2001年7月30日月曜日

『アイデンティティの音楽』について

 

  • 本がでてから、もうすぐ3カ月になる。大きな新聞や雑誌に書評が載ったという話は聞かないが、ネットではいくつか紹介された。好意的なのは何と言ってもbk1。野村一夫さんの「ほうとう先生の芋づる式社会学」。その第3回の「ロックの文化社会学」で詳しく紹介していただいた。
    20世紀の若者たちがつくりあげたロック文化を時代ごと・論点ごとに論じたものです。とてもバランスのとれた説明になっていて、団塊世代の思い入れを適度な距離感と歴史的文脈に即して説明している好著です。つぎつぎに更新されるメディア技術が導入されるなかで、人口が増大し教育機関に仮収容された形の宙ぶらりんの「若者」たちが、その特定の階級的地位とからんだサブカルチャーをつくりあげ、独特のライフスタイルと音楽を結びつけて育てていくプロセスがよくわかります。
  • 僕自身がロックについて知る過程でわかったことは、日本だけで聞いていたのではわからない音楽と社会背景との関係。この本で伝えたかったことは何よりそのことで、野村さんにきちっと評価してもらえて、ほっとした。同様の評価は『サウンドエシックス』(平凡社新書)の著者である小沼純一さんからもいただいた。
    ロックンロールからパンクのみならず、その後に派生してくるレゲエやラップと「ロック」から派生した音楽まで含まれる。また、アメリカ・イギリスのみならず、旧ソ連や中国にロックがどう受け入れられていったかをも視野に入れている。MTVやダンスといった周辺事項、あるいはカルチュラル・スタディーズに言及しながら、ロックを受け入れ、聴き、楽しんだ少年少女達といった層といったものに目を配ることも忘れてはいない。このような「ロック」を考えるうえでのベーシックなものが、コンパクトに記述されているわけだ。ロック・ミュージシャンには「アート・スクール」の出身者が多いのだが、この「アート・スクール」はもともとウィリアム・モリスの考えから生まれたという事実、そして、そこに通う学生は、裕福になった(労働者)階級の子達であったという指摘など、細部から浮かび上がってくることにも、しばしば刺激を受けもした。
  • もっとも苦言もあって、2部の「ポピュラー論」が論文的で文章が生きていないと書かれてしまった。これは社会学者としての顔も出しておきたいという欲求(見栄?)からのもので、音楽好きの人には読んでもらわなくてもいいと思っていたものだった。bk1ではほかに桜井哲夫さんの書評もあって、最初はAmazonのことばかり言っていた僕も、途中からはすっかりbk1のファンになってしまった。いち早く載せてくださった桜井さんは大学の同僚だから遠慮があったのか、辛口の批評をする彼にはめずらしく、内容の紹介という控えめなものだった。
  • 若い人からの批判が掲示板にのって、思わず本気になって弁明してしまった。名古屋大学の稲垣君は自らパンクのバンドを組みレコードも数枚出している。で、卒論の題名は「アイデンティティと音楽」。僕の書いたものを以前から読んでいてアメリカのL.グロスバーグにも関心をもって読んでいるという。彼の批判は次のようなものである
    ロック史に関する知識的な部分が多くて、アイデンティティに関する生々しさというものが薄められてしまった感があったからです。その生々しい葛藤が描かれないと、「ロックって反抗ですよー」「ああそうですか。ロックは反抗なんですね。」という浅い理解になってしまうとおもいます。その点で、共同体や集団というものを強調しすぎているような気がします。もちろんそれらを抜きにして考えることはできませんが、「ベビーブーマー」などという時、一体どこにそんな集団がいるのか?ほんとにその集団の人々は同じ価値観をもっているのか?という疑問を持ってしまいます。現代におけるアイデンティティは、グロスバーグらが言うように「国民」、「国家」や「完全な個」としての一貫した純粋なものではなく、もっと揺らぎのある不安定なものと考えたほうが良いとおもいます。
  • これに対して、僕が書いた返答。
    ポピュラー音楽について考えようとしたときに、日本人の感覚からとらえるアイデンティティは欧米でのそれとはずいぶん違うことを基本に据える必要があると思いました。同じ国民とは言っても階級の違いによって衣食住から細かな好みまで違う。あるいは人種のそれはもっとはっきりしたものですし、同じようなことはジェンダーなどにも言えることです。僕がアイデンティティということばで示したかったのは20世紀後半のポピュラー音楽を考えるときには、このような背景を歴史的に押さえることでした。
