアイデンティティを見つけなければならない社会。生きられる私を意味づける材料には事欠かないが、逆に確かなものは見つけにくい。文学や音楽や映画、そしてスポーツが、魅力的な物語を供給する手段であり、それが私を物語るための材料になることは間違いないが、それで私のすべてが語りつくされるわけではない。だから次々と新しい物語を必要とし、片端から消費して捨てられる。多様な物語に満ちた世界はまた、私の経験そのものをも確かなものにしにくい世界なのかもしれない。
  • 不確かな物語に依拠して示される自己や他者やその関係は、たえず、そのほころびを露呈する危険につきまとわれる。だから私はいつでも自分が嘲笑や不信の原因になることにおそれと不安感をいだく。若い人たちに感じる言葉遣いや相手との距離の取り方には特に、そんな心理を感じることが多い。しっかりしろと言いたくなるがしかし、そこに向けられる井上さんの視線はきわめて優しい。
    物語への感受性はまた、物語の裂け目やほころびへの感受性でもある。どんな巧みな物語も、多様なバージョンも、人とその人生の全体を覆いつくすことはできない。たしかに私たちは、物語によって相互に理解しあい、関係をとり結んでいるが、同時に一方では、物語によってというよりはむしろ、互いに語りあう物語の裂け目やほころびによって、かえって深く結びつくことも少なくないのである。(164頁)
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。