2002年2月25日月曜日

亀山佳明『子どもと悪の人間学』 (以文社)

  • 最近ブック・レビューのペースがおちた。愚痴やいいわけになるけれども、理由は、落ちついて本を読む時間がないからだ。読書は趣味であると同時に仕事でもあるから、時には何冊も積み上げてつぎつぎに読むこともしたいのだが、そんな態勢になかなかならない。しかも、去年のブック・レビューをふりかえると、自分でみつけておもしろいと思ったものよりは、友人関係のものの方が多い。たとえば、桐田さん、庭田さん、原田さん。中野さんのも「図書新聞」に依頼されたものだった。とはいえ、義理や礼儀で書いているのではない。むしろ、読んで書かねばと自分に言い聞かせている感じで、これがなかったら、ブック・レビューはもっと少なかったかもしれない。で、今回もそんな一冊である。
  • 亀山佳明さんは龍谷大学の社会学部の先生で、ぼくは去年の11月に彼の企画した「ビートルズ」のシンポジウムに招かれた。また3月には筑波大学で開催された「スポーツ社会学会」のシンポジウムでも同席した。もうすぐ井上俊さんの退官記念論集が出るが、彼はその編者で、ぼくも書いている。題名は『文化社会学への招待』(世界思想社)。同世代で、関心も重なっている。ともに、井上さんを師と仰いでいるが、2人とも、直接の教え子というのではない。
  • 『子どもと悪の人間学』 は10年ほど前に筑摩書房から一度出た本の改訂版である。実はこれも縁があって、ぼくもほとんど同じ時期に『私のシンプルライフ』と『メディアのミクロ社会学』を筑摩書房から出した。編集者もおなじで勝股光政さん。この本は、その勝股さんがつくった「以文社」から出ている。
  • 読んであらためて感心するのは、ぼくが10年以上前に出した2冊とちがって、時代遅れになっていないことだ。多作でないぶんだけ、一つひとつの論文の命が長い。それにくらべると、僕の書くものはことの本質よりは時代の雰囲気に目がむいていて、10年もたつと、ノスタルジックなものになってしまっている。今回読み直してみて、あらためてそんな思いを強くした。
  • この本がテーマにする「子どもの悪」は性と暴力と嘘。どれも最近の現象に関連するテーマだが、彼の視線は「近代」そのものにむかう射程の長いものだ。たとえば「嘘」を悪と考え、真実に価値をおくのは近代社会の特徴だが、子どもと嘘の関係はまた、子どもが成長して自己を確立していく上で不可欠のものでもある。彼によれば、子どもの嘘には二つの特徴がある。
    ひとつは「遊びの性格をもつうそ」であり、もう一つは「機能的な特徴をもつうそ」、なかでも「防衛の機能を持つうそ」である。(pp.102-103)
  • 子どもは空想と戯れる。それは想像力を育てることとして奨励される。またそれは、「ごっこ遊び」のように社会における自分の役割の取得にも欠かせない。けれども、もう一つの「防衛的なうそ」は、真実を曲げて他人に伝えることとして禁圧される。「正直モラル」が近代社会における人間関係の基本にあるからだ。利己的にうそをつく人間は人から信用されないから、子どものつく「防衛的なうそ」は親にとっては許されないことになる。
  • しかし、「防衛的なうそ」はまた、自我を確立する上で不可欠のものでもある。「パーソナリティの形成は、拘束からの漸次的な解放とともに達成されてゆく。子供の自己意識は、両親からの心理的分離が自覚されるときにはじまる。」だから、それを大人から抑圧されれば、子どもには自我の確立という機会が失われてしまう。といって野放しにすれば、「正直モラル」は根づかない。
  • 同じようなしくみが「暴力」や「性」にもあてはまる。一方での「解放」と他方での「抑圧」。その矛盾は、バランスを取ることで対処するしかないものだが、その取り方は多様で、またその結果も一様ではない。だから、直接子どもと関係し経験する親や大人たちは、その個々のケースではどうしたらいいのか途方に暮れてしまうほかはない。
  • この本には「子どもの悪」についての対処法は書かれていない。それを期待して読んだら、むずかしいだけで役に立たない本だが、子どもについて、あるいは大人と子どもの関係についてのしくみはよくわかる。どうしたらいいかではなく、どうなっているかを見つめる。それは社会学者としてきわめて誠実な姿勢だと思う。
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。