2002年10月14日月曜日

煙草の吸える場所

・東京の千代田区で歩行中の喫煙が禁止されるようになった。違反をしたら2千円の罰金だという。世論の支持は強いから、近いうちに、あちこちに同様の条例ができるだろう。スモーカーにはますます居心地の悪い世界になる。外に出かけたら、うっかり煙草は吸えない。今さらながらに、そんなことを自分に言い聞かせなければならない。 ぼくは煙草を吸うから、えらそうなことは言えないが、スモーカーのマナーがいつまでたっても改善されないのは事実だ。たとえば、歩きながら煙草を吸って、そのまま道路に吸い殻を捨てる。あるいは車を運転しながら喫煙して、やっぱり道路にポイ。こんな光景をしょっちゅう見かける。歩きながら吸いたければ携帯の吸い殻入れをもてばいいし、車には灰皿がついているはず。もっともドライバーが運転中に窓から捨てるのはタバコにかぎらない。空き缶、ペットボトルなどをグリーンベルトに置き去りにする。道路は同時にゴミ捨て場なのが現状である。 

 ・ぼくの勤める大学は住宅街に隣接している。国分寺駅からの通学路は民家の並ぶ路地でもある。そこを学生たち(ひょっとすると教職員も)が煙草を吸いながら歩く。で、吸い殻を道ばたにポイ。当然周辺からは苦情が来る。だから、清掃の仕事は学内ばかりでなく、通学路をずっとたどることになる。 ・ゴミを所定の場所以外に捨てることが、無神経なマナー違反であることは、誰でも知っているはずだ。ところがまた、ほとんど自覚なく、平気でポイしてしまう。これはもちろんタバコにかぎらないし、場所を選ばない。

 ・河口湖には多くの釣り客や観光客が来る。美しい環境を求めてやってくるはずだが、やっぱり平気でゴミを散らかして帰る。だから湖畔にはさまざまなゴミが散乱してしまう。それをやっぱりボランティアの人たちや町の職員が拾って回るのだ。吸い殻はもちろん、釣り針、釣り糸、ルアー、バーベキューの残骸………。実際、連休の後などはひどい状況で、うんざりしてしまう。 

・タバコを巡る問題は、ひとつはこのような公共の場でのマナーやルールにある。なにげなくする喫煙やポイ捨てによって迷惑を被る人がいる。あるいは、汚したり散らかしたりした後始末する人がいる。このような行為を条例で罰するのは、それを自覚できない人が多いのだから仕方がないことだと思う。ぼくは数年前から携帯の灰皿をポケットに入れている。それでちょっと得意になって歩きながらの喫煙をしていたのだが、これからはそれもやめなければならない。タバコを気兼ねなく吸える場所はどんどん狭まっている。

 ・ぼくの研究室は夏休みに改装工事をして、今までの1.5倍の広さになった。テーブルを大きくして、学生たちがゆったり座れるようになったから、大学院の授業はやりやすくなった。これで長時間になっても、休憩して部屋の外で吸う必要がなくなるかなとも思ったが、換気の悪い部屋だから、煙はやっぱり部屋にこもってしまう。窓を開けたりドアを開けて風通しをよくしてみたりしているが、分煙のできる空間にはなりそうもない。もちろん、ひとりの時には気兼ねなく吸っているが、いったん外に出て帰ってくると、タバコの臭いがかなり強く残っていることに気づく。プライベートな空間でも他人が入ってくれば公的な場として考えなければならないから、この臭いはやっぱり気になっている。

 ・学部のゼミの学生を研究室に集めると、飲み残しのペットボトルやゴミをそのままテーブルに置いて帰ることが少なくない。気がつけば「ここはぼくの部屋だよ。そのゴミ誰が捨てるの?」と言ったりするのだが、置き去りはいっこうに減らない。しゃくにさわるが、ただ叱るのではなく、人間関係についての話の材料することにしている。 

・人との不要な関わりを避ける作法をE.ゴフマンは「儀礼的無関心」と呼んだ。しかし、それは文字どおりの無関心ではなく、関わらないようにたがいに配慮しあう気持、あるいは行為を指し示している。ゴフマンは都市で暮らす人々にとって何より重要な意識が、この儀礼的無関心であるといった。単なる無関心と儀礼的無関心。この違いは微妙なもののように思えるが、タバコやゴミを例にして考えれば、一目瞭然のことでもある。

 ・ここにぼくがいるということを必要以上に意識させないこと、そこにいたという痕跡をやたらに残さないこと。「儀礼的無関心」は都市に住む人間が自然に身につけるものではなく、自覚して学ばなければならないことだが、日本人にはこの意識はほとんど根づいていない。そこにはもちろん、世代の違いもない。

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