・
「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」(人生よありがとう)を作ったのはビオレータ・パラ。チリを代表するシンガー・ソング・ライターで1967年に自殺をしている。チリ民謡の研究者として、歌手として、また多くの歌をつくった人として名高いが、何より取りざたされるのは「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」の作者ということだ。
人生よありがとう こんなにたくさん私にくれて
人生は私に笑いをくれた 涙をくくれた
こうして私はしあわせと不幸を見分ける
私の歌を形づくる二つのものを
私の歌は同時にあなた方の歌
私個人の歌であるとともにみんなの歌
人生よありがとう(濱田滋郎訳)
・パラの作った「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」は歌詞のとおり、チリの人々にとって忘れられない歌になる。1970年にチリにはじめて社会主義のアジェンデ政権が誕生したとき、多くのミュージシャンがそれを支援する運動をした。それは「新しい歌(ヌエバ・カンシオン)」運動と呼ばれた。その代表はパラの歌に共鳴して歌い始めたビクトル・ハラで、チェ・ゲバラを歌った「姿現すもの」や「耕す者への祈り」といった歌をつくって、社会や政治の変革に音楽が力をもつことを実践した。ちょうど、アメリカやヨーロッパ、そして日本にプロテスト・フォークやロック音楽の嵐が吹き荒れていた頃だ。
・しかし、アジェンデ政権は軍事クーデターによって倒される。1973年9月11日(ニューヨークの惨事と同じ日)。鉱山の国有化や大農場の解体といった改革に反対する勢力の巻き返しによるものだが、裏で糸を引いていたのはアメリカのニクソン大統領だと言われている。チリは銅の輸出国だが、アメリカが備蓄していた銅を大量に放出して価格を暴落させたためにチリの経済が破綻したからだ。アジェンデ大統領が殺害され、ピノチェトを大統領にした軍事政権が成立する。
・軍事政権はアジェンデ政権を支えた勢力を激しく弾圧して、多くの人々を殺害したが、その中にはビクトル・ハラもいた。殺されていく人、それを見守る人、そして投獄された人たちが口にしたのは「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」だった。(八木啓代『禁じられた歌-ビクトル・ハラはなぜ死んだか』晶文社)
・NHKのBSが2003年9月に「世紀を刻んだ歌 人生よありがとう」を放送した。ビオレータ・パラ、ビクトル・ハラ、ピノチェト軍事政権下での弾圧を「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」を中心にして追いかけていて、なかなか見ごたえがあった。抵抗運動をして生きながらえた人、家族や友人を失った人たちが、「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」をどんな思いで歌ったか。で、さっそくCDを集めたのだが、パラの歌はシンプルで、当時の時代状況と重ねあわせて聴くと、あらためて、素朴な歌い方がもつ訴える力を感じざるを得ない。
・番組では、この歌をその後に歌いついでいった人たちも紹介していた。そのなかでメルセデス・ソーサという歌手が気になったのだが、CDを聴いてその歌唱力のすごさに圧倒された。アルゼンチンの歌手だが、アンデス山脈の麓に生まれインディオの血を受け継いでいる。1935年生まれというからもう70歳近くになる。僕が買ったのは、1991年に出されたものと、2003年に出されたもので、どちらもブエノスアイレスでのライブ盤だ。「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」は91年のCDで歌われている。軍事政権下の圧制に苦しんだのはアルゼンチンでも同じだが、2003年のライブに入っている「いつの日か来る歌」は、迫害を受けながら抵抗したビクトル・エレディアの作だそうだ。
軽い歌を私にひとつください
パンをひとかけら
その日その日の闘いを
だってこの人生がなくて生きていくのは
わたしにはできないことだから(高場将美訳)
・アジェンデ政権と軍事クーデターについては、五木寛之が『戒厳令の夜』( 新潮社、1976年)を書いている。福岡から始まって内戦のスペイン、占領下のパリ、そして戒厳令下のチリと展開する壮大な物語で、ピカソやカザルスなど美術や音楽を話題にして読む者を引っ張り込んでしまう小説で、僕は今でもこれが彼の最高傑作だと思っている。ちなみにこの小説は映画化されていて樋口可南子のデビュー作で、同志社大学のキャンパスが映し出されてもいて、今でも印象深い映画の一つになっている。
0 件のコメント:
コメントを投稿
unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。