2001年12月17日月曜日

手紙とメールの恐怖

  • アメリカでは、手紙に混入された炭疽菌で何人もの人が死んだ。テロの一つとして考えられているが、本当のところはよくわからないようだ。封書を開けるのが恐い。あるいは手紙が届くのさえ恐ろしい。こんな経験を何億もの人が同時にするのは、たぶんはじめてのことだろう。
  • この手紙にはもちろん、送り先があって、メディアだったり政府機関だったりする。それは特定の人や組織に対する攻撃だが、届く過程で被害にあった人も少なくない。郵便局員は当然危険だが、たまたま菌の入った封書と重なった手紙、封書を開けたときに居合わせた人などと考えていくと、これはやっぱり、姿を隠した人間が無差別に無数の人びとに危害を加えることを意図した行動だといわざるをえない。まさに匿名社会がもたらす恐怖である。
  • 手紙は、おなじ場所に生きて関係を続ける人たちが離ればなれになるところから普及しはじめた。たとえば、田舎から都会に出ていく、あるいは別の国に行く。理由があって離れてはいるけれども、私とあなたの関係は親密なものです。手紙はなによりそんな気持ちを確認する手段だった。今はそれが年賀状や暑中見舞いとして形骸化しているけれども、やっぱり久しぶりに来た知人からの便りには懐かしさを感じたりする。
  • もっとも、最近では、配達する手紙にふくまれる私信の数はめっきり少なくなった。やってくるものの大半は、ダイレクト・メールか仕事に関係している。味も素っ気もない茶封筒は、差出人を見て、用がなければ開けもしないでストーブや焚き火にほうり込んでいる。それでも、森の中に住んでいると、昼頃にやってくる郵便屋さんに心が躍るということはある。そういう意味では、手紙に期待する気持ちが、ぼくの中にはまだ残っている。
  • とはいえ、自分で出すということになると、とたんに面倒に思ってしまう。メールを使うようになってからは特にそうだ。メールは汚い手書き文字ではないし、しかも遠くのポストまで歩いていく必要もない。これなら、来たものにすぐ返事が出せるし、出したものにもすぐ返事が来る。必要なら返事の返事、返事の返事の返事といくらでもできる。しかも、電話のように無駄なおしゃべりをする必要もない。だからぼくはここ数年はもっぱらメールで楽をしてきた気がする。
  • ところが、そのメールにも煩わしいことや、恐いことがある。まず以前にも書いたように、ジャンク・メールの山。これは国内にかぎらない。AOLのアドレスにはヴァイアグラや投資、それにアダルトサイトからのメールがうんざりするほど舞い込んでくる。最近ではもう、開けもしないですぐ削除。ストーブにほうり込む手紙と一緒である。
  • それでも手紙よりはまだましと思っていたのだが、しばらく前から、添付ファイルのついた<RE:>という題名のメールがやたらと飛び込んでくるようになった。侵入してはいろいろと悪さをする、新手のコンピュータ・ウィルスらしい。もっとも、ぼくはまだ実害を受けていない。たぶんマックを使っているせいだと思う。ウィンドウズでエクスプローラーやアウトルックを使用している人に被害が多いようだ。
  • 手紙と違ってメールは世界中どこにでも即座に届く。一つの内容が拡散するのも手紙とは比較にならないほど早い。それにくっついてくるウィルスは、気づかぬうちにパソコンのデータを改竄したり破壊したりするから、実際上は全くの無防備と言っていい。個人でいくら注意しても、炭疽菌と一緒で防ぎようがない。これはサーバーでシャットアウトできるのではと思うのだが、大学ではぼくはもちろん、学生の所にも次々やってくる。AOLのアドレスには来ていないから、こちらは対策済みなのかもしれない。そうだとすれば、電算室にはもうちょっとしっかりして欲しいと思う。
  • 院生の一人がウィルスでパソコンが動かなくなったと言った。彼は今修論を書いている。誰が送りつけたかとんでもないと思うが、送る方はそんな相手の状況など知りもしない。もちろん、被害を被った方にしても、なぜ送られたのか見当もつかない。世界大に広がったネットワークのなかを顔の見えないメールが無数に飛び交っている。いたずら心にせよ、特定の意図があるにせよ、数多くの人が迷惑を被り、被害にあう。それは、テレビもなく、なぜ攻撃されるのかもわからずに爆弾を落とされるアフガニスタンの人たちが感じる気持ちと、どこか通じている気がする。「不条理でアノミーな世界」になったな、とつくづく思う。
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。