    ロック音楽は一方では、そのような背景を強く否定する方向性をもちましたが、同時に強く影響されもしてきました。そのようなプロセスが世代を経て、あるいはさまざまなところで多様にくり返されたのが、ロック音楽にとって一番強い特徴だったように思います。このように考えると、このような展開とはほとんど無縁に、ただ音楽だけが次々通過していったのが日本だったといこともできるのかもしれません。ただ、階級や人種やジェンダー、あるいは世代といった区切りは、日本はほとんど論外ですが、イギリスやアメリカでもはっきりしなくなってい来ているというのが現状です。グロスバーグが指摘するのはそこに関連してくると思うのですが、ただそれは、たとえば肌の色の違いほどには人種としてこだわることが少なくなった、とか、自分のアイデンティティの根拠として確実なものではなくなったという程度のものとして考える必要があると思います。
    以上、僕は日本の若い世代に、この半世紀ほどの歴史と、さまざまな国の事情を知ってもらうことで、今まで聴いてきた音楽を今までとは違うものとして聞き取って欲しいと思って本を書きましたが、君の感想を読むとやっぱり、なかなか伝えるのはむずかしいな、と感じました。日頃学生とつきあっていて感じるのは、歴史を実体験に近いものとして想像する力がずいぶん失われてきたなということと、日本の常識や日本に住んでいることで持つ感覚が世界のなかではかなり特殊なものであるという自覚です。音楽はきわめて感覚的なものですが、この本を音楽と同じように自分の感覚に引き寄せて読んでしまうと、たぶん僕が伝えようとした意味は伝わらないでしょう。まさに「関心事の地図」がずれてしまっているのです。
  • 彼とはたぶん、これからもいろいろ議論しあうことがあるはずで、楽しみな読み手を見つけた気がした。
  • と書いて仕上がりのつもりでいたら関大の岡田朋之さんの感想がBBSに載った。で、「メディア文化や消費文化の流れの中にきちんと位置づけた意義」を評価していただいた後に次のような批判があった。
    特に前半に言えることですが、著者の思いがイマイチ迫ってこないことです。なんだか非常に淡々としすぎていて物足りない気がしました。意識して抑制的に書かれたのかもしれませんが…。以前に書いたメールで、同時代的なリアリティが湧いてこない、ということを言いましたが、結局それは私の個人的な読み方の問題ではなくて、文体から来るもののような気がします。
    小川さんの名言で、「いい文章からは音楽が聞こえてくる」というのがあります。でも、この本からは聞こえてきませんでした。
  • これに対する僕の返答。
    「著者の思い」はご指摘の通り意識的に抑えました。ロックなどの音楽についてぼくらの世代が何か発言すると、「団塊の世代」とか「ベビー・ブーマー」といった枕詞がついた反応が返ってきてその意味が矮小化される傾向があります。 生まれてから半世紀たった音楽を、そうではないコンテクストのなかで位置づけたいと思いました。
    ……
    好きなミュージシャンやグループばかりについて言及することは控えましたし、誰かに象徴させて語るということも避けました。半世紀の流れを網羅しようと思いましたから、いろんな音が出てきて相殺されたのかもしれません。ただ、控えはしましたが、どこを書いているときでも、ぼくの頭のなかにはそれぞれ音楽をイメージしていましたから、できましたらそのつもりでもう一回読み直してみたらどうでしょうか。
  • こう書いた後に、ふと気がついた。岡田さんは音楽について文章を書いているがほとんど日本のものに限られている。彼が名前を出した小川博さんもそうだ。ところがこの本では、僕は日本の音楽はほとんど無視してしまった。彼の不満はそこにあったのかもしれない。『アイデンティティの音楽』は日本の音楽状況や社会背景とは異なる世界に光を当てたものだから、稲垣君も含めて、読者には同じような不満を感じる人が少なくないのかもしれないと思った。けれども、僕は日本のポピュラー音楽にはほとんど興味を持てないままに過ごしてきたし、研究対象として無理して聴こうとも思わなかった。たぶんこの姿勢はこれからも変わることはないだろう。「同時代的リアリティ」のずれの原因なのだろうか。
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。