2003年8月11日月曜日

読書の衰退

 大学生が本を読まない、というのは、もはや当たり前のことになった。携帯などのコミュニケーション・ツールにお金がかかることもあるが、そもそも、本を読む必要性を感じなくなっているのだ。だから、講義やゼミでまず心がけるのは、本を読むことの必要性ということになる。


僕はゼミを研究室でやっている。理由の第一は、部屋の壁に並んだ書架の本に関心をもたせるためだ。たとえば学生に自分の興味や関心にそってそれぞれ発表させる。最初の発表では、本を読んで参考にしてくる学生はほとんどいない。だから、部屋にあるぼくの本を見せて、「これを読んでご覧」と貸し出すことにしている。必要なら図書館に行けばいいし、生協で買ってもいい。しかし、アドバイスをしないと本を探さないし、見つけてきても的はずれなものが多いのだ。それにインターネットという便利なものができたから、それを使って検索して、適当にまとめてしまう。自分で探して、自分で読んで、それで考える。放っておいたら、そんな作業はまずしない。そこを念頭において、学生とつきあわなければならない。そんな時代になった。


追手門で教えた卒業生のW君から近況を伝えるメールが来た。彼は仕事を何度か変えている。大学院で勉強しなおそうかとか、教員免許をとろうかとか、その都度相談をしてくる。何を選んでも厳しい道だが、迷いながら懸命に自分の道を探そうとしているから、ぼくもずっと気になっている。そんな彼が、高校の図書室で司書として働きはじめて感じたことを書いてきた。

この間は、閲覧室の壁際に大きなスペースを占めていた文学全集を部屋の奥に片付けて、代わりに芸術、芸能、スポーツ関係の本と日本の小説を入れ替えました。これ だけで、雰囲気はずいぶんと変わりました。
高校の先生方は、「子どもは本は読まない」と頭から決めつけているところがあって、前々任の司書の方も文学全集ばかり買って選書は年に一度という状態だったので ぼろぼろの新書・文庫やいかつい文学全集ばかりになっていました。読みたくない本 ばかりの図書館なんてはじめから興味をもたないわけで、その辺を変えていくことも 動機付けには大事じゃないかって思います。
あー、なるほどな、と思った。図書室が、本を読むきっかけになっていない。毎日通う学校がそうなら、市や町の図書館などは一層無縁だろう。だったら、大学に入っても図書館を利用しないわけだし、自分で本を買ったりもしないわけだ。W君の指摘からすると、授業のなかで図書室を利用して、ということもないのだろうし、先生が利用するということもないのかも知れない。詳細は忘れたが、朝日新聞で、高校の先生の読書時間が毎日30分以下、という調査を読んだ記憶がある。いったい、生徒に何を材料にして教えているのだろう、と疑問を感じ、あきれたことを覚えている。


たまたま、同志社の大学院で後輩だったM氏からメールが来た。彼は今、神戸の私立女子校(中高一貫)で社会科を教えている。本当に久しぶりのメールで、以前は職場でインターネットが使えるようになったから、試しに送りましたというものだったが、今回も自宅から出すはじめてのメール、ということだった。メールの中身は東京で研修があるから、ついでに河口湖に訪ねたいというもの。僕はそのメールを山形で受け取って、返事を書いた。


わが家に来た彼と再会して話したのは、まず、最近の中高生や大学生の状況とそれに対応する教師の姿勢。ここに引用したW君のメールの話をしたら、受験校では教科書以外のことを生徒に教える余裕はないんや、と一蹴されてしまった。入試問題に関係のあるものを徹底的に覚えさせ、理解させる。それを授業時間の中でやるのが精一杯で、それ以外のことをやったら、教科書が消化できなくなってしまう。彼によれば、諸悪の根元は入試方法を変えない大学にあるという。批判するつもりがかえって批判されることになってしまった。


もっとも、彼はそんな受験体制に逆らって、社会の問題を生徒に伝え、体験させる工夫をしようとしてきている。いわば、校内の反体制派なのだが、教師の中にそんな意識を共有できる人は少ないという。首にならないよう気をつけながら、いかにして授業を活性化するか。それはそれで、しんどい作業で、大学生に本を読む必要性を自覚させることに苦慮している僕以上に大変なのかもしれないと思ってしまった。

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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。