2000年12月4日月曜日

H.D.ソロー『ウォルデン』その3「孤独」について

 



・紅葉の季節が終わったら、あたりは茶色の世界になった。木の幹や枝、落ち葉、それに久しぶりに見せ始めた地肌。季節は色によって変わる。こんな感覚もずいぶん久しぶりに味わう気がする。色と言えば空。寒くなって乾いてきたせいか、本当に真っ青になった。急に気温が下がって、最低は氷点下。だから早朝は必ず河口湖でできた霧が、森にやってくる。ほんの一時期立ちこめて、さっと消えると、抜けるような青空。夏の間は聞かなかった鳥の鳴き声がまたするようになった。シベリアあたりから戻ってきたのだろうか。「久しぶりだね。元気で何よりでした。」と言いたくなってしまった。 森の中の生活は、冬になって訪れる人が少なくなっても退屈することがない。


ほとんどの時間を一人で過ごすことは健康的だとぼくは思う。たとい相手が選りぬきの人でも、誰かといっしょにいるとすぐに退屈し、疲れてしまう。ぼくはひとりが大好きだ。孤独ぐらいつきあいやすい友にぼくは出会ったためしがない。自分の部屋から出ないときより、どんどん人中に出ていくときのほうが、ふつうはずっと寂しいものだ。考えたり働いたりしていると、人はどこにいようといつも一人だ。(『ウォルデン』206頁)


・もちろんぼくはここで一人で暮らしているのではない。しかし、パートナーはできたばかりの工房で、ほとんど一日中、土と戯れている。だから食事のとき以外は顔を合わすこともない。いっしょにすることと言えば、週に一回の町への買い物ぐらいのもので、後はそれぞれ好き勝手なことをやっている。ぼくは部屋でパソコンとにらめっこをしているか、ストーブにあたりながらのテレビか読書。そしてもちろん外に出て薪割り。親しくなったこの地区の管理人さんが近くで伐採した木を運んできてくれる。それを自分で運べる大きさにチェーンソーで切って、庭まで持ってくる。そんなことをしていると、冬の太陽はあっという間に山に隠れて、夕闇がやってきてしまう。本当に一日が短い。

・ここに引っ越してからパートナーはほとんど遠出をしていない。東京に仕事に出かけるぼくの車に同乗して、時には東京でショッピングや美術館周り、あるいは映画に食事。そんなことがたまにはあるのだろうと思ったが、全然その気にはならないようだ。実はぼくも、仕事に出かけるのがおっくうで、前日から「行きたくないな」などとつぶやいてしまう。行けば行ったで学生や、同僚とのつきあいはそれなりに楽しいのだが、どうしても行きたい楽しみというものではない。だから、数日間東京に滞在したりしていると、たまらなく森の生活が恋しくなる。


交際の代価はふつうあまりにも安すぎる。ぼくらは相手のために何か新しい価値をまだ身につける時間もなかったくせに、ほとんどあいだを置かずに顔を合わせる。日に三度食事の時に顔を合わせ、黴くさい古チーズ同然のぼくら自身をまた新しく味わう。これだけ頻繁な出会いをなんとか辛抱できるものにし、たがいに敵同士にならなくてすむように、礼儀作法という名の一連の規則についてぼくらは合意しなければならなかった。(『ウォルデン』207頁)


・まったくその通り。特に大学というプライドの高い人の集まりは、角が立たぬようにするための配慮ばかりに気をつかう。もちろん夫婦という関係も、また難しい。一日をまるで違う世界で過ごして、それを共有し会う努力をしなければ、それは本当に形ばかりの関係になっていく。しかし、毎日一緒にいればまた、お互いの存在が鼻について煩わしくなりがちだ。同じ空気、同じ温度、同じ景色を共有しながら、それぞれが別々の世界で生活する。そこにももちろん、礼儀や工夫が必要になる。

・「孤独」は一人になれる時間や空間であって、けっして世界から孤立した寂しい状態ではない。それは一人になることで、逆に人とのつながりや他の生き物、あるいは世界との関係を自覚できる瞬間だ。ソローが言うように、森の中ので生活すると、そのことが実感としてわかるようになる。


ぼくの家には実は仲間がわんさといるのだ。特に訪ねてくる者のいない朝のうちが賑やかだ。(『ウォルデン』208頁)


・それはもちろん生き物に限らない。東京にいるあいだに初雪が降った。ぼくのパートナーはそれを喜々として話した。「あー、会えなくて残念」。恋人とのデートに行きそびれたときよりもがっかり。ぼくはそんな気持ちになった。

